概要
荊州南陽郡宛県出身。当時の荊州太守・劉表に仕え、荊州北部の守備を任された。のちに彼の息子の劉琮が後継ぎになるが、すぐに曹操が大軍を率いて南下を始めた際、劉琮は蔡瑁らの進言により降伏を決めてしまう。その際、文聘は「荊州を守れなかったから処罰を待つべきです」と言って劉琮の降伏命令に応じなかった。
その後、曹操に呼び出されてようやく出頭した際、文聘は「荊州を守ることができず、悲しみと恥ずかしさのあまりお顔を会わせることができなかった」と涙を流した。それを見た曹操は「仲業、卿は真の忠臣である」と旧主に対する忠義を賞賛し、彼を厚く遇した。曹操は文聘に曹純とともに劉備を追撃させた。荊州が平定されると、曹操は文聘を江夏太守に任命し、関内侯の爵位を与えた。
その後、文聘は江夏を数十年に亘って守備し続け、呉軍の侵攻を幾度となく防ぎ、ついに江夏が陥落されることはなかった。文聘の威光や恩愛は敵国にも轟き渡り、誰も侵攻することができなくなったという。
三国志演義
演義では蔡瑁と蒯越の劉備暗殺の際、宴会の席で蒯越から劉備が国を乗っ取ろうとしているという嘘を王威とともに信じ、劉備の護衛の趙雲を引き離すという任務に加担している。
正史と同様の態度で曹操に感嘆されたが、劉備の追撃で彼から不忠を咎められた際、それを恥じて撤退している。