2人の王朗
1、中国、後漢末期から三国時代の政治家。基本的にはこちらを指す。後述。
2、五胡十六国時代、後趙の将軍。
概要
生没年:?~228年
曹操に出仕し、曹丕・曹叡の三代に渡って魏の政治家・儒学者として重きをなした。
元は後漢の臣下であり、若い頃より優れた才能を持ち、献帝の信を受けて揚州の会稽太守に任じられた。後に呉の豪族・孫策に出仕が兵を率いて攻めてきて、王朗は敗れて捕らえられてしまったことがあるが、孫策は王朗の名声や人柄に敬服していたという。
後述の『三国志演義』の影響で小悪党という印象が強いが、実際の王朗は名声高く、清廉な政治家であったらしい。曹丕は「鍾繇・華歆・王朗、この三公は一代の偉人であり、後世でこれを継ぐことは難しいだろう」と絶賛している。
『魏書』では「才能と学識はずば抜けており、性質も厳格で、礼儀正しく慎ましく、施しを良くし、弱者を哀れまない強者を批判した」と評されている。
献帝が曹丕に帝位を禅譲しようとした際、王朗は是非それを受けるよう進言した(つまり元は漢の臣下であった王朗が、漢王朝の廃止に賛同した)ため、蜀漢を義とする演義では皇室を簒奪した悪役に仕立て上げられてしまったのだろう。
三国志演義
悪役として登場する。
部下の虞翻から「時代遅れの老いぼれ」と罵倒されたり、華歆と共に曹操の奸臣として簒奪に加担したりと、史実の人物像よりかなり貶められている。
曹真の軍師として出陣し、蜀軍の諸葛亮と論戦するも、皇室の簒奪を咎められ、王朗は怒りのあまり憤死するというギャグみたいな死に方をする。
中国の歴史ドラマ「三国志ThreeKingdoms」では、諸葛亮を挑発するためにニヤニヤ顔で出陣するが、やはり諸葛亮から罵倒されて憤死する。