概要
毛利氏の家臣である吉川経安の嫡男として誕生し、毛利元就や毛利輝元に仕えた。
1561年に経安・経家親子は尼子氏に寝返った福屋隆兼らの大軍から攻撃を受けるも見事に撃退した。この時の経家はは元服から一年後の齢15歳という若さであり、この一件で経家の武勇は多いに中国地方に轟いたという。
しかし、その後の経歴に関しては不明な点が多い。
1581年、経家は鳥取城の城代に任命される。
というのも前年に毛利方に属していた鳥取城の城代であった山名豊国は、織田信長が派遣した羽柴秀吉の中国遠征軍に降伏していたが、降伏に不満があった豊国の家臣が豊国を追放して、毛利方に付く。
そこで牛尾春重という武将が派遣されたのだが、春重は鳥取城を囲む織田方の支城を攻撃中に、一時は生きるか死ぬかの大怪我を負った為に後任の将を派遣する必要があった。
そのような派遣された経家は首桶を持って入城する程の覚悟を持っていた。
しかし、鳥取城の兵糧は秀吉の参謀黒田官兵衛の献策によって、鳥取城周辺の諸共買占められ激減しており、さらに民家を攻撃することで領民を城内へ避難させるという策により、ただでさえ少ない兵糧を削ることになってしまった。
城内は鳥獣や草木すらも食い尽くし、戦死者や餓死者の死体を巡って争いが起きる程の深刻な飢餓状態に陥る(詳細は「鳥取の飢え殺し」の記事を参照)。
吉川元春らを中心に毛利軍は鳥取城救援の為に兵糧を送るも、海からの補給は丹羽長秀配下の若狭水軍に阻まれ、山陰方面は南条元続が、山陽方面は宇喜多直家が毛利氏を裏切って織田方に付いたことで進軍を阻まれた。
経家はこれ以上の籠城は不可能と判断して、自身の首と引き換えに兵士と領民の助命を要求し降伏。秀吉は経家の武勇を惜しみ、織田方に反旗を翻した山名家臣のみを処刑しようとしたが、経家は頑として責を負うことを譲らなかった為、泣く泣く切腹を命じる。
経家は父親や息子らに対し、遺言書を書き残して切腹した。享年齢35。
最期の言葉は「稽古も出来なかったから、無作法な死に方だった」と伝わる。
辞世の句は「武士(もののふ)の 取り伝えたる梓弓 かえるやもとの 栖(すみか)なるらん 」
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五代目三遊亭圓楽:経家の三男・家好(鳥取藩池田氏家臣)の子孫