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概要編集

徐州瑯邪郡出身。時期は不明だが戦乱を避けて呉に居住したことで度胸と義に厚いと知られ、孫策の代からに仕えていた。

孫権が後を継ぐと柴桑県長となり、江夏の黄祖の侵攻を食い止める役目を担い、侵攻して来た敵軍の大軍をわずかな寡兵で打ち破ったことで校尉となり、蕪湖県令になった。

曹操軍が濡須に攻め寄せると、徐盛も戦いに赴き、曹操軍が横江に押し寄せたためこれを迎撃したが、その時軍船が強風によって流され、敵中に孤立してしまった。味方の誰もが恐怖に震え上がったが、その時徐盛は自ら敵中に突撃し、それを見た見方も続いて敵に突撃をかけたため、曹操軍は多くの損害を受けて撤退させることに成功する。


221年には、一時的にへ臣従していた孫権が呉王の位を与えられることになったため、魏の使者の邢貞が訪れた。邢貞が傲慢な態度をとったため、張昭をはじめ群臣達が激怒する中、徐盛は堂々と一歩進み出て「我等が過去に劉備如きを併呑できなかったがため、今は魏如きと盟約を結ぶ事となってしまった。このような恥なことは無い」と言い放って号泣した。これを聞いた邢貞は甚く感服し、呉がいつまでも臣従しないであろうと語った。

その後、徐盛は建武将軍となり、都亭侯に封じられた。さらに、廬江太守となり、臨城県を奉邑として与えられた。


蜀漢の劉備が夷陵に攻め寄せると、陸遜達とともに迎撃し、撃退に成功し手柄を立てた。逃れた劉備を捕らえるために、孫権に潘璋らとともに追撃を上奏したが、孫権は曹丕に備えるべきとする陸遜の意見を聞き入れてしまう。

今度は魏の曹休が洞口に攻め寄せると、呂範全琮らとともに長江を渡って迎撃し、暴風雨により多くの船や人員を失うも、曹休の攻撃を防ぎきった。その後、安東将軍・蕪湖侯となった。


224年、曹丕が自ら大軍を率い長江沿いに南下してきた。徐盛は、兵力で大きく劣る呉軍がまともに戦っても勝算は乏しいと踏み、沿岸に数百里におよぶ偽の城壁を建造しようとした。諸将の反対を押し切って偽の陣を築くと、広陵に到着した曹丕が偽の城壁を見て「呉には未だ人材が多く、攻め取るのは難しい」と判断し、撤退させることに成功する。


黄武年間(222年-229年)に没し、子の徐楷が後を継いだ。


三国志演義編集

新たに呉の国主となった孫権が人材を募集した時、招かれて家臣となった一人として登場する。

丁奉とよくペアで行動することが多い。


曹丕が攻めてきた時、自ら志願して総大将になる。しかし、副将の孫権の甥、孫韶が徐盛の命令を聞かず逆らうため手を焼き、ついに堪忍袋の緒が切れて処刑しようとする。それを知った孫権が慌てて駆け付けて執り成したため処刑を取り止めたものの、その後に孫韶が独断で魏軍に攻め入ったため、徐盛は副将の丁奉に命じて支援してやり、自らも偽城の計を成功させ魏軍を追撃、火攻めで赤壁の戦いに匹敵する大損害を与えた。


主な登場作品編集

真・三國無双シリーズ

CV新垣樽助

徐盛(真・三國無双)を参照


反三国志

呉軍の大黒柱として敵将のなかでも破格の扱い。終盤で誇り高い死を遂げると抵抗力を失った呉は滅亡まっしぐら、一方で遺った食客がせめてもの恩返しに奮闘した結果劉禅の暗殺に至る。



関連タグ編集

三国志 孫呉 孫権 丁奉

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