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概要編集

三国時代に仕えていた将軍。字は不明(『三国志演義』では、「子全(しぜん)」。)


正史での記述は少なく、222年に魏の皇帝・曹丕の命で曹仁に従ってに遠征し、濡須への攻撃に加わったが、呉の将軍・朱桓に大敗して生け捕られ、武昌に送られた。


その後は釈放されたのか同姓同名の別人物かは不明だが228年の陳倉の戦いにも登場し、郝昭が守る陳倉城を包囲していた軍が兵糧の枯渇により撤退した時、曹真配下としてこれを追撃したが、諸葛亮の反撃に遭って戦死した。


三国志演義編集

『演義』では、60斤の大薙刀や流星錘などの武器を扱う猛将として描かれている。

陳倉の戦いで、援軍に現れた曹真軍の先鋒を任され、迎撃に来た蜀軍の将軍・謝雄を瞬く間に討ち取り、その副将の龔起も立て続けに討ち取り、さらには名将の張嶷を流星錘で重傷を負わせるという武勇を見せつけた。だが、蜀軍が陳倉から撤退すると追撃したが、単騎でやって来た魏延に一撃で斬り殺されるという呆気無い最期を遂げた。


関連タグ編集

三国志 曹魏


華雄…三国志演義では猛将として描かれ、何人も敵将を討ったが最期は自分以上の豪傑に一撃で討たれて戦死するという似たような扱いを受けている。

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