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別所長治は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。別所安治の嫡男。通称は小三郎。正室の照子は波多野秀治の妹(娘とも)。



生涯編集

元亀元年(1570年)、父・安治の病死により叔父の吉親(賀相)・重宗(重棟)を後見役に若くして家督を継ぐ。


別所氏は早くから織田信長に従っており、家督を相続した長治も天正3年(1575年)10月に信長に謁見、翌年も年頭の挨拶に訪れている。天正5年(1577年)に信長が紀州征伐へ出陣すると、長治もこれに加勢した。しかし、信長が中国地方の毛利氏を制圧しようとすると、それに呼応して先鋒の役を務めようとしたが、織田勢による上月城の虐殺、中国方面総司令官が成り上がりの羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)であることに不満を感じ、妻の実家である丹波国の波多野秀治と呼応して信長に反逆した。多くの周辺勢力が同調、従わなかった勢力も攻め、東播磨一帯が反織田となる。


これにより長治は、信長の命を受けた秀吉の軍勢に攻められることとなる。長治は三木城に籠もって徹底抗戦して秀吉を手こずらせ、さらに荒木村重の謀反や毛利氏の援軍などの好条件も続いて、一度は織田軍を撃退したものの、やがて秀吉の「三木の干殺し」戦法に遭い、神吉城や志方城などの支城も落とされ、毛利氏からの援軍も途絶えて、遂に籠城してから2年後の天正8年(1580年)、城兵達の命を助ける事と引き替えに妻子兄弟と共に自害した。介錯は家臣の三宅治忠が行った。享年23だが、『信長公記』では26とされている。



辞世の句編集

「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば 」



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