曖昧さ回避
- 中国の三国時代に活躍した孫堅の娘、孫夫人の京劇などにおける通称。本項で解説。
- 『蒼天航路』のキャラクター。本項で解説。
- 『反三国志』のキャラクター。本項で解説。
- 『真・三國無双』のキャラクター。⇒孫尚香(真・三國無双)
- 『三国伝』のモビルスーツ。⇒孫尚香ガーベラ
- 『恋姫†無双』シリーズのキャラクター。⇒小蓮(真名)
概要
正史『三国志』巻41「龐統法正伝」に記述がある。劉備の夫人だったにもかかわらず蜀志に個人としての伝はなく、孫権の妹でありながら呉書にも一切の記述がない。名も「孫夫人(スェンフーレン)」とあるのみで諱は不明。
中国語では孫尚香をスェン・シャンシャン(Sun Shangxiang)と読む。
人物
兄たちに気質が似ていたという。赤壁の戦後、孫権は劉備との友好関係強化の為に彼女との婚姻を持ち掛け劉備も了承した。
劉備と孫夫人との結婚生活について、孫夫人の寝所の前には彼女が引き連れてきた侍女数百名は、皆武装して直立しており、その為劉備は奥に入るたびに恐怖していたという。
また孫夫人がわがままな性格であり侍女や護衛の兵士たちも勝手気ままに振る舞ったため、劉備は厳格な性格の趙雲に取り締まらせた。
また、演義で描かれているほど2人は特別に仲が良かった訳ではなく、劉備が益州に向かった際に孫権から迎えが来て、孫夫人は呉に帰国した。
この時、孫夫人は阿斗(劉禅)を連れて呉に帰ろうとしたが、諸葛亮は趙雲に命じて行く手を阻ませ阿斗を奪還した。
このことや荊州領有問題もあり、孫権と劉備の間は悪化していくことになる。
ちなみに孫夫人が呉に戻った後の記述はなく没年は不明。
蜀志法正伝によると諸葛亮は「北に曹操、南に孫権、更に内にあっては孫夫人の脅威があり、その中で我が君が志を遂げたのは、ひとえに孝直(法正)の功績である」と述べたとあるが、裏を返せばいかに孫夫人が劉備陣営で危険視されていたかがわかる。もっともこの一件は劉備軍の将たち、特に関羽が孫権に対して強い不信感を募らせる一因となり将来の劉孫同盟破綻の遠因にもなっている。
ちなみに劉備は益州平定後、劉璋の三兄・劉瑁の未亡人だった呉懿の妹を娶り新たな正室とした。呉夫人は蜀漢建国後に穆皇后と呼ばれた。ちなみに彼女は王平らが曹爽らを破った「興勢の役」の翌年である245年まで存命した。正史で劉備の正室として扱われているのは劉禅の実母・甘皇后と穆皇后のみであり孫夫人は劉備・劉禅の正室たちや息子に触れた『三国志』巻34「二主妃子伝」で立伝されていない。
三国志演義
諱は仁とされる。孫堅と呉国太(孫権の母である呉夫人の妹という設定)の間に生まれる。
劉備を呉に誘い込むための策略で劉備と結婚させられる。しかし、本人も母・呉国太も劉備を大変気に入り、荊州に帰還する際に付き従って、帰国を妨害する呉将たちを退け、劉備一行は関羽・黄忠・魏延の援軍もあり荊州にたどり着いた。
そして、孫権から呉国太が危篤である偽りの報を受け、阿斗を連れて急ぎ帰国しようとするが、
阿斗は趙雲と張飛によって連れ戻される。帰国した後に、劉備が夷陵の戦いで戦死したと伝えられ、絶望して長江へ身を投げた。
『三国志(吉川英治)』
”武勇に優れ、腰には常に弓を装備していたため「弓腰姫(きゅうようき)」と呼ばれていた”という逸話が有名だが、これらは吉川英治の創作であり、史実三国志はもちろん三国志演義にもそのような記述は一切ない。
『蒼天航路』
作中の名前は「孫燁夏」。
正史・演義どちらにもない独自の描かれ方をしている女性。性格は豪快かつ天衣無縫。関西弁を喋り、劉備を字の玄徳から「玄ちゃん」と呼ぶ。正史と違い劉備との仲も良く、劉備家臣団との軋轢もない。
継子の阿斗のことは亡き甘夫人や糜夫人(糜竺の妹)にも劣らず相当可愛がっており、阿斗は「燁さん」と呼んで慕っていた。呉への帰郷の際に阿斗(彼女の影響か言葉が関西弁)の同行を断り発破を掛けた。最後に「玄ちゃんの子供が欲しかったな」と呟き物語から消える。ちなみに燁夏の帰郷後、劉備は落ち込んでいた。
『反三国志』
演義以上に劉備と仲睦まじい。
呉国太が本当に病気で帰郷する際も、蜀に戻る事が前提で阿斗も連れていかなかった(関羽の妻に預かってもらった)。
ここで孫権が融和を翻して劉備と敵対したため、兄と夫との板挟みのあげく夫への貞節のために自殺。
長江の急流に投身したため死体が見つからなかった(ので孫家の墓にも入らされなかった)。
呉滅亡後、蜀漢の皇后として劉備と共に祀られる。
関連イラスト
関連タグ
劉尚:三国志関連作品における、劉備×孫尚香のカップリング。