概要
青州東萊郡牟平県の人。漢の宗族の一人。兄は兗州刺史の劉岱。
揚州刺史に任命された際、当時の揚州の治所だった寿春に袁術がいたためこれを避け、曲阿を本拠地とした。当初は、曲阿で勢力を持っていた呉景と孫賁(どちらも孫堅の親族)に自分のことを支持させていたが、袁術が揚州支配を目指して軍事活動を起こすと、袁術から官位を受けていた呉景と孫賁を追放し、張英・樊能らを重用した。
袁術は呉景と孫賁に命令して劉繇を攻撃させたが、1年かかっても破ることはできなかった。朝廷は劉繇に揚州牧・振武将軍の官を加え、劉繇は数万の兵を擁す勢力となった。
劉繇の下には太史慈・許劭・笮融などとといった人物が集まっていた。特に太史慈は武勇に優れた人物であったが、劉繇は許劭(曹操を「治世の能臣、乱世の奸雄」と評した人物)の目を気にして彼を重用しなかった。
その後、孫策が袁術の後援を受け攻め込んで来ると、劉繇は瞬く間に連敗を喫し、曲阿を維持することが出来なくなった。劉繇は王朗を頼って会稽に逃げようとしたが、許劭の勧めで長江を遡って豫章に逃亡した。
豫章では、太守の座を巡って諸葛玄(諸葛亮の叔父)と朱皓(朱儁の嫡子)との間に争いが起きていた。劉繇は朱皓を支持し、笮融に命じて、西城の住民を煽動し諸葛玄を殺害させ、朱皓を太守の座に就けた。だが、笮融が乱心して朱皓を殺害し、豫章の地で乱暴狼藉を極めたため、これと戦い何とか追い出すことに成功した。
その後、間もなく病のために死去する。
三国志演義
演義では、孫策の引き立て役となる凡庸な群雄の一人として描かれる。
孫策軍と戦うが敗れ、劉表の元に落ち延びるが、太史慈・張英など一部の残党が孫策と戦い続けていた。