概要
揚州丹陽郡の人。
幼い頃から好んで学問に励み、やがて太学に行った。地方に戻ると郡・州の役人となり、盧県県令に任命されたのを皮切りに、幽州刺史に昇進した。
徐州で黄巾党の残党が蜂起すると、徐州刺史に任命されてその討伐にあたった。
193年に、曹操の父である曹嵩とその一族が自身の勢力圏内で襲われて皆殺しにされる事件が発生。陶謙が襲わせたという噂もあり、父を殺された曹操は激怒して大軍勢を率いて徐州に侵攻した。
一度は兵糧不足で曹操軍は退いたものの、この侵攻で数十万規模の住民が虐殺され、豊かだったが徐州の地も滅茶苦茶にされてしまう。この戦いでは、公孫瓚から援軍として劉備が来ており、陶謙は劉備を引き留め、豫州刺史に推挙し小沛に駐屯させた。
再度、曹操が徐州に侵攻したが、曹操の本拠地である兗州で、陳宮らが呂布を引き入れ反乱を起こしたため、曹操軍が撤退することになり、危機を脱した。
しかし、陶謙は病で重篤に陥り、糜竺に徐州を劉備に譲るよう遺言を託し、間もなく死去した。
三国志演義の陶謙
演義では名君として描かれている。
曹嵩とその一族が曹操の元へ向かう途中、一行が徐州を通っていると知った陶謙は曹操との縁を得ようと曹嵩達を城に招いて持て成した。
曹嵩達が出立する際、配下の張闓とその手勢を護衛に付けたが、張闓達は元黄巾党で陶謙に征伐されて降伏して配下となった過去を持つ。張闓達は日頃から不満を抱いており、曹嵩達の財宝に目が眩んで襲い曹嵩達を皆殺しにして財宝を奪って逃亡した。
陶謙は自分の采配ミスと認めて攻めて来る曹操に自分の首を差し出そうと考えていたが家臣達に説得され、わずかな望みにかけて各地に援軍を要請し、唯一それに応えた劉備に感銘を受けて劉備に徐州を譲ることを決める。