概要
徐州東海郡朐県の出身。即位前の劉備の正室の一人で、糜竺・糜芳の妹。
劉備が徐州牧だった時、袁術との抗争中、客将の呂布が下邳に攻め込んでこれを占領した際、劉備の妻子は呂布軍に奪われた。この時、糜竺は劉備を援助するため、多額の金銭や大勢の小作人とともに、自分の妹(後の糜夫人)を劉備の妻として贈った。しかし2年後、家族は再び呂布に捕虜にされた。
呂布亡き後、劉備は家族を再び取得したが、翌年に劉備が曹操と争うようになると、曹操は下邳に攻め込み、関羽とともに劉備の妻子を捕虜にした。この妻子の中に糜夫人も含まれていたと思われる。
正史ではこれ以降の動向は不明だが、生別したと思われる。
三国志演義
『三国志演義』では、曹操に捕らわれたところまでは正史通りだが、関羽が曹操の元から辞するのに従い、甘夫人とともに曹操の元から離れている。その後は関羽や劉備らとともに行動し、劉備が荊州の劉表の元に身を寄せるのに従っている。
しかし、劉表の死後に曹操が荊州に侵攻して来ると、居住していた新野を捨て襄陽、次いで江陵へと落ち延びていく。
しかし、長坂に差し掛かったところで曹操軍に追い付かれてしまい、混乱した戦場の中で、糜夫人は幼い阿斗(後の劉禅)とともに劉備と離れ離れになる。
その後、井戸の傍にいるところを趙雲に発見されるが、糜夫人は左の腿を槍で突かれ負傷していたため、自らが足手まといになるのを恐れ、阿斗を趙雲に託し、井戸に身を投げ自殺してしまった。