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概要

馬岱はに仕えた武将で、馬超の従弟。扶風郡茂陵出身である。

字については小説反三国志」において“仲華”とされている。

正史の馬岱

列伝は存在せず、馬超伝、魏延伝にて言及される。

『馬超伝』では、章武二年に死去した馬超の遺言の中で

「私の一族はことごとく曹操に殺されてしまい、従弟の馬岱だけが残っております。家の祭祀を継ぐ者として陛下にお託しいたします。」

という形で馬岱の名が登場し、続く記述で平北将軍・陳倉侯にまで昇格したことが記される。

『魏延伝』では、建興十二年に諸葛亮が病没した後魏延が反逆するが、手勢を失い漢中に逃げ込んだ魏延を楊儀の命を受けて追跡・討伐した人物として馬岱の名が挙げられる。

そして『晋書宣帝紀』では、建興十三年に馬岱が魏に侵攻するも牛金に敗れて撤退し、千人余りを失っていることが書かれる。

演義の馬岱

正史の馬岱の記述に反し長期にわたって活躍する人物である。

初登場は曹操暗殺の計画が失敗した際に馬騰が殺されるもただ一人生き残って、許昌から西涼まで辿りつき、馬超に馬騰の死を告げる場面である。その後馬超と韓遂の反乱に従軍しており、敗戦後も馬超につき従っている。

張魯の客将として漢中に攻め込み、劉備軍と葭萌関で交戦した際には魏延を負傷させ、一応張飛とも剣を交えているが一蹴される。

馬超の降伏と共に正式に蜀に所属すると、諸葛亮の南征北伐で軍の中核として活躍するようになる。

目立った活躍では、南征で忙牙長を討ち取り、孟獲を何度も捕え、趙雲、魏延と連携して祝融を捕縛している。

北伐では西羌軍の戦いで西涼出身者として蜀軍の案内をして雅丹を捕え、街亭の戦いで陳造を討ち取っている。

そして諸葛亮臨終に際しては、先の戦いで官職を剥奪される苦肉の計を布石に魏延軍に従う。魏延と楊儀が対峙し、楊儀が「俺を殺す者はいるかと三度叫ぶことができたら漢中を譲る」と魏延に告げ、魏延がそれに応じて叫ぶと馬岱は彼を背後から斬り殺した。

反三国志の馬岱

反三国志は蜀がを破って天下を統一するという内容の小説だが、馬超の仇打ちが物語の主題に取り上げられており、それに伴って彼が率いる西涼軍も強力な存在として脚色されている。

馬岱は第七回で初登場するが、原作と違って「許都に招聘された馬騰に不測の事態が起きた際は馬超を涼州から呼び、馬岱が率いる軍と合わせて二方向から曹操を迎撃する」という命令を受けて馬騰から扶風の駐屯軍を預けられており、西涼勢力の重要人物として扱われている(事実、馬騰暗殺後は涼州に向かう馬岱を曹操軍が兵を挙げて追撃する)。

その後、馬岱は馬超と軍を分けて扶風と長安方面にそれぞれ進軍して潼関で合流、曹操軍と矛を交えたが関中からの反乱で天水まで退却し、劉備を頼ってそのまま入蜀、史実と同じく平北将軍に任じられる。魏侵攻戦において、馬岱は諸葛亮から令箭を受けて陳倉一帯の遊撃を行って魏軍を撹乱し、馬超と合流後は長安と潼関の戦いで姜維の策謀に従って魏軍に大打撃を与える。その後は馬超の指揮下に入って中原、河北、江南と転戦し、最終的に魏と呉を打倒する。

反三国志の馬岱は、主役格である馬超の補佐役に徹する存在だが、突出しがちな馬超を諌め、戦場では堅実に策を実行し、時に自ら敵将を討ち取るなど常に確実な活躍や功績をおさめている。特に目ざましい活躍として、洛陽攻略戦では橋頭保となる孟津城をほぼ一隊で陥落させ、高唐の戦いでは李厳と共に鄧艾を討つという大戦果を挙げている。さらに物語中盤、馬岱は曹操死去が記された密書を運ぶ間者を捕縛しており、その事実が公に布告されたために魏軍は士気を大幅に削がれた。

また馬超とは実の兄弟のように親密であり、他の将が馬岱を指して“弟将軍”と呼ぶ場面も見られる。そして最終回である第59回では、戦いを共にした諸将や妹である馬雲騄と別れて西涼へ帰る馬超に、ただ馬岱のみが従って帰途を共にしている。

その他

横山光輝漫画三国志」では、人物登場回数第十一位という存在である。

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