概要
三国時代の武将。徐州東海郡朐県の人。兄は糜竺。妹は糜夫人(劉備の夫人)。
陣営を変える武将も多い三国時代だが、その中でも糜芳は劉備、曹操、孫権の三英傑に仕えるという、かなり珍しい経歴を持っている。
糜家の先祖は代々利殖に励み、家は非常に裕福で巨億の資産を有していたという。
徐州牧の陶謙に兄と共に仕えていたが、陶謙の死後は小沛に駐屯していた劉備を新たな徐州牧に兄と共に迎える。劉備に魅力を感じていたようで、持っていた資産を惜しみなく劉備に支援している。
呂布によって追われ、劉備は曹操の元で過ごすことになる。この時、糜竺、糜芳の兄弟は、曹操から評価され、糜竺は嬴郡太守、糜芳は彭城国の相に任命された。しかし、劉備が曹操の元を離れると、糜竺、糜芳も曹操から任命された職を捨てて、劉備に付き従った。
赤壁の戦い後は、劉備が荊州南部を領有する過程で糜芳は武陵太守に起用されたとのこと。また、おなじく徐州出身の諸葛亮とともに劉備軍の後方支援を担当することになった。
劉備が益州に入った後、関羽は荊州総督となった。糜芳は南郡太守に任じられ、公安を守る士仁と共に荊州の防衛を任された。しかし関羽が彼らを軽んじていたこともあり、かねてから折り合いが悪かった。
関羽が北上して樊城攻略を開始すると、糜芳と士仁は物資補給などを行なうだけで、全力で支援しようとしなかった。また、南郡城内で火事が発生して物資を燃やす失態を起こす。これらの不始末を聞いた関羽は「帰ったら処罰してやる」と、糜芳を激しく咎めた。
これ以降、糜芳は関羽を恐れるようになってより一層険悪となり、このことを知った呉の孫権が糜芳と内通するようになり、ついには士仁とともに呉へ寝返った。
なお、史書によって微妙に降伏した経緯が異なり、上記は「関羽伝」の記述である。一方で、「呂蒙伝」には糜芳は城を守っていたが、先に降伏した士仁が呂蒙と一緒にいるのを見て、負けを悟り降伏したとされる。
これ以後、糜芳は呉の将として仕えることになった。223年には孫権の命で賀斉の配下の武将となり、反乱軍を討伐していた。
ちなみに、『季漢輔臣賛』によると、糜芳らは蜀呉二ヶ国で裏切り者として笑いものになったという(ただ、ここには呉で孫権から絶大な信頼を受けた潘濬まで含まれており、本当なのかは不明)。
また、兄の糜竺は弟の裏切りに対し、自らに縄を打って劉備に出頭して弟の代わりに処罰を請うたほど憤激し、そのまま病気を発病してわずか1年後に亡くなってしまう。
「虞翻伝」では、呉の重臣・虞翻はとりわけ糜芳に厳しく接していたようである。虞翻が糜芳と船ですれ違った際、糜芳の部下が「将軍の船のお通りだ」と言うと、虞翻は「裏切り者で任された城を守れなかった奴が、どうして将軍を名乗っている?(要約)」と罵倒した。また、ある時に虞翻が糜芳の軍営の前を通りかかると、役人が軍営の門を閉ざしていたため、通れないということがあった。虞翻はまた腹を立て「閉めるべき時に門を開けて、開けるべき時に門を閉ざすとは、お前は何を考えているんだ?(要約)」と再び罵倒した。糜芳はこれに恥じ入り、門を開けさせた。
三国志演義
関羽が死んだきっかけとなった一人であるため、演義ではかなり扱いが悪い。
『三国志演義』では、長坂の戦いで劉備の一族を捜索していた趙雲を見掛けると、敵の曹操軍の方へ向かったのを投降しに行ったと早合点し劉備に讒言している。
史実と同じく呉に投降した後、劉備が関羽の敵討ちで呉討伐(夷陵の戦い)を開始した際、自身も傅士仁(史実では士仁という名)とともに呉軍として従軍していた。だが、敵討ちに燃える蜀軍の進攻に戦況は押される中、糜芳は陣内の見回りの時に、自分の部下達が自分と傅士仁を殺してその首を持って蜀に投降しようと画策していることを聞いて驚愕し、急いで傅士仁に相談。劉備の親戚であるから処刑されないと考え、先にこちらの指揮官の首を持って投降しようと目論見、傅士仁と共に指揮官の馬忠(関羽を捕らえた仇敵の一人)を殺し、その首を手土産にして蜀軍に戻る。しかし、関羽を裏切ったことへの劉備の怒りは収まらず、劉備自らの手で傅士仁と共に斬り殺されている(吉川英治版及び横山光輝版では、関羽の次男・関興に斬り殺される)。
なお、史実では蜀に戻ってきたという記録はなく、そのまま呉で武将として生涯を終えたものと思われる。