概要
益州巴西郡南充国県の人。
貧家の生まれだったが、若い頃から士気勇壮な人物として知られた。
20歳の時に県の功曹となった。劉備が益州を平定した時に自身がいた県に山賊が襲い、県令は家族を捨て逃亡したが、張嶷は県令の家族を助け、これを避難させた。このことを劉備から高く評価され、従事に任じられた。
後に牙門将に任じられると、ながらく異民族との戦いに身を投じた。張嶷は自らの武勇・計略を駆使して多くの異民族との戦いに勝利し、多くの異民族を帰順させた。異民族の地域も上手く統治していたことにより、異民族達から大いに慕われ、交易も成功する。
その後も軍事・行政面において大いに功績を立てて盪寇将軍に任じられ、関内侯を賜った。張嶷が中央へ召還されることになった際には、異民族の民は張嶷が乗る馬車にすがって涙を流すほど悲しみ、また百余人もの部族の王が張嶷に従って蜀へ朝貢した。
晩年は重い病に侵されながらも姜維が再開した北伐に従軍した。この戦いにおいても、狄道県令の帰順を成功させるなど知略は衰えなかったが、最期は魏の徐質との戦いで戦死してしまうも、味方の損害の倍以上の敵を殺傷した上で、徐質を戦死させた。
その死は多くの人々に惜しまれ、廟を建てて祀られた。また、恩顧を受けた多くの異民族は張嶷の陣没を聞き、涙を流して慟哭を繰り返し偲んだ。
三国志演義
『三国志演義』では正史での活躍とは打って変わって(色々と厚遇される蜀の将にもかかわらず)かなり扱いが酷くなっており、初登場の南蛮遠征では、祝融に一騎討ちを挑むもあっさり返り討ちに遭って捕縛されたり、北伐では王双と一騎討ちして流星錘を受けて重傷を負ったりするなどいい活躍が無い。
最期は魏軍に追い詰められた姜維を助け出すため突撃し、矢の雨を浴び戦死した。