概要
并州太原郡の出身。
若い頃から魏の曹操に仕える。勇猛果敢で、異民族の蜂起や反乱軍の鎮圧で各地を転戦して武功を立て、雑号将軍となった。
彼の名を轟かせたのは、蜀の第二次北伐の時である。蜀の右将軍・諸葛亮が陳倉へ北進すると予測した魏の大将軍・曹真は、郝昭と王生に命じて陳倉城に向かわせ、城の修築を進めさせた。陳倉城は堅城だったが、攻め寄せる数万の蜀軍に対し、守備する兵士がわずか数千しかいなかった。だが、郝昭は曹真の命を厳格に守り通し、攻城兵器を出したり地中を掘って来たり同郷の靳祥から降伏を勧められるなど蜀軍はあらゆる手を使うが郝昭は悉く押し返し、二十数日に渡る攻防戦の末、ついに蜀軍は兵糧が尽き、さらに魏の援軍が向かって来ていたことから、蜀軍は陳倉城から撤退し、郝昭は陳倉城を死守することに成功した。
この戦いは、諸葛亮が直接指揮を執った戦いの中で初めての敗戦となり、しかも寡兵で大軍を退けたことで、郝昭の名は蜀全土に広まり恐れられ、彼が陳倉を防備していた間は、二度と蜀軍が陳倉に攻め入ることはなかった。
洛陽に凱旋した郝昭は曹叡からその戦功を褒め称えられ、列侯の爵位を与えられる。曹叡はそのまま郝昭を要職に抜擢しようとした。しかし、郝昭は程なく病に倒れ病没する。
三国志演義
演義でも正史と同じように陳倉城を守り通すが、病に侵されて臥している時に諸葛亮は好機と見て再び陳倉城へ進攻し、奇襲を受けて陳倉城は陥落し、燃え上がる陳倉城を見て郝昭はそのまま憤死している。