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概要編集

?~253

三国志に登場する武将政治家

劉備劉禅に仕え、諸葛亮蒋琬の後を継ぎ、の国政を支えた。


略歴編集

劉備が益州を支配した頃にその臣下となった。

若い頃はとの交渉役を務め、孫権からも「お主はじきに蜀の大黒柱になるだろう」と、その才能を高く評価されている。


諸葛亮から絶大な信頼を寄せられ、仲の悪い魏延楊儀を常に仲裁していたという。


諸葛亮亡き後は、独断専行を始めた魏延を、楊儀とともに討った。その後、諸葛亮のあとを継いだのは、蒋琬であった。楊儀は「中軍師」、費禕は「後軍師」に任命されたが、これらは名誉職であり、特に仕事はなかった。つまり、干された形となる。能力のあった二人がこのような扱いになった理由は不明であるが、皇帝劉禅は、魏延が独断専行した原因について、彼を抑えられなかった楊儀や費禕にもあったと思ったのかもしれない。


費禕はその境遇に耐えたが、楊儀は耐えきれなかったらしく、ふと「諸葛亮の死後、魏に降っていればよかった」と、費禕に愚痴を言ってしまう。費禕はさすがに看過できず、これを宮廷に報告。楊儀は、それまでの功績を考慮されて処刑こそ免れたものの、庶民に落とされてしまう。


その後、費禕は蔣琬と共に国政を支える事となる。蔣琬が大将軍に登った後は、費禕が彼の役職だった尚書令を引き継ぐ。そして、蔣琬が体調を崩すようになった243年には大将軍・録尚書事に昇り、軍事・政治の最高責任者となった。


北伐に逸る姜維を窘めるなど、どちらかというと文官のイメージの強い費禕だが、244年には自ら軍を率いて曹爽郭淮軍を退けている。


253年、正月の宴席にて、酒に酔ったところを魏の降将である郭循に暗殺された。


費禕が亡くなると国政を継げる人物がいなくなり、蜀の政治は腐敗していくことになる。


人物編集

呉の天才と名高い諸葛恪を論戦で言い負かすなど、並外れた知略の持ち主であった。


すぐに敵を許してしまう寛大なところがあり、かつ日頃から警戒心の薄い人物であった。部下は張嶷は、前々から「気を付けるように」と進言していた。


遊び好きであったという。尚書令時代の費禕は日々の膨大な政事を過ちなくこなしつつも、宴席や博打事などにも遊び呆けていた。しかし、同職を引き継いだ董允がこれを真似ようとすると、数日で仕事が大きく遅滞した。董允は「人の能力の差がこれほど大きいとは。私の能力は(費禕に)全く及ばない。一日中仕事をしていても、全く余裕がないではないか」と驚嘆したという。


関連項目編集

三国志 蜀漢

諸葛亮 蒋琬

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