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斎藤龍興

さいとうたつおき

斎藤龍興とは、中部地方の戦国武将。「マムシ」と呼ばれた斎藤道三の孫にあたるとされ、家臣達の信望を得られぬまま織田氏の侵攻により美濃を追われるが、その後も再起を図って織田氏に抗し続けた。(1548年-1573年)
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生涯

天文17年(1548年)、斎藤(一色)義龍の息子として生まれる。生母には諸説あるが、義龍の正室である近江の方は浅井長政の姉とも叔母とも伝わっており、仮に生母を近江の方と比定するならば、長政とは従兄弟または甥の関係にある。名前に関しては父と同様に一色姓を用いていた他、美濃国主時代には「義棟」と名乗っていた時期もある。

永禄4年(1561年)、14歳にして父の急死により美濃斎藤氏の家督を継ぐ。とはいえ一癖も二癖もある美濃の国人衆を彼に束ねられる訳もなく、祖父の代からの重臣も相次いで離反・死没するなど、龍興の家中統率はその初期から波乱を含んだものであった。永禄7年(1564年)には戦功に対する恩賞への不満などから、竹中重治ら一部の家臣に居城の稲葉山城を乗っ取られた事もあった(程なくして重治たちは退去、稲葉山城も返還されている)。
また斎藤氏の治める美濃は、父の代より隣国・尾張の織田信長の侵攻に曝されており、龍興の代になると近江の浅井長政までもが、織田氏と同盟を結んで美濃侵攻に及んでいた。局所的な勝利こそ何度かあったものの、前述の竹中重治らによる稲葉山城占拠事件以降はその衰運もさらに色濃くなり、永禄10年(1567年)、西美濃三人衆(稲葉良通安藤守就氏家直元)を始めとする残りの家臣らも信長に内応すると、龍興は20歳にして稲葉山城を逃れ、北伊勢の長島へと亡命を余儀なくされる(稲葉山城の戦い)。

美濃を追われた後、暗愚とされる美濃国主時代が嘘のように、龍興は精力的に信長への抵抗に邁進する事となる。亡命の翌々年には長島一向一揆に参加、さらにこれに先んじて三好三人衆とも結託し、信長の擁する室町幕府将軍・足利義昭の暗殺をもくろむ(本圀寺の変)など、「マムシ」と謳われた斎藤道三の孫らしい活躍を見せている。
その後龍興は縁戚である越前の朝倉義景の元へ逃げ込み、客将として遇されたと伝わる。当地では朝倉氏や一向門徒の支援の下、越前と長島の二方向から美濃挟撃を目論んでいたとされるが、朝倉軍の越前への撤退により実現には至らなかった。
それから半年余り後の天正元年(1573年)8月、信長が近江侵攻を開始すると朝倉氏も浅井氏を支援すべく、当主義景自らが2万の大軍を率い出陣、龍興もこれに従軍している。ところが突然の暴風雨に乗じた織田軍の奇襲を受け、砦を奪われた朝倉軍は撤退を余儀なくされてしまう。さらにその撤退の最中の8月14日、織田軍の激しい追撃により2万もあった朝倉軍はほぼ壊滅、龍興もこの時奮戦空しく討死を遂げた(刀根坂の戦い)。一説によると美濃国主時代の重臣・氏家直元の息子に斬られたとも言われている。享年26歳。

龍興の死によって戦国大名としての美濃斎藤氏も滅亡を迎えたが、他方で伝承の域を出ないものの、刀根坂の戦いを生き延びた後石山本願寺と合流、再起を図ろうとするも志半ばで病死したとも、また越中(現在の富山)に逃れ帰農、田畑を開拓したり温泉を掘り当てたとも伝わっている。

評価

武田勝頼今川氏真北条氏政のように、祖父や父親が有能で一大勢力を作りながらも、自分の代で家を潰したということもあって、その評価はお世辞にも高いものとは言えず、暗愚扱いされる事も少なくはない。美濃国主時代は評判の悪い近臣を重用し酒と女に溺れる日々だったとされ、これも家臣の信望の喪失に繋がったとされる。
一方でこうした暗愚扱いについては、旧臣らが寝返りを正当化するために記録を改竄したのではないかという見方もあり、また宣教師・ルイス・フロイスの「非常に有能で思慮深い」との評に代表されるように、イエズス会の宣教師からの評価は軒並み高い。もっともこの宣教師達からの高評価については、龍興自身が彼らと面識のあった亡命時代にキリシタン志向であった事も、多分に影響している事に留意されたい。
そもそも父親の義龍がさあこれからというときに急死、この時点で14歳と若年であった龍興には、美濃国主として国人らを束ねていくには少々荷が重すぎたのだろう。美濃を追われた後の動きをみると決して暗愚な人物ではなく、ある種大器晩成型の人間だったと言えるかもしれない。以下の各種創作においても、こうした側面を反映した人物造形がなされるケースも少なからず見受けられる。

創作物での扱い

戦国無双


武器 刀(1~2) 声 岡本寛志(2)、山田真一(3)

一般武将として1作目では稲葉山城の戦いのみに登場、2では稲葉山城の戦いはないが、浅井・朝倉に関係する戦いに登場している。
「3」では竹中半兵衛の無双演武のOPに登場。暗愚な酒飲みといった面が強調され、半兵衛らに稲葉山城を奪われている。
しかし「戦国無双Chronicle2nd」では不器用な男として描かれ、出だしこそどうしようもない馬鹿殿だが、長島の悲劇を経た後に浅井家に転がり込み、浅井夫妻や藤堂高虎、そして主人公との関わりを通じて少しずつ成長していく。特に刀根坂での彼の勇姿は名シーンであり「浅井の章をプレイしていたと思ったら斎藤の章だった」との声が上がるほど評価が高い。

信長の野望シリーズ

ランクで言えば、最低に近い評価を受けている。同じ暗愚でも今川氏真みたいに何か一芸に秀でてたり、見直される事もない。

信長の忍び

第1巻の時点で国主となっており、竹中半兵衛に稲葉山城を奪われたくだりが描かれ、その後第2巻でも信長に攻められ、あっという間にお家滅亡。一貫して「ひきこもりの醜いデブ」で描かれており、史実をさらに誇張したかのようなダメ君主として扱われ、主人公千鳥からは「何もしない戦国大名はそれだけで罪」と酷評され、最後は信長に文字通り蹴落とされ「今日から俺は本気を出す」と言い残し、物語より退場・・・


・・・のはずが、その後本当に本気を出して文武両道なイケメン化で「真・斎藤龍興」となって再登場。主人公や信長、半兵衛などから「誰!?」と本気で驚かれる程で、本人曰く、信長に復讐し、天下を取り、19歳以前の歴史書を書き換えさせるとの事。しかし千鳥からは「本当に復讐のためなのか」と疑問を持たれている。
その後の活躍は史実通りで、最後は朝倉家の客将となり、美濃を追われて6年後の刀根坂の戦いで潰走状態の最中、朝倉義景を逃がし、戦うための大義名分を得るために「義景様の家臣になる」と宣言して、伏兵となって信長に挑みかかる。一時混乱に陥れるものの衆寡及ばず、最期に千鳥から「あなたは国を失っても立派な戦国大名だった」と言われ、自分が戦う本当の理由はただ誰かに認めてほしかっただけだったと悟り、涙を流しながら戦死した。信長でさえも、「さすがは道三殿の孫、敵ながら天晴れ」と敬服した。

戦国大戦

てめえを邪魔することが、俺の生きがいなのさ
「1560尾張の風雲児」から参戦した祖父に遅れること1バージョン、「1570魔王上洛す」にて客将として招かれた朝倉家(浅井朝倉家)の武将として参戦した。レアリティはUC。メイン画像が戦国大戦での斎藤龍興であり、パピヨンマスクと着流しの着物を身にまとい、キセルを咥え徳利を抱えたその風体はまさしく遊び人といった所。
酒色に溺れ美濃三人衆や竹中半兵衛の離反を招き、居城を織田信長に奪われた後は復讐に人生を捧げ信長を長く苦しめた。最期は刀根坂の戦いにて竹中半兵衛に討たれるが、「もう少し早く目を覚ましていれば、私は龍興殿について行った」とその祖父譲りの才を惜しまれた。

特技は魅力と防柵を所持。
固有計略『堕落の陣』は陣内の敵武将の武力を下げる妨害陣形。範囲が可変で、戦場にいる魅力の特技を持った味方武将が多いほど陣の範囲が広がっていく。
これでも、道三の孫だからな

センゴク

信長の主要な敵の一人として登場。無印のヒロインであるお蝶の主で、彼女に目をかけていた。通称は右兵衛大輔。物語が稲葉山城陥落から始るため、大名時代のシーンは無いが、本人曰く世情に疎い『引きこもり』だったらしく、酒や女に溺れる暗君だった。しかし、流浪の身となってからは、共に落ち延びた富田勢源や女子衆らと共に様々な大名の元を渡り歩き、複数の大名による信長包囲網を画策。上に立つ者としての才能を開花させ、謀略を駆使して信長への復讐と大名への返り咲きを目指す。
畿内での敗退後は、かつて祖父道三が結んでいた外戚と言う地位を利用して朝倉家へと身を寄せ、そ朝倉家重臣の鳥居景近と義兄弟となって、朝倉家乗っ取りをもくろむ。しかし、結局織田との全面衝突は適わず、朝倉軍が退却中に刀根坂の戦いで織田軍から激しい追撃を受ける。一度は朝倉軍を見捨てて本願寺へ逃れようとしたが、越前に残していた女子衆を見捨てられず、戦場に戻って討たれるという最期を迎えた。

斜に構えたややキザな、しかし喰えない有能な男として描かれており、11巻では表紙も飾っている。一生を女に振り回される形となったが、女を諜報活動などに利用する反面、当時としては珍しく女性に学問を推奨して教養を与えるなど女性思いな人物でもあった。信長に対しては強い憎悪と同時にその器の偉大さに敬服している側面もみられる。

『斉藤右兵衛大輔龍興 戦国史上最も巧妙にして、最も食えない男』

関連タグ

戦国武将 斎藤道三 斎藤義龍 戦国無双 信長の野望 信長の忍び

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