概要
荊州零陵郡湘郷県の人。入蜀前の荊州領有時代の劉備に仕官した。劉備亡き後は遺児の劉禅・丞相の諸葛亮を支え、諸葛亮の死に際して後事を託された。
なお、「蔣琬」とも書く。「蔣」は蒋の異字体。ただ、日本語・中国語ともに、蒋琬と書くことも多い(中国語版Wikipediaでも、題名は蔣琬だが、記事中は蒋琬の表記の方が多い)
劉備に仕官した直後は、広都県長に任命されたが、仕事を放棄して泥酔する有様だった。一癖も二癖もある部下に慣れている劉備もこれには激怒し、蒋琬を処罰しようとしたが、諸葛亮は「蒋琬はもっと大きな仕事のための人物だ」と取りなした。
卓越した政治手腕を持ち、諸葛亮・費禕・董允とともに「四相」あるいは「四英」と称された。諸葛亮の北伐時には後方の補給を預かり、兵糧と人員を充足して兵站を整えた。諸葛亮に「社稷之器(国家を担う器である)」と才能を認められ、事後を託された。