概要
魏の宗族の一人。
父は不明だが、伯父は夏侯淵。
若い頃から計略・智謀に優れており、特に曹丕から高く評価され、親友として身分を越えた付き合いをしていた。だが、杜襲からは「夏侯尚は人を益しない友人である」と酷評され、人となりを危惧されていた。
魏国成立後、代郡で烏桓が反乱を起こすと、曹彰に従ってこれを征討した。曹操が洛陽で死去すると、夏侯尚は曹操の柩を護衛し、鄴に帰還した。
曹丕の皇帝即位後、蜀の勢力下だった上庸で、上庸を任されていた劉備の養子の劉封と宜都太守の孟達が、荊州の関羽を結果的に見殺しにしてしまい、立場が悪くなっていた。そこに、孟達が魏に降伏を申し入れて来たため、夏侯尚は上庸を奇襲することを提案し、孟達・徐晃と共に上庸を攻撃し劉封を撃破。上庸を含む3郡9県を魏の版図に収めた。
222年、呉を三方面から攻めようとすると、夏侯尚は曹真・張郃と共に江陵を包囲し、夏侯尚は諸葛瑾と対峙した。夏侯尚は下流から密かに長江を渡り夜襲をかけ、敵の水軍を火攻めし、大いにこれを破った。しかし、後に魏軍内で疫病が流行したため、夏侯尚は詔勅により退却せざるを得なかった。
そんな中、夏侯尚はとある愛妾を寵愛し、正室を蔑ろにしていた。正室は宗室の出身であったため、これはいかんと思った曹丕は刺客を送ってその愛妾を殺させた。だが、夏侯尚は愛妾の死を深く嘆き悲しみ、埋葬した愛妾の墓を掘り起こすほどの精神に異常をきたしていた。
225年、病が重くなり、その翌年に亡くなる。
三国志演義
演義では、漢中を巡る戦い(定軍山の戦い)の時に初登場。夏侯徳という架空の兄が存在する。
劉備軍の黄忠と戦って捕らえられてしまう。その後、先に捕虜にしていた敵将の陳式との捕虜交換を行うが、自軍に辿り着く前に背後から黄忠に矢を射られ重傷を負う。
その後、上庸の孟達が謀反を起こすと史実通りそれを救援し、劉封を撃退している。