概要
中国語ではチャン・リャオ(Zhang Liao)と呼ぶ。
字は文遠。
本名は聶遼。先祖聶壱の所作により彼の一族全体が単于の恨みを買っており、復讐を避けるために姓を「張」に改めたという。
出身は北方の并州。
はじめ、丁原に才能を見出される。その後、何進、董卓、呂布、曹操となし崩し的に主を変えることになったが、その悉くで前線指揮官として重用され続けた乱世の勝ち組。
最終的に仕える事となった魏の曹操陣営では様々な戦局で功績を上げ、魏の五将軍でも筆頭に数えられる。
重要な戦では先陣や別働隊を任されたり、大将旗を預けられるなどしており、曹操亡き後も文帝(曹丕)に重用された。
子の張虎も地味に出世している。
評価
- 唐代の史館が選んだ『武廟六十四将』(中国史上の64人の名将(『新唐書』巻15))のうちの一人に選ばれている。
- 魏の将で選ばれているのは他に鄧艾一人である。
戦績
官渡の戦い~異民族討伐
官渡の戦いに従軍して曹操が袁紹を破った後、曹操はその息子達を相手に、華北平定の戦いを起こした。張遼はこの戦いにも従軍して、袁紹の息子たちの軍勢をたびたび破り、各地の勢力を撃破、あるいは交渉で説得して曹操に帰順させた。華北での戦いにおいて曹操は、帰還した張遼を自ら出迎えて、自ら手を引いて車(馬車)への同乗を許した(当時の君臣の関係を考えれば、破格の扱いであり他に許されたのは寝室にも入ることを許された夏侯惇位である)。
その後追いつめられた袁紹の息子達が異民族・烏桓を頼ったため、曹操は烏桓の征伐を決意し、張遼もそれに従軍した。
烏桓は曹操軍の来襲に備えていた為、曹操は、敵の背後を襲う作戦を立てた。戦いの最中両軍は突然鉢合わせる事態に陥ったが、このとき張遼は怯むことなく奮戦し敵を打ち破った。
この時曹操から大将旗を授けられている。
昌豨の乱での単身訪問
東海で昌豨が劉備に味方して、反乱を起こした。張遼は夏侯淵とともに包囲したものの、数か月経ち兵糧が尽きたため引き揚げが論議された。
張遼は夏侯淵に『自分が昌豨の説得してみる』と同意を得て説得を試みた。昌豨が申し入れに応じて降伏した時、張遼は単身で昌豨宅を訪問し、家族に挨拶した。昌豨は歓喜し、曹操のもとに出頭した。後日曹操からこの件について「大将のやり方ではない」と叱責を受け、弁明した。
軍内での騒ぎ
あるとき軍中に反乱を企てた者がおり、夜間に騒ぎを起こして火を放っという情報が広がった。
皆大いに混乱していたが、張遼は言う。
「動いてはならぬ。これは営内の全員が背いたわけではない。異変を起こした者がいて、みなを動揺させようとしているだけだ」
そこで、反乱と関係のない者は落ち着いて座っているよう命ずる。張遼が数十人の親衛兵をひきいて軍営の真ん中に立つと、ほどなく混乱は収まり、首謀者を捕らえて殺すことができた。
陳蘭・梅成の討伐
陳蘭と梅成が異民族・氐(てい)族反乱を起こしたので、曹操は于禁、臧覇に梅成を、張遼には張郃、牛蓋とともに陳蘭を、それぞれ討伐させた。
偽装降伏にだまされ于禁らが帰還してしまうと、そのまま梅成は手勢を引き連れて陳蘭と合流し、向きを変え灊山へ入ってしまった。
灊山の中に「天柱山」という高く険しい山があり、20余里にわたる道は狭くて危険なうえ、やっと人が歩けるような小道が通じているだけだった。陳蘭はその山上に砦を築いた。
天柱山は高く険しく、歩いていける道が通じているだけだった。しかし張遼は将軍らの反対を押し切り、「これは一対一というやつだ。勇者なら進むことができる」と言って突き進み攻撃を仕掛けて陳蘭と梅成を斬り、配下の軍勢を捕虜とした。曹操は戦功を高く評価した。
尚、この話が元か定かではないが、「蒼天航路」の烏丸討伐時の単于の蹋頓(とうとつ)への奇襲や「三國無双」シリーズの合肥の戦い(4、5、6、7)、濡須口の戦い(7)、長坂の戦い(7)の奇襲ムービーでは高い所から飛び降りたり、駆け下りたりするシーンが多い。
合肥の戦い
彼を語るに辺り、決して外す事が出来ないのがこの戦い。
一言で言うと、なんとリアルに三國無双をやってのけてしまったのである。
具体的に言うと――
- 10万とも言われる呉軍に対してたった7~800騎程度で突入。
- そのまま孫権の本陣に切り込み、陳武を討取り、徐盛を負傷させる。その際大将旗を奪う(ただし混戦中に賀斉が取り返した)。
- 当然のように何重にも包囲されるが、それを軽々突破。
- 孤立した兵に助けを求められるやいなや、なんと包囲の中に再突入・再突破し見事救出成功。そのまま半日近く戦い続ける。
- その北に南にの大暴れっぷりに恐れをなしたのか、孫権は後退。結果、僅か7000の兵でそのまま合肥死守を達成。
- ついでに曹操の本隊到着前に領内に引き返そうと後退を始めた孫権を追撃。甘寧、呂蒙、凌統などの名だたる将と戦いながら、またも孫権に肉薄。
以上は全て三国志演義ではない。陳寿のまとめた魏書(つまり脚色されていない正史)の方に載っている話である。しかも呉の史書においても張遼の脅威が記されている。
ちなみに戦後、呉軍の降兵に「長身で胴長短足、碧眼の将がいたがあれは誰か?」と問いかけると「それが孫権さまです」と答えられた為、「そうと知っていれば捕まえていたのだが」と残念がっていた。これにより孫権にとっては手痛い敗戦の記録だけでなく後世まで容姿の微妙なところまで伝わることとなってしまったのである。
何はともあれ、この後に孫権は張遼を大変に恐れ、江東の兵は「遼来遼来(張遼が来るぞ、の意。吉川英治版『三国志』では「遼来々」と表記される)」と叫ぶだけで浮足立ったらしい。
…総合的に見て、三国志最強争いに名を連ねる男と言っても過言ではない。
「泣く子も黙る」
この時の活躍が元で、江東では泣きやまない子供に対し、上記のように「張遼が来る」と言いきかせるとたちまち泣き止んだという逸話があり、これが「泣く子も黙る」の語源となったようだ。
彼が病床にあった時においてすら孫権が張遼を恐れるほどで、孫呉に対するまさしく鬼門と呼べる存在であった。
なおこの時張遼が合肥を守りきれなければ、魏の都の窓口である合肥を手に入れた呉は蜀と結託して魏を本格的に攻めることが可能となった筈である。
そしてそうなった場合、呉の荊州進攻・樊城や夷陵の戦いはなく、魏を潰した蜀と呉による天下二分が実現していたのかもしれない。
見方によっては、張遼は三国膠着という状況を確定づけた一人とも言えるだろう。
張遼に関する言説
白馬篇
曹植の詩「白馬篇」に詠われる武者の姿は、207年の烏桓討伐時の張遼をモデルにしているのではないかと言われている。
対人関係
上司・部下からの人望が厚く、政敵と呼ばれる人物もいなかった為周りとは友好的な関係を築いていたと思われる。
関羽
関羽とは敵味方ながら互いを尊敬する仲であり、正史、演義ともに関羽と友情を結んでいる。
上司
曹操からは車に同乗させてもらったり(他に許されていたのは夏侯惇位)、ドSで有名な曹丕からすら気に入られVIP待遇を受けた。演義においては、曹操から白楼門で衣服を賜った(目上の者から自身の衣服を賜るのは当時とても名誉な事であった)。
部下
病床時には合肥で参加した決死隊の部下が見舞いに訪れ、道にあふれかえっていたという。その決死隊の部下は後に全員出世し近衛兵となっている。
同僚・その他
- 張遼自身重用されていたが外様であった事もあり、李典・楽進とは日頃より折り合いが悪くその仲の悪さは有名であった。しかし彼らは私事より国事を優先できる将だったことも有り、合肥の戦いにおいては私事を交えず力を合わせて戦った。
張遼は部下の武周とささいな事で仲違いをしていた。あるとき張遼は胡質の評判を聞き、部下にしたいと考えて温恢を通して勧誘をした。
しかし胡質が病気を理由にそれを断ると、張遼はわざわざその理由を尋ねるために胡質の元へ行きその理由を尋ねた。胡質は張遼に「武周は正しい人物です。張遼殿は昔、武周を尊敬しておられましたが、今は仲違いされております。ましてや私のような拙い者では、張遼殿とうまく付き合えないと思うのです。」と答えた。
これを聞いた張遼は感心し、その後武周との仲違いを解消した。
胡質と武周は演義では目立たないが、正史ではいずれも傑物とされ、武周については臧覇から尊敬されていた。
呂布軍時代からの知己。
陳蘭・梅成の乱、濡須口の戦いで張遼と共に戦った。
濡須口の戦いでは張遼と共に先鋒を務めた。
この時、大雨が降って水位が上がり本軍が後退したため、孫権軍が迫ってきており、軍では不安が広がっていた。張遼は撤退を考えたが、臧覇は『殿(曹操)が自分たちを見捨てることはないから命令を待つべきだ』と反対した。
果たして次の日に撤退命令があり、張遼はこのことを曹操に語った。
曹操はこれを良しとし、臧覇を揚威将軍に任命し、仮節した。
蒼天航路や三國無双ブラストでは気が置けない旧知の仲として描写されている。
- 家族構成
父は不詳。兄に張汎、息子に張虎がいる。
曹丕の代に張遼の功績により兄、息子に爵位が贈られ、母には御殿が建てられた。
メディアにおける張遼
ほとんどの作品で漢らしい武人とされ、キャラブレイクは少なく、かませ犬化がない。
三国志演義など
当初は呂布の部下として登場。正史における高順に代わり思慮が浅く義よりも利益を優先する呂布に諫言する役割が多かった。
下邳の戦いで敗れた際には命乞いをした挙句窮地を救ったにもかかわらず裏切ったことから処断を提案した劉備を罵った呂布を「呂布殿!見苦しい真似はやめられよ!」と一喝し自ら首を差し出すが、智勇と忠義を見込んだ関羽のとりなしもあって曹操の軍下に加わった。
吉川英治版では赤壁後の合肥防衛戦で宋謙を討ち取り(演義では討ち取ったのは李典)、勝利に浮かれた部下等に「勝ったのは、昨日のことで、今日はまだ勝っていない。明日のこともまだ勝っていない。いわんや全面的な勝敗はまだまだ先が知れん。およそ将たるものは、一勝一敗にいちいち喜憂したりするものではない。」と諭している。その後、太史慈の謀反の偽計に気づき、逆に罠にはめて太史慈を討取る事に成功している。また、官途の戦いでにおいては袁紹軍の二枚看板の文醜に苦戦した描写がある。
変人の禰衡が曹操の配下を悪口を言う場面では、張遼は『太鼓叩き』と言われた。
正史では死因は病死だが、演義においては一年延命しており、曹丕を丁奉の矢から庇って負傷した傷が原因で陣没とされている。この点は柴田錬三郎版も同様。
横山光輝版「三国志」
地味。登場期間は長い割に出番は少なく李典の方が目立っている。楽進同様、登場当初から退場まで鎧甲の衣装デザインが変わらない。平服描写は関羽千里行のシーンのみで見られる。
しかしかっこ悪い描写は皆無であり、曹操軍に囲まれ「もはや、これまで」と血気に逸る関羽に劉備の妻子を助けるためにも曹操に降るよう説得したシーンがある。
また、曹操の参謀・軍師として、アニメ版の赤壁の戦いでは助言をしている。三国志演義に忠実な活躍を見せるが、本作品の彼の呂布軍時代の描写はない(辛うじて名前のみ)。
孫権勢力では数少ない豪傑である太史慈を討ち取る武功が描かれている。
- 太史慈と数十合にわたる互角の一騎打ち
- その晩、太史慈が仕掛けた間者による放火、および夜襲を寝台で横になっていたが寝ていなかったため看破
- その策を逆用して兵を潜ませ、門を開け放ち、突入してきた太史慈隊を一斉射で殲滅、太史慈を討ち取る
という、まさに知勇兼備と呼ぶに相応しい活躍を見せ付けた。
因みに、演義での張遼の戦死について一部で股間または下腹部に矢を受けて退場というイメージがあるが、多分本作からである(三国志演義においては、腰に受けた矢傷が元で陣没とされている。本作では矢の負傷シーンのコマで下腹部辺りに矢を受けているように見える。その後自力で馬に乗って本陣に帰ったあとナレ死のような退場となっているので、直撃ではないはず…)。
漫画「蒼天航路」
最強を求め続けている武人。青竜刀を武器とする。名セリフが多く、この漫画をきっかけに張遼ファンになった人も多い。合肥の戦いでは鬼神のごとくの強さを見せた。曹操軍に加わるシーンは同じコマで死亡している高順との対比もあって非常に目を引く。最後は病死だが横山版同様、ナレ死のような退場となっている。
「三国伝」
ガトー専用ゲルググ。呂布軍を経て曹操軍に下る。
アニメ版では呂布との決別の仕方が他メディアと異なり、呂布と対決する展開がある。
「三国志艶義」
スケベと女体化キャラ達の中でまとも。
イケメンだが極度の馬フリーク。高順を尊敬している。
「恋姫†無双」
詳しくは霞を参照。
「火鳳燎原」
刺客として描かれ、呂布に心酔している。
「十三支演義」
声:遊佐浩二
作中穏やかな印象が受けるがつかみどころのない人物。設定が特殊。
「真・三國無双」シリーズ
詳しくは張遼(真・三國無双)を参照
「三国志大戦」シリーズ
SR張遼
魏勢力が得意とする騎兵特化「神速デッキ」の要。金ぴかの鎧に身を包んでいる。三国志大戦4(さんぽけ)ではデザイン変更有。
R張遼
野性的な風貌である。初期のver.イベントでは董白と絡みがあった。
「三國志戦記2」
呂布が認めた武将。呂布の娘・呂玲綺となにかフラグめいた会話がある。
(ちなみに後の無双7でも、戦場に立つ呂玲綺のお守りを仰せつかるといった関係もある)
攻略ルートにより呂布軍・曹操軍と所属が異なる。
「コーエーテクモゲームス 三國志シリーズ」
初期能力が高く、ステータスの伸びも良く寿命もあるため最初から最後まで使える。
「コーエーテクモゲームス 三国志英傑伝シリーズ」
- 「三国志英傑伝」
劉備及び蜀が主役の為、敵として登場。
IFルートである条件を満たすと、仲間に出来る。ステータスも優秀。最終決戦では劉備軍の一員として司馬懿やその息子たちと対戦する。
だが、仲間にしない場合の彼との最後の会話は一見の価値あり。
- 「三国志孔明伝」
こちらは諸葛亮及び蜀が主役であるため、やはり敵として登場するが序盤で退場。
- 「三国志曹操伝」
こちらは曹操及び魏が主役。曹操軍加入後は活躍の機会が多い。
「天地を喰らう」
RPG版(1、2)とアーケード版(アクション)に登場する。
RPG版では総合スペックが高く、計略がとおりにくい。2作目においては総合スペックが全キャラ中4位。
ツンデレ。結構苦労症。とある理由から曹操を俺が殺すと執着している。
映画「劇場版アニメ 三国志」
CV.中田浩二。魏将の中では優遇された扱いで、孤立した関羽を説得したり、敗走した曹操を護衛したりと要所要所で重要な働きをしている。
映画「レッドクリフ」
第一部にて登場。モブ扱い。
関羽が曹操に青龍刀を投げつけた後逃がされた際、「丞相、何故に…」と言ったあの人。
第二部にも微妙に登場しており、
孫権が矢を放つ→周瑜よける→曹洪が周瑜に斬りかかる→曹洪が周瑜に足を刺される→張遼が斬りかかる→曹洪がさらに斬りかかろうとして蛇矛を食らう
と、一連の動きの中に混じってはいるものの周瑜の見事なスルースキルで撃退されている。
しかし楽進が腕を落とされて死んだり(他メディアと異なる)、許褚が行方不明になったりと魏武将の扱いが散々なこの映画の中で、曹操・曹洪と並んで生き残っているというのは凄いと思う。
「KAN-WOO/関羽 三国志英傑伝」
主人公の関羽、曹操に次いで活躍する。
「最強武将伝 三国演義」
三国志演義に忠実の活躍を見せる。
MTG「合肥の勇将 張遼」
黒の6マナで3/3。手札破壊の追加効果を持つが、明らかにマナコストとスペックが釣り合っておらず、雑魚すぎるレアカードとして語り継がれている。
「反三国志」「反三国志関雲長北伐記」
基本魏オワタのストーリーの中でも例外的に優遇されている。
「張遼(ちょうりょう)| 桐谷正著」
張遼を主人公とした小説。主に曹操、関羽との交流を通じて成長していく過程が描かれている。張遼の母のエピソードがある。
「呂布が起つ!」
タイトル通り呂布が主人公の作品。
関羽に優れた人物でありながら、何故呂布の配下になっているのかと問われた際に、自分は強い者が好きだからと答え、次に呂布に勝つ者が現れたらどうすると問われた際、考えてもなかったような素振りをみせながら、そうなったら自分はその相手に臣従するかもしれないと答えた。
(このすぐ後の張遼の行く道を示唆している台詞である。並の人物が発したら忠誠もなにもあったもんじゃない台詞だが、張遼だからこそ筋の通った流れになっている。)
なお、関羽の方はこれを聞いて自身の青龍偃月刀の予備を贈った。
理由は関羽自身は正直者が好きだからであった。
ニコニコ歴史戦略ゲー・iM@S架空戦記シリーズにおける張遼
ニコニコ動画では、三国志を題材にしたゲーム・漫画の登場人物として扱われる。その中でも、iM@S架空戦記シリーズでは名将として描かれることが多く、概ね良い扱いをされている。
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