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仙石秀久

せんごくひでひさ

室町時代末から江戸時代初期に活躍した戦国武将。
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概要

仙石秀久織田信長豊臣秀吉徳川家康三英傑に仕えた戦国武将美濃国国人衆としては、稲葉良通稲葉一鉄)、一柳直末(但し直末は北条征伐に従軍中、伊豆国山中城攻めで銃弾を受けて戦死し、所領は弟の一柳直盛が相続している)らと並んで独立した大名として家名を存続させる事に成功した希有な人物でもある。

  • 生:天文二十一年一月二十六日(西暦1552年2月20日)
  • 没:慶長十九年五月六日(西暦1614年6月13日)

初期織田政権から秀吉が北近江に封ぜられるまでの活躍

元は美濃国守護、土岐氏に仕え、土岐源氏を祖に持つ土豪であったが、室町時代末に土岐本家が没落して庶流の斉藤家(長井家)が台頭してくると是に従う。
やがて長井新左衛門尉斎藤道三の父)が斉藤家中で台頭し、既に御輿でしか無くなっていた土岐頼武を追放して主家、斎藤氏に対しても親子二代で下克上を果たしこの家督を得ると、斎藤道三に従った。
だが斎藤道三長良川の戦いで息子の斎藤義龍に討たれこの義龍も早世すると、斎藤義龍の嫡子であった若年の斎藤龍興美濃の地盤を固める前に、斎藤道三の娘である濃姫を娶り斎藤道三の縁戚となっていた織田信長が中濃に調略の手を伸ばす。
仙石家は初期の内に織田家へと帰順したとされているがその時期を推測するに、仙石氏の所領が美濃国加茂郡黒岩(現在の岐阜県坂祝町近辺)であった事から、織田信長加治田城攻略から兼山城攻略までの間に織田家へと帰順したと考えるのが妥当であろう。従って織田家に恭順の意を示したのは永禄七年(西暦1564年)の加治田城調略から永禄八年(西暦1565年)の兼山城開城までとなるが、所領である黒岩を安堵されている事から、よって書物(改選仙石家譜)にもある通り早期の永禄七年、調略による帰順が正しいと見て間違いなさそうである。

中濃の土豪として早くに織田家へと恭順した仙石家は、織田信長の斡旋で木下藤吉郎の麾下に入る。秀久が十四歳の頃であるが、当時の木下隊は蜂須賀正勝といった野武士や半農兵が大半で、生粋の士分である仙石秀久は実に貴重であり、出世の速さから鑑みるに姉川の役前後に入幕する名参謀、竹中重治が首席を占めるまで木下隊での初期参謀、兼指揮官としてその大役を担う事になる。尚、余談ではあるが、そういった士分の人間が出自定かならぬ木下秀吉の麾下ですんなりと働いていたというのは家柄を重んずるこの時代を慮るに、秀久の寛容な人物が伺える事象である。

そうして木下藤吉郎と共に各地を転戦しながら、近江国湖北浅井家、越前国朝倉家の連合軍と衝突した姉川の戦いでは自ら槍を取って敵と交戦し、山崎新平なる士を討ち取ってその功を讃えられている。部隊長が自ら敵と槍を交えるという事はそれだけで感状が出るほどの異例事項なので、兜首をも討ち取ったという史実から武技にも標準以上に通じていた証左として考える事が出来ようか。その後、木下藤吉郎秀吉が羽柴藤吉郎秀吉へと改姓し織田軍が越前国に進攻すると、刀根坂の戦いから一乗谷の戦いにて越前国主朝倉義景を自害に追い込み、返す刀で羽柴隊は小谷城の戦いにて参戦し単独兵力で小谷城を攻め、浅井長政の父である浅井久政自害に追い込む。その功績から羽柴秀吉は旧浅井領である湖北三郡十万石相当(坂田郡、東浅井郡、伊香郡)に封じられ、秀久も近江国野洲郡(現滋賀県野洲市)に所領千石を与えられた(天正元年、西暦1582年)。

中国攻めから本能寺の変前後の活躍

羽柴秀吉の幕下が人材豊かになるにつれ活躍はやや埋もれがちになるが実際には伊勢長島一向一揆征伐、第一次紀州征伐越前一向一揆征伐など、各地を転戦し順調に活躍し出世を重ね、秀吉の対毛利戦線では織田家から離反した別所長治の抑え、播磨国三木城の備えとして城番に出世(『播磨鑑』によらば三木城北部、跡部村の砦とされる)。天正六年(西暦1578年)には四千石の加増を受け都合、五千石の大身となる。更に後の天正七年には播磨国茶臼山城の城番へと出世し、同時に有馬温泉を統括する湯山奉行の任を授かっている。
播磨三木城が降伏開城すると今度は吉川経家が守る因幡国鳥取城攻めへと従軍する。この鳥取城が凄惨な兵糧攻めで早々に開城し、対毛利戦線では陸上から離れ開城前線基地である淡路島の攻略に従軍(天正九年、西暦1581年)。黒田孝高の助けもあり淡路島小豆島を傘下に収めた後は、秀吉の名代として淡路島の国権を委ねられた。

このまま普通に戦が進んだのであれば順風満帆に出世街道を進むはずであったが天正十年、急遽、本能寺の変羽柴秀吉の主君である織田信長明智光秀の手によって横死に至ると、淡路島平定に於ける秀久の論考功交渉は後回しとなり、秀久は明智光秀に与した四国長宗我部元親を牽制しつつ、同時に淡路島にて決起した菅達長土豪の平定に尽力して山崎の戦いに臨む羽柴秀吉の後方守備に当たった。
山崎の戦いにて秀吉明智光秀を破ると、今度は織田家後継者の決定で織田家筆頭家老の柴田勝家と意見の齟齬が生じ、其処から天正十一年(西暦1583年)、賤ヶ岳の戦いへと発展する。秀久もこの戦いで近江国に参陣し、織田家から秀吉の養子に入っていた羽柴秀勝と共に十二番隊の指揮官として出陣する予定であったが、柴田勝家に内応した四国長宗我部勢の抑えの為に急遽、土地勘がある淡路島へと出兵する。是により秀久は柴田勝家陣営に付いた長宗我部元親と対峙。淡路島洲本城に入ると先ずは蜂起した小豆島を平定し、更に旧三好一族の十河存保が救援を求める四国本島へと後詰めに出る(第二次十河城の戦い)。秀久は高松頼邑が守る喜岡城を攻めるが是を落とせず四国から一度、撤退。続いて讃岐国は引田に上陸して引田城に入城する。

天正十一年四月二十一日、長宗我部氏家臣の香川信景らが率いる部隊五千名が引田城を攻めるとの情報を得て、秀久は二千の兵で是を城から出でて伏兵にて迎撃し緒戦を有利に進める。しかし、数に勝る香川隊は次第に体勢を立て直し反撃に転じ、此処に長宗我部氏からの後詰めが届き兵力差が倍以上となって仙石隊は敗戦色を強めると、命辛々に引田城へ撤退。翌二十二日、引田城は援軍を得た長宗我部軍の総攻撃を受け、秀久は城を持ち堪えさせる事が出来ず淡路島に撤退する(引田の戦い)。この敗戦にて四国勢の勢い強しと見たか、秀久は以降、無茶な渡海は行わず淡路島小豆島の防御を固め、瀬戸内海の制海権を優勢に進めて四国勢と膠着する事に徹した。同時に孤立した十河存保十河城虎丸城を制圧され、讃岐の地盤を失い大阪へと脱出する。
そうして四国勢と睨み合う内に賤ヶ岳の戦いの雌雄が決し柴田勝家が敗れると、それまでの功績が認められて秀久は天正十一年、淡路島五万石に封じられる。因みに蜂須賀正勝播磨国龍野五万三千石を与えられるのは天正九年。同じく黒田孝高播磨国山崎一万石が天正八年、豊前国十二万石が天正十四年の事であり、淡路島の国権が委ねられた天正九年という時期の早さを鑑みると、ほぼ出世頭として見て良い。

淡路島拝領後の天正十二年、織田信雄徳川家康に通じて秀吉と争った小牧・長久手の戦いでは賤ヶ岳の戦いと同様に長宗我部元親が反秀吉陣営に付いた為、秀久は賤ヶ岳の戦いと同様に淡路島小豆島の防御を固めた。
同様に小牧・長久手の戦いにて紀州国人衆が蜂起し徳川家康の動きに連携して大阪を攻めたので小牧・長久手の戦い講和後、これらを討伐する為に秀久は秀吉に従って複数の水軍を統括し、小西行長と共に海路から紀伊国に攻め入る。この進攻で根来寺、並びに雑賀庄は焼き払われる結果となった(第二次紀州征伐、天正十三年)。秀久自身は根来、雑賀の両主力が降伏した後も中村一氏小西行長らと共に雑賀、根来の残党が籠城する太田城を攻め、これらを落とした後も他の残存勢力を討伐する為、更に攻め入って坂ノ瀬合戦に勝利し支城鳥屋城を攻め落とすと、破竹の勢いで岩室城も落城させる。徹底抗戦を主張し湯河教春を頼って泊城へと落ち延びた南紀の土豪湯河直春を奥へ奥へと追撃し、秀久と杉若無心泊城を占拠。
泊城からは軍勢を二手に分け、同じく牟婁郡にて湯河直春に同調した山本康忠の籠もる龍松山を秀久と尾藤知宣藤堂高虎が攻撃を仕掛ける。逃げる湯河直春湯河教春らを追うが天正十三年四月一日、潮見峠にて秀久ら三将は反撃を受け一時、後退。同じく杉若無心が率いる軍勢も三宝寺河原にて山本康忠らの奇襲を受け撤退。しかし湯川、山本両隊の抗戦能力は長く続かず、同時に羽柴秀吉の調略で熊野三山、並びに高野山が降伏し、大局として紀州全体が降伏した後も四月末まで抵抗を続けた湯河直春が怪死。此処に第二次紀州征伐は終了した。
この通り、秀久は蜂起した紀州勢で最後まで根強く反攻し続けた湯河一族の討伐で武功を立てた。

紀州征伐が行われていたその間、四国長宗我部元親がその大半を統一するまでとなっていたが一方で、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家陣営に付いた毛利氏が小牧・長久手の戦いからは秀吉陣営に付き、織田信雄徳川家康といった有力諸将も羽柴秀吉に従順の姿勢を示すに至る。また紀州征伐によって共和国とまでされた雑賀庄根来寺高野山粉河寺熊野三山といった諸勢力が悉く敗戦、或いは降伏した事で長宗我部氏は軍事的に孤立し、長宗我部氏の動向如何によっては秀吉による四国平定戦が予想されていた。

そして予想が現実した天正十三年七月、四国征伐にて、秀吉がこの時期、病を得ていた事により総大将に羽柴秀長が着任し、副将に羽柴秀次、先鋒大将には黒田孝高を宛がい、秀久は黒田孝高麾下、先鋒の一将として宇喜多秀家蜂須賀正勝と共に阿波国屋島に上陸する。秀久ら先鋒は喜岡城を攻め是を落城せしめ城主、高松頼邑を討ち取った(先の第二次十河城の戦いで秀久が攻略を諦めた喜岡城とその城主である)。先発隊は更に阿波国へと深く進攻し、秀久単独では木津城攻めにて城の要衝を抑え城内への水の手を断つなどの活躍を見せたので、戦後の論功行賞で淡路島五万石から讃岐国十三万石に栄転した(天正十三年)。
他の四国の分国は長宗我部元親土佐国一国、阿波国蜂須賀正勝の予定であった所を正勝は自身の高齢を理由に嫡子の蜂須賀家正が封じられ、山田二群に十河存保伊予国一国に小早川隆景、秀久が転じた後の淡路島には脇坂安治が津名郡三万石、加藤嘉明が津名郡、三原郡の一万五千石に封じられた。こうして豊臣一色となった四国の筆頭として秀久は一国一城(聖通寺城)の出世を果たすのである。

出世街道から一挙に没落

天正十四年、小牧・長久手の戦い織田信雄徳川家康に内応し大友宗麟を攻める島津家を牽制するべく秀久を軍監とした四国勢は秀吉の命で九州征伐に従軍する。しかし大友家当主の大友義統は島津軍の猛攻に晒されアッサリと本拠地である豊後国を明け渡してしまい、眼前にて雪崩を打ち大友軍が攻め落とされていき、秀吉から本隊が到着するまでは遅滞行動に留めよと命令されていたにも拘わらず、秀久は先発隊のみで打って出る決定をする。

九州三雄の一人である大友宗麟は天正六年、耳川の戦いで満足に指揮も出来ず島津義久に大敗し零落し、九州三雄のもう一人である龍造寺隆信沖田畷の戦いで島津軍に敗れて更に自身が戦死した事もあり、島津家の勢いは破竹に乗って止まる所を知らず、結果論ではあるが戸次道雪高橋紹運立花宗茂三名を筆頭とした突出する家臣らの戦強さと団結力に支えられなければ実際、大友義統は先遣隊の毛利軍(大将は毛利輝元)到着まで持ち堪えられる可能性が皆無であったのは事実であり、よって大友軍の後詰めにはこの段階で期待できる要素が誠に薄かった。加えて風前の灯火である鶴賀城が落城した場合、秀久らが入城していた府内城鶴賀城に入った島津家久岡城方面から攻め入ってくる島津義弘の兄弟に挟撃される恐れがあり、事態はかなり切迫していたのである。

秀久の提案に四国の有力勢力でありながら敗戦によって土佐一国に減封された長宗我部元親信親親子は反対、逆に元々、織田家に恭順を示していた十河存保は賛成する。こういった具合で四国平定から間もない状態での四国勢は軍の結束力も十分ではない状態で士気も上がらず結局、秀久自身の独断専行という形にて天正十四年十二月十二日、九州戸次川(現在の大分県大野川下流)にて青息吐息の鶴賀城に攻め掛かる島津家久を相手とした不予期遭遇戦へと発展する。後に云う戸次川の戦いである。
秀久は鶴賀城を見下ろす梨尾山に陣を敷くも、是は島津軍の案の内であり、島津軍は梨尾山に本陣を構えられた場合を想定して布陣していた。対島津に徴兵されたこの時の兵数は二万ともいわれるが、本来なら城の後詰めに赴かなければならないはずの大友義統は全く戦意が見えず行軍に消極的で、更に猛攻に晒されている鶴賀城は守将利光宗魚が誠に運悪く流れ弾に当たり戦死。従って鶴賀城の兵力も当てに出来ず実働する実兵力は六千名ばかりであったという。

対する島津軍は一万を上回る兵力で、しかも鶴賀城攻めが主体である為に後詰めである秀久の陣へは戸次川を防御ラインにして構え全く見向きもせず、四国軍が鶴賀城を救う為には厭が応にも十二月の渡河を行わなければならなかった。しかし通常なら掌握している兵力ではどう足掻いても後詰めが叶わぬ場面で、秀久は渡河を強行する(幾分かの兵力が伏兵として配されていた事によって全体兵力を誤認した可能性があり、この辺りの秀久の判断には実際の現地調査が必要である)。
冬の渡河直後で四国勢も上手く体勢が整わなかったが島津軍もまた不意の進攻に狼狽し、島津軍より一瞬、早く立ち直った四国軍が総攻撃を掛けた。先鋒の秀久率いる淡路勢千名、十河存保尾藤知定が率いる讃岐勢三千名、長宗我部元親父子の土佐勢二千名が縦一列に襲いかかったのである。

そうして序盤、島津軍大将である島津家久が慌てふためくほどの四国軍優勢で進んだ戦だが、戦慣れした島津軍が次第に姿勢を整え、得意の囮戦法である釣り野伏せの布陣を完了すると、まず突出した秀久本隊の淡路勢に島津軍主力新納大膳と左翼の本庄主悦が横槍を付ける。元々、兵が突出していた事もあって淡路勢は壊滅した上で後方部隊と分断されてしまい、更に島津軍はこの勢いを駆って淡路勢へと襲いかかり、四国軍は各個撃破された末に、千々に乱れて敗走してしまう。
両軍合わせて四千名が戦死したとされるこの戦だが、四国軍は十河存保長宗我部信親の両侍大将が戦死しており、鶴賀城も救援できず手痛い敗戦を喫す事になった。しかも戦場で味方から切り離されて状況が掴めなくなった仙石秀久は、事もあろうか諸将の軍勢を差し置いて小倉城に撤退し、どういう判断かは不明だがそのまま九州から離脱、これまたどういった手段でか九州から離れて四国の自領、讃岐に逃げ帰るという、「三国一の臆病者」とまで囃された大失態を犯すのである。
無茶の上でそのような不始末を晒したこの敗戦の一報を耳にして秀吉は激怒し、秀久は領地没収ならびに改易とされ高野山に追放される事となる。寧ろその場で切腹を言い渡されなかったのが不思議というくらいの大失態であった。

命があるだけめっけ物、マイナスからの汚名返上

秀久が高野山に追放されたのが天正十四年年末の事であるが、改易中は高野山で隠棲していたかと思えば京都大阪に滞在していた事もあるとされる。が、やはり余り多くの文章は裂かれていない。だが、同じく天正八年に追放された佐久間信盛は無聊を託ち汚名を雪ぐ事が出来ぬまま天正十年に餓死寸前という状態で死亡している点を見ると、秀久の生存にはある程度の予想が付き、そういった点から武士として兵からの信望は厚かったのかも知れない。と同時に、播磨平定戦からの入幕であるにも拘わらず、すぐさま自分を追い抜いて出世した黒田孝高の麾下にて四国平定戦を腐らず戦っている事実、そして秀久自身が織田家に出仕して間もない頃、士分の身でありながらまだ頭角を現す前の木下藤吉郎の麾下として従軍している点から見ても、秀久の人となりは容易に想像出来る。

その秀久にとって挽回の機会が現れたのは天正十八年(西暦1590年)、北条征伐小田原の役)の事である。豊臣秀吉によって刀狩り、並びに惣無事令が発せられ無許可による戦闘行為が禁じられたのが天正十三年(九州)、及び天正十五年(関東東北地方)の事であるが、後北条家家臣の沼田城城主、猪俣範直による信濃国真田家領である上野国名胡桃の、更にそのまた三分の一という、誠にちっぽけな領土の占拠が引き金となり、惣無事令違反に激怒した豊臣秀吉北条征伐の大軍を挙げる事になる(名胡桃事件。何故に猪俣範直がそのような事をしでかしたのかは不明)。

名胡桃事件は更に後方でも北条氏邦宇都宮に進攻した事から、当代北条家当主である北条氏政の指示があったか否かは兎も角として「猪俣範直の独断専行」という言い訳は通用しなくなり、同年十二月十三日、豊臣秀吉から宣戦布告の朱印状が発行され、諸将に招集の命令が下される。
秀久はこの進攻に際してどの様な伝手かは不明であるが徳川家康から秀吉への斡旋を頼み、出自の美濃国にて牢人衆を集い陣借り(自前の費用で兵糧から兵士、武器から糧秣といった全てを用意し、しかも必ずしも報酬が約束されない非正規兵の事を指す。「押し掛け女房」ならぬ「押し掛け戦力」である)で手勢を率いて北条征伐に参戦。この時、秀久は糟尾のと白練りに日の丸を付けた陣羽織を着込み、紺地に「無」の字を白く出した馬印を眞先に押し立て(「無」の字は永楽銭と同じく仙石家の家紋である)、常に諸軍の先頭を進んだといわれている。極めつけは日の丸を付けた陣羽織一面に鈴を縫いつけ、自分の居場所を際立たせる(と同時に敵から狙われやすくなる)奇策を採った点にあった。

初心に立ち返ったのか、当年で齢三八となる秀久の戦い振りは単身ですら苛烈極まり、自ら十文字槍を繰り伊豆山中城攻め山中城の戦い)で先陣を務め、小田原城早川口攻めでは虎口の一つを占拠するという抜群の武功を挙げた。是により秀久は「鈴鳴り武者」という異名を与えられると共に、秀久が武功を挙げた地が「仙石原(神奈川県足柄下郡箱根町)」と名付けられるという確かな功績を残し、秀吉も最古参の朋友に思う所あってか、自身への謁見を許し直々に金団扇を授けると共に、旧領讃岐の半分に相当する信濃国小諸五万石を与えるという、破格の救済を授けるのである。
更に文禄元年(西暦1594年)には朝鮮出兵の折に豊前国名護屋城普請、京都伏見城の普請で功績を挙げ、従五位下、越前守に任官されてかつ所領も七千石の加増を受け、五万七千石に封ぜられている(但し秀久は戦地へと渡海はしていない)。
こうして、晴れて仙石秀久は誠に希有ながら単身の槍働きにて大名へと復帰するのである。

太閤死没後の仙石越前守秀久

慶長三年(西暦1598年)に豊臣秀吉が遠行すると、その後は早くから昵懇であった家康に接近する。慶長五年(西暦1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍、徳川秀忠本隊に所属するも、秀忠真田昌幸が籠もる信州上田城攻略に手こずる(第二次上田合戦)。また徳川秀忠上田城攻略への拘りを見せる余り秀忠が率いる徳川譜代衆本隊は関ヶ原の戦いに遅参してしまい、関ヶ原の戦い本戦で家康は主力譜代衆を欠いたまま外様大名の連合軍にて決戦に臨まざるを得なくなった。その事によって譜代衆への大幅加増が叶わなかったばかりか、小早川秀秋の離心が無ければあわや敗軍の将となっていたこの薄氷の勝利に肝を冷やした家康は、秀忠を真剣に将軍後継から外す事を考える程に、大いに叱責した。これに対して秀久は身を挺して秀忠を庇い弁明に徹する。

また、信州上田城攻略では「自身を人質として真田に預け本体は進軍して頂きたい」と進言した事が相まって秀忠にも篤く信任されるようになり、後に外様大名としては破格の「秀忠付」という名誉職を初めとした数々の厚遇を授かることになる。
関ヶ原の戦い戦後は領土を安堵され信濃国小諸藩の初代藩主となる。唯、嫡男の仙石秀範関ヶ原の戦いで西軍についており、その事から秀久は廃嫡と同時に秀範を勘当、仙石家の家督は三男、忠政が継ぐ事になった(長男の仙石久忠は疾病により失明しており、後継から外されていた。秀範は次男である)。
そして慶長十九年(西暦1614年)、秀久は没する。享年六三。その後の仙石家は美濃国人から始まり小諸藩、上田藩、出石藩と領土を三度、移りながら歴とした大名として家名を現代にまで存続させることに成功するのである。

仙石秀久に纏わる余談

・織田家に入幕した折、織田信長との謁見で信長が秀久の勇壮な相貌を気に入り、黄金一錠を与えたといわれている。

紀州征伐の際、根来攻めに参加した秀久は山林に放置されていた曰く付き梵鐘「安珍清姫の鐘」を拾って帰ったとされる。

黒田孝高とは対毛利戦以来の古い仲で四国征伐でも共に戦っているが、実は秀久ほどでないにしろ孝高とは「失敗仲間」でもある。

戸次川の戦い長宗我部信親が戦死した事により是が長宗我部氏滅亡の一因となったため、仙石秀久は長宗我部ファンから蛇蝎の如く嫌われることとなる。次々と落城していく城を目の前にして気が逸ったのは判らないでもないが、寡兵での冬期渡河後、兵数で劣りながら野戦を仕掛けるという愚を犯ししかも失敗しているのだから、その汚辱は甘んじて受けるべきであろう。

・才能云々をさておいて人物だけ見た場合、先述の如く正当な武士の身でありながら永禄七年の時点で出自定かならぬ木下藤吉郎秀吉の組下に入って以後、一貫して秀吉の元で職務に励んだ事、そして播磨国攻略銭にて中国地方の毛利家、摂津国荒木村重石山本願寺と呼応して小寺政職信長から離反した際、荒木村重を説得する為に有岡城へと出向いたまま音信不通となり、主家である小寺政職と同調して離反したと判断された黒田孝高の残党を引き受けその面倒を見るなど、情には篤い人間と思われる。後に大坂牢人五人衆と謳われ、播州平定戦では父である後藤基国別所長治側に付いた事から軍中で村八分となった後藤基次もこの時、仙石秀久に雇われている。

北条征伐では全身に鈴を付けて戦場を駆け回った秀久であるが、同じくこの様な「パフォーマンス」で秀吉から温情を受けた人間として、秀久以上に伊達政宗が有名である(しかも二度)。

織部好みの始祖として有名な利休七哲の一人、古田重然の長子である古田重広古田重嗣とも)に仙石秀久の娘であるかめが嫁いでおり、従って古田重然と仙石秀久は縁戚である。古田重広が父である古田重然に連座して割腹した際には、かめ姫と共に妻子が信州小諸藩、仙石家預かりとなっている。

北条征伐にて大名にこそ復帰するものの、朝鮮の役では日本に留め置かれ出兵しなかったことから、流石に指揮官として重用はされなかった模様。

・二代目、仙石忠政の代になって仙石家は信濃国上田藩へと領地替えになったが、ドミノで信濃国松代藩に転封となった元上田藩主は真田信繁と同じく真田昌幸を父に持つ真田信之で、信之上田城にて足留めされた逆恨みから徳川秀忠にねちねちと嫌がらせを受けていたらしく、この転封処置も嫌がらせの一環と受け取ったのか上田城下の検地帳など重要書類を全て焼き尽くした上、上田城の植木や燈籠などを全て引き抜き持ち去った。この事から仙石忠政は、特に書類関連で領土把握に苦労したそうな。

・上記の真田信之関ヶ原の戦いにて東軍に所属し、しかも秀久と同じく秀忠本隊所属であった。克てて加えて信之の父である真田昌幸、並びに弟である真田信繁信之の血縁ながら西軍に所属し信州上田城を固守した為、改易されて九度山に蟄居させられている。いわずもがな仙石秀久の嫡男である仙石秀範は西軍に所属し勘当、廃嫡され大阪の役では大阪城の徴募に応じて冬の陣真田信繁が籠もる真田丸後方に着陣し、夏の陣では大阪城に詰めて戦死している真田信繁の「戦友」であり、信之の転封話と相まって仙石家、真田家は成り行きであり領土であり、何かと縁があるのが面白い。

豊臣秀吉子飼いの武将でありながら関ヶ原の戦いでは徳川家康が率いる東軍に付いたことで豊臣家への忠誠と徳川家への義理を対立軸に多く語られる武将であるが、実際問題としては義理か恩かで右か左かというそれ程に単純なのもではなく、そもそもが仙石秀久の所領である小諸中山道にて信州から濃州へと至る重要拠点であり、仮に西軍に付いた場合は真田昌幸が籠もる上田城より東寄りであることから真っ先に、しかも周囲が敵だらけの状態で秀忠本隊の攻撃対象になる。然るに関ヶ原の戦い前後で主戦場となった美濃大名が戦前と戦後で相当の数を入れ替えられている点から見れば、結果として大名の座から転落することなく所領を安堵されたその複合的政治判断こそを論点とされるべきで(西軍に付いた仙石秀範の存在を含めて)、心情を拠り所とした二択で関ヶ原の戦いの身の振り方を考えるべきでは無かろうものと筆者は及ばずながら存ずる。

 無論、西軍に付くならばそれはそれとして上田城と如何に連携して美濃西軍大名と連絡を取り合うかといった論の展開が可能であり、徳川秀忠真田昌幸の籠もる上田城単体に彼処まで苦戦した以上、信州小諸の仙石秀久は実際の所、キャスティングボートを握っていた人物の一人と表現してもあながち間違いではない。
 その秀久の心積もりであるが、岳父である野々村幸成大坂夏の陣で豊臣家と運命を共にしているので、やはり徳川家康寄りの姿勢であったのは間違いなさそうである。野々村幸成は前述の通り孫に当たる仙石秀範大阪で散った。

・子孫は信州上田藩(二代目仙石家、仙石忠政の代)から更に但馬国出石藩(四代目仙石家、仙石政明の代。知行五万八千石)に移され、小諸藩主時代に殖産興業で蕎麦を扱っていた事から蕎麦打ち技術を出石にも伝えた事によって、是が出石皿そばの誕生となったとされる。

・後の仙石家で仙石騒動と呼ばれるお家騒動がありあわや改易となりかけたが、辛うじて減封のみで済まされ(知行五万八千石から三万石に減封)、仙石家の家名は明治まで続く事となる。

・元禄赤穂事件(忠臣蔵)の際、47士が吉良上野介を討った後に幕府に自首した際に申し出た大目付の仙石久尚は、秀久のひ孫にあたる幕府の旗本で、47士の主君の浅野内匠頭とは遠縁にあたる。

エヴァンゲリオンのキャンペーンでローソン仙石原店が俄にクローズアップされた時代がある。コレには仙石秀久もさぞ吃驚した事であろう。

・21世紀になるまでは、一般的にはおおよそ知名度が高い武将でなく、歴史ファンに知られていても九州などでの大敗等マイナスイメージがつきまとう(信長の野望シリーズなどでもかなりの低評価である)人物であったが、ヤングマガジンで連載の宮下英樹によるセンゴクで主人公として取り上げられたことから、近年知名度が急上昇した戦国武将の代表格となった。

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豊臣秀吉 徳川家康 徳川秀忠 古田重然 十河存保 後藤基次 黒田孝高 仙石久勝
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