概要
兗州陳留郡圉県の人。娘は蔡琰(蔡文姫)、外孫に羊徽瑜・羊祜。
孝心篤い性格とされている。若い頃から博学で、辞章・算術・天文を好み、音律に精通した。
桓帝の時代に自身の鼓琴の腕前を聞いた中常侍らに招聘を受けていたが、病と称して断って古文を研究して暮らしていた。
霊帝の時代に橋玄から司徒府へ招聘されたことで朝廷に仕える。
当時、誤った文章が多い儒学の経典が広まっていたことで、それを正すべく著名な有識者達とともに六経の文字を校訂するように霊帝に奏上。それが認められると、蔡邕自らが執筆した全46枚、総字20万字に及ぶ石碑(熹平石経)が洛陽太学門外に立てられた。
宦官達の専横を厳しく批難したことで宦官達の恨みを買い、冤罪を掛けられて失脚し、故郷に戻ったが、そこでも宦官の親族と揉め事を起こして揚州に亡命した。
董卓が朝廷を牛耳ると、蔡邕の高名を聞いて招聘した。蔡邕は一度は病と称して断ったものの、激怒した董卓に強引に招聘される。董卓は蔡邕の才学を重んじて珍しく厚く待遇していた。
董卓が王允と呂布らによって暗殺されると、彼の死を嘆いていた。それを見た王允は激怒し、投獄された。蔡邕は謝罪し、死罪以外の罰を受ける代わりに漢史の編纂を続けさせて欲しいと頼み、他の廷臣達も王允を諫めるも聞き入られず、最終的に獄死してしまった。