概要
豫州汝南郡細陽県の出身。
風采が良い容貌といわれている。
威儀を好む性格で、そういった立ち居振る舞いを行っていた。一方で豪奢で派手好きな面もあった。
若い頃に県の役人をしていたが、戦乱を避けて袁術が治める寿春に避難し、そこで当時袁術を頼っていた孫策と出会い、彼に評価されたことで呂範は孫策を自分の主君となる人物と見定め、側近として仕える。
孫策が江東進出を開始した時は呂範も同行し、孫策とともに各地の敵対勢力を攻略した。
222年の第四次濡須口の戦いでは、侵攻してくる曹丕率いる魏軍を迎撃するために呂範は軍を率いて洞口に向かい、曹休らの軍と対峙した。しかし、天候が悪化して暴風雨に襲われ、船は相次いで転覆したり流されたりなど大混乱となり、その隙を魏軍に攻撃されて多大な被害を受ける。
しかも、孫権の異母弟・孫朗が勝手に火を用いて、自軍の軍用資材を焼失する失策を犯してしまう。呂範は孫朗達を江南に送り返し、自分は残って水軍を指揮して戦線を維持することに成功した。その後、援軍に来た賀斉の船団と合流した後、反撃に出て呂範が諸将達を指揮して共に魏軍を破り敗退させた。
228年に大司馬に昇進するも、まもなく死去した。
三国志演義
風貌は若い美男子として描かれている。当初は袁術配下の軍師であったが、袁術からの独立の密議をする孫策と朱治とが行なっていることを聞きつけ同心することを申し入れ、孫策の配下に加わっている。
孫権の時代には、孫権に周瑜と共に婚礼のために呉を訪問していた劉備の暗殺を進言し、部将の賈華に命じて手勢を忍ばせて実行しようとした。しかし、その刺客の存在を劉備の護衛の趙雲が勘付いて劉備に密告し、劉備が孫夫人の母・呉国太にそれをバラしてしまう。激怒した呉国太は孫権に問い詰めるが、孫権は呂範に擦り付け、呂範も賈華に擦り付ける。呼び出された賈華は呉国太に問い質されるが、主君の命令だと言えるはずがなく押し黙ってしまい、呉国太に処刑を言い渡されそうになるも、劉備達が宥めたことで手勢を撤収させて追い出されることで事なきを得る。
余談
pivix内では単に「呂範」と検索すると、瀬呂範太がヒットするため、完全一致で検索することを勧める。