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三遊亭圓楽

さんゆうていえんらく

三遊亭圓楽とは、日本の落語家またはその名跡。本項目では長寿演芸番組『笑点』の司会者を務めた5代目について解説する。
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三遊亭圓楽は、日本の落語家、またはその名跡


  1. 初代……後の3代目三遊亭圓生
  2. 2代 ……後の三遊一朝
  3. 3代 ……後の林家彦六。詳細は林家彦六で。
  4. 4代 ……後の3代目柳亭市馬
  5. 5代 ……本項目で解説笑点司会者として有名だった。6代目の師匠。
  6. 6代 ……旧名三遊亭楽太郎。詳細は三遊亭円楽で。腹黒。通称は「黒円楽」または旧名から「楽太郎の円楽」。
  7. 7代 …… 5代目の最後の弟子で6代目の弟弟子である三遊亭王楽が2025年に襲名予定。

なお、圓楽に限らず噺家は旧字体の「圓」を好んで使う傾向にある。


プロフィール編集

本名吉河 寛海(よしかわ ひろうみ)
出身地東京都台東区
所属落語協会→五代目圓楽一門会
血液型AB型
生年月日1932年12月29日(戸籍上は1933年1月3日)
没年月日2009年10月29日
師匠六代目三遊亭圓生

概要編集

ここらでおいとま されました

言わずと知れた長寿演芸番組『笑点』の四代目司会者にして、円楽一門会総帥・最高顧問。面長な顔立ちと行きつけの雀荘の名前がサラブレットであった事、笑点内でこれでもかと言わんばかりに弄られまくった事、弟子の六代目と区別するためにファンからは圓楽呼ばれる事も(なお、六代目は腹黒の円楽、楽太郎の円楽と呼ばれている)。

名跡については6代目円楽と区別するため「圓楽」と表記されることがほとんど。

1955年2月に6代目三遊亭圓生に入門、「三遊亭全生(ぜんしょう)」と名乗る。

1958年3月二つ目昇進。

1962年10月真打昇進し「5代目三遊亭圓楽」を襲名。


若い頃は「星の王子さま」の愛称で親しまれ、端整な顔立ちと博識振りで1960年代の演芸ブームの際脚光を浴び、7代目立川談志、3代目古今亭志ん朝、5代目春風亭柳朝(柳朝没後は8代目橘家圓蔵)と共に落語界の「四天王」と呼ばれた。

師・圓生が得意とした「人情物」を自らも得意とし、特に『芝浜』は十八番であった。生涯最期の公演も『芝浜』で、ファンの間では語り草となっている。


一方で落語協会分裂騒動の中心人物の1人。これは当時協会長だった師匠である6代目三遊亭圓生の独裁がひどかったことから、協会長の権限を限定し合議制としたことに圓生が納得できず、落語協会内の同調分子及び落語芸術協会内の三遊亭一派を巻き込んで独立しようとしたもの。結局、圓生一門以外が裏切り落協に元鞘した(例として前述の談志も新団体設立の発案するなど関与していたが、それもあって「新団体の次期会長は自分だ」という自負を持っていたのに対し、圓生は自分に心酔している志ん朝を次期会長に考えており、志ん朝自身もその気になっていて談志に譲歩しなかったため残留を決めた)上、芸協側の三遊亭一派が動かず新たなメジャー団体の設立には失敗、圓生一門だけのマイナー団体を設立したが圓生の死後は一気に規模が縮小し彼と彼の一門だけの五代目円楽一門会となり、現在まで残る影響と禍根を残してしまった。


1985年3月、私財を投げ打って東京都江東区東陽に寄席「若竹」開館(後に諸事情により閉鎖)。


長寿番組「笑点」の回答者、後に司会者として知られる(前身番組の「金曜夜席」時代から出演している)。

三波伸介司会就任と同時に色紋付が導入されると紫色の着物を着用、このことから「ラベンダーマン」の愛称で親しまれる。

1977年3月27日に落語に専念するため一度番組を卒業したが、1982年12月8日に当時の司会であった三波伸介が急死した事に伴い1983年1月9日から司会者(色紋付は紺色。ただし初回は自前の茶色の色紋付で登板)として番組に復帰。

以降、2006年に体調不良により、共に「笑点」の第1回から断続的に出演し続けてきた林家こん平と同時に卒業するまで、名司会者として同番組を牽引し続けた。


2007年に健康上の理由により落語家及びタレント業から退く事を表明。その後、療養生活に入るものの2009年に肺がんを発症し、同年10月29日に死去。享年76。


人物編集

後任の桂歌丸春風亭昇太に比べ、失礼な回答をされてもキレるどころか爆笑することが多かった。ただし大笑いしながらも座布団はしっかり取り上げる(顕著な例は後述の「そいつは何者だね?」の問題)。

お決まりの罵倒ネタとしては「馬面」「若竹(借金)」「長い小言」などがあげられる。特に笑点で「馬面」と言えば五代目圓楽という印象は強いだろう。

現在まで笑点で多用される「次期司会ネタ」は、笑点史上初の回答者上がりの司会者である圓楽が司会に就任して間もなく開始したもの。

他にも3問目を飛ばして終わらせようとしたり(特に2001年のときは脳卒中の前兆だったとされ、この時は引退の二文字が頭を過ぎったという)、「目黒のさんま」で「うまい」と言うところを「まずい」と言ったりイワシと間違えたりなどの天然系エピソードに事欠かない。

2問目で終わらせようとしたことについては、6代目が度々ネタにしていた。

長年笑点の看板的出演者であった三遊亭小圓遊三波伸介が若くして、しかも程ない時期に相次いで急逝した世相を受けてか、オープニングでの演芸紹介時は「今日の端(はな)は」、エンディングでの挨拶時は「笑点この辺でお開き」など、縁起担ぎ言葉の徹底につとめていた。


こうしたエピソードから笑点視聴者など大衆からは「大らかで懐の深い人」と思われがちだが、周囲の人曰く「短気だった」ということが語られており、短気で知られた林家彦六以上だったとされる。病で臥せっている時、風が吹いただけで「うるせえ」と怒ったという嘘か真かわからない逸話も残る程。

特に芸事には関しては6代目円楽が「怖いんじゃなくて厳しい」と語る程、厳格であった。事実、弟子である6代目と三遊亭好楽はその厳しさゆえに笑点降板を考えたこともある。

また、ソリが合わなかった桂才賀を冷遇し、最終的に笑点降板に追い込んでいる。


当時楽太郎を称していた6代目は問題の答えでウケが取れなかったため「はい、楽太郎はダメ、笑点また来週」と番組の締めで駄目出しされた事があった。これを6代目は「公開処刑」と苦笑いしながら紹介しているが、6代目自身はこれによって笑点から降板しようと考えた事があったという。それ以降は5代目もプロデューサーに諭されたことで弟子を指すときも「さん」付けを心がけるようになった。

好楽は林家九蔵時代から笑点のレギュラーだったが圓楽が司会に就任した直後、芸を磨かせる為一時降板させ5年後に復帰してからも(前回まで才賀が座っていた位置とは言え)一番司会席寄りの席に置いた。この為、すぐ隣に師匠がいる事に萎縮してしまい、顔色を窺うあまりまともに回答できなくなることが続き、見かねた三遊亭小遊三が1992年に自分と席を入れ替えさせている。

その小遊三も「気をつけなくちゃいけねぇぜ。面は長ぇけど気は短ぇからよ!」と大喜利(5代目圓楽時代の傑作問題「そいつは何者だね!?」の問題)で圓楽の短気さをネタにした回答をしており、これが原因で座布団を全て没収されている(その後得意演目だった「短命」にかけて「よーく見とくんだぜ!テキサスには珍しいブリのアラだ!」と回答し1枚もらった)。

2000年頃、笑点本番前に好楽に楽屋で大喜利での挨拶の稽古を付けていた所、好楽の挨拶が面白く無かったという理由で腹を立て、「今すぐ止めちまえ!」と大目玉を食らわせた事がある。すっかり落胆した好楽は番組どころか落語家業まで引退を本気で考えてしまう程落ち込んでしまい、腹の虫がおさまらない様子の圓楽に番組スタッフが恐れ慄く中、歌丸が取り成した事で何とか事無きを得た。


このように実際怖いエピソードこそあるが、番組内でもわかるようにかなりの笑い上戸で、豪快な笑い方は視聴者の誘い笑いを誘発する程であった。


大の甘党でも有名。弟子達の前で羊羹の包装をバナナのように剥いてムシャムシャ頬張りながら説教していた豆をつまみながらボロボロこぼしつつ何を言ってるかわからないような小言を語った、歌丸や林家木久扇と長崎に行った際、イチゴにかけるために置いてあった練乳の缶に口をつけて飲み干した等のエピソードがある。


「男は酒・タバコ・女をやって一人前」と、戦前の悪弊を引きずる落語界の中でも随一のヘビースモーカーで、脳梗塞を患い医者から止められても禁煙できず、入院中ですら弟子にこっそり買いに行かせたり、また同じくヘビースモーカーの歌丸が必ずタバコを持っていると踏んで見舞いに来た歌丸から寸借したりしていた。2009年の2度目の肺ガン発見時にも見舞いに来た歌丸に開口一番「歌さん、タバコ持ってないかい?」と問い、呆れさせたという。ちなみにこの時、歌丸は自身の肺気腫により禁煙していた。また、6代目は結果的に先代の死期を早めたとして師匠の死をきっかけに禁煙した。とは言え歌丸は慢性閉塞性肺疾患(通称COPD)で、6代目も師匠と同じく脳梗塞と肺がんという形で最終的に肺の病が命取りになっている。


ちなみに圓楽が亡くなった10日後に放送された「笑点」内の大喜利にて、司会を引き継いだ歌丸が、圓楽が卒業した後に加入してきた昇太を、当時昇太が49歳でありながら未だ独身であることをいじりつつ、自ら解答。

歌丸「圓楽さーん!」→楽太郎「(司会でありながら解答した歌丸に代わって)聞こえるかーい?」→歌丸「安心しなー!奥さんは昇太が面倒見るってさー!」→昇太「いや、いや…」→歌丸「どうやら昇太さんにもおめでたが近づいてきたようでございます


死後に新宿末廣亭で行われた楽太郎の6代目襲名披露公演において、笑点メンバーで当時落語芸術協会副会長だった小遊三が、楽太郎が生前に5代目から直接6代目に指名されていた事、何よりも5代目本人が弟子の6代目と並んで襲名披露を行う事を楽しみにしていた事を明かしている。


その他編集

タレント・ラジオパーソナリティである小林克也と声がよく似ている。

ヨネスケ同様、熱狂的な読売ジャイアンツのファンで、大喜利の際に巨人のマスコットのジャビットが描かれた扇子を扇ぐ光景もあった。


趣味の一つとして麻雀があり、しかも腕前は落語同様名人の域といえる程の雀鬼であった。

自宅近くにあった雀荘が行き付けの場所であり、暇を見ては着流し姿に下駄を履き、麻雀に理解のある弟子の誰かを引き連れて通っては散々に勝つことから、雀荘の常連達からは玄関先から下駄の音が響いてくると非常に畏れられたという。

また雀荘だけでなく自宅でも商品券等をダシにして賭け麻雀も度々開いていたが、弟子を始めに上述の腕前ぶりを知る人達は殆ど来なかったとのこと。

因みにホイホイと誘いに乗ってしまった哀れな人の末路は好楽曰く「大抵はケツの毛どころか産毛まで根こそぎ毟られる」だったらしい…

この逸話と寄席「若竹」の逸話からか、麻雀漫画「むこうぶち」には「三游会の若武」という圓楽をモデルにしたキャラが登場している。


妹は日本航空の客室乗務員をしていたが、1972年に発生した日本航空ニューデリー墜落事故(日本航空471便墜落事故)により23歳の若さで死亡している。

その時に圓楽は実家の本堂で寝ていたのだが、曰く事故直前の時間頃に誰も居ないはずの本堂に木魚の音が一つ響き渡り、驚いて起きたらそのすぐ後に訃報が飛び込んできて二度驚かされたという。

生前に実家の寺の墓地に予め自分の墓を建立しており、その側には早逝した妹の供養観音も作り逝去するまで毎年お彼岸の時期になると手を合わせに来ていた。


圓楽自身はその13年後、笑点の地方収録で徳島に移動する時、本来搭乗予定の便が遅延し日本航空123便に振替えるかという案が浮上したが、こん平の提案でメンバー全員予定通りの便に搭乗した。もしこの時日本航空123便に乗っていたら、笑点はそこで終わっていたことだろう。


五代目圓楽一門編集

弟子

※香盤順、現在門下のみ。♰は故人。

三遊亭鳳楽

三遊亭好楽 - 師匠林家彦六死後移籍

六代目三遊亭圓橘 - 師匠三代目三遊亭小圓朝死後移籍

六代目三遊亭円楽

三遊亭楽之介

三遊亭小圓楽

三遊亭貴楽

三遊亭佑行

三遊亭五九楽

三遊亭楽麻呂

三遊亭圓左衛門

三遊亭道楽

三遊亭栄楽

三遊亭とん楽

三遊亭楽春

三遊亭洋楽♰

三遊亭真楽

三遊亭竜楽

三遊亭良楽

三遊亭愛楽

三遊亭京楽

三遊亭全楽 - 七代目立川談志門下から移籍

三遊亭神楽

三遊亭上楽

三遊亭圓福

三遊亭大楽

三遊亭王楽 - 好楽の息子、2025年に七代目三遊亭圓楽を襲名予定。


移籍

三遊亭甘楽♰ - 六代目三遊亭圓生門下へ




関連タグ編集

吉川経家先祖

会一太郎…6代目の息子で弟子。5代目から見て孫弟子。声優・落語家として活動中。高座名三遊亭一太郎

三遊亭圓丈…弟弟子。前述の落語協会分裂騒動以降を対立が表面化した。

伊集院光…6代目の弟子。5代目から見て孫弟子。元落語家で高座名三遊亭楽大(初代)。落語家時代の自身と大師匠である5代目とのエピソードをテレビ番組で披露した。

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