概要
江戸時代中期の明和年間から続く噺家名跡の1つ。後述する7代目によって特に世に広く知られる事となったため、一般的には立川談志の名称は7代目を指して用いられる。
7代目の逝去以降は継承者不在の空き名跡となっており、立川一門における事実上の止め名として扱われている。
来歴
生い立ち
1936年1月2日、東京府東京市小石川区に生まれる。1952年に東京高校を中退して16歳で5代目柳家小さんに入門し、本名の『松岡克由』(まつおか かつよし)から一字を取った前座名『柳家小よし』を名乗る。1954年の二つ目に昇進に際して『柳家小ゑん』(やなぎやこえん)に改名後、1963年の真打昇進で名跡『立川談志』を襲名。本来であれば7代目に当たるが、本人の意志によって5代目の公称を一貫する。
『笑点』初代司会者として
1966年5月15日に演芸番組『金曜夜席』の後番組として発案、企画した『笑点』を開始し、1969年11月まで初代司会者を務める。
その当時アメリカで流行っていたとされるブラックジョークを好み、大喜利では「大人の笑い」系の問題が中心となっていた。第1回1問目の「この世に女がいなければどうなるか」という問題は、その好例と言える。しかし、金曜深夜であればともかく日曜夕方という時間帯にはそぐわず、これがもとで他メンバーと笑いの方向性を巡って対立。結局、1969年3月末にレギュラー陣全員が降板、メンバー総入れ替えとなるが不評で、自身も同年11月に降板した。
政界へ
1971年に第9回参議院議員通常選挙に全国区から出馬し、無所属で初当選を果たすが、直後に自由民主党に入党。1975年に沖縄開発政務次官に就任するも、以前に変わらぬ辛辣で的確な嫌味を含んだ発言を重ね、遂には二日酔いのまま出席した記者会見の場でその姿に激昂した記者の「公務と酒とどちらが大切なんだ!」との問いに対して「酒に決まってんだろ!」と返した一件が決定打となり、在任36日で辞任すると同時に自由民主党を離党。
全盛期
1983年に落語協会の真打昇進試験制度を巡って実の師匠であり協会会長の5代目小さんと対立し、協会を脱退して独自の落語家組織『落語立川流』を創立する。協会の脱退によって東京四大定席(新宿末廣亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場、鈴本演芸場)への出演禁止、即ち事実上の開店休業状態に追い込まれたが、寄席以外の場で落語会を設ける草の根活動を展開して徐々に大規模な会場での一門会、独演会を開催する「寄席に依存しない異色の落語家」として活躍する一方、その自由度を最大限に利用して進出したタレント、コメンテーター、レポーター業などで見せる理論武装の毒舌と不意に表れる純朴な人柄で人気を博す。
その後もテレビ、ラジオ、雑誌などを通じて活動を続けるが、50代半ばに差し掛かった頃から老いに対する悩みや焦りから鬱病を患い、それに伴う睡眠薬の常用や自殺願望を公言するようになる。1997年と1998年の2度に渡って食道癌の摘出手術を受け、2008年に発症した喉頭癌(声門癌)を境に服薬や定期通院による在宅療法に努めたものの、2010年11月に癌の悪性進行が明らかになると「死ぬまで落語を続ける」とする意志を固辞して声門摘出を拒否する。
晩年とその後
病状の進行から少しずつ声が出なくなる中にあっても、メディア向けの豪放磊落な振る舞いの裏で慎ましい体調管理を続けて精力的に活動し、2011年3月6日に生涯最後の高座となる『蜘蛛駕篭』(くもかご)を演じた2週間後の3月21日に入院。病状の悪化に伴う呼吸困難のため声門切開手術を受け、本人の希望により4月18日に退院。何よりも大切だった声を失った以後、ごく一部の執筆業を除いて一切の仕事を行わず在宅療養に努め、表舞台に姿を現す事は無くなった。自宅療養中に衰弱が進んだため9月12日に入院後、10月27日を境に昏睡状態に陥り、11月21日午後2時24分、喉頭癌により病没。享年75。
戒名は『立川雲黒斎家元勝手居士』(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)。葬式無用と言い続けた自身が生前に「戒名なんていらない。適当。こんなもんでいい」と何度か記した滅茶苦茶な戒名がそのまま用いられ、悪友として長く連れ添った毒蝮三太夫は「生前こんな戒名をつけたせいでどの寺も引き取ってくれなかった」としたが、最終的には文京区向丘の『浄心寺本郷さくら霊園』に設けられた墓所に納骨された。分骨された遺骨の一部は、生前の希望に従って2012年2月にお気に入りだったハワイの海岸など3ヶ所に散骨され、さらにその一部が4月に練馬区の居宅で愛し続けた桜の木の根元に埋められた。
なお海に散骨された遺骨は直後に魚が集まってきてほとんど食べられてしまったという。
なお、一時空き家となった練馬区の居宅は長女の松岡ゆみこが諸々の理由でリフォームを決め、前もって居住を希望した立川志らくが引き継ぐ運びとなり、その一連の様子は『劇的ビフォーアフター』への正式依頼「物件270 床下から潜望鏡が覗く家」として放映(2015年1月11日放送分)されて大きな反響を呼んだ。そして、番組が取り扱ったリフォーム物件から選定される年間大賞『匠が選ぶビフォーアフター大賞2015』の「思い出・再生部門」に、談志が使っていた当時そのままの形を残した書斎が選ばれた。
人物
8代目桂文楽、5代目古今亭志ん生、6代目三遊亭圓生、5代目古今亭今輔、8代目林家正蔵(林家彦六)など名手と謳われた先人の技術を多角的に分析し、その息と間の妙、語り口の特徴を巧みに織り交ぜた端正な話術に加え、多芸多才の中で落語に次いで得意とした講談の技量を併せて二つ目の小ゑん時代から稀代の才覚を存分に発揮した。
特に、講談の腕前も問われる噺『源平盛衰記』については初代林家三平曰く「小ゑんはアタシから『源平』を教わってたった3日で覚えたが、後にアタシが『源平』をやる際に小ゑんに稽古を付けてもらった時は思い出すのに1週間かかった」とする逸話が残されており、芸事に対しては自他共に妥協を許さない姿勢を徹底し、立川流独自の厳しい昇進基準や弟子への対応、自身の落語に対する痛烈な叱責や怒りという形でも色濃く反映されていた。
また、落語そのものを哲学的、あるいは感覚的視点から観察し、「落語とは人間の業の肯定である」「狂気と冒険」とする独自の持論を提唱すると同時に、時代背景をそのままに口伝で受け継がれてきた故の弊害となった「古典落語と現代社会の乖離」による落語の衰亡を誰よりも早くから憂い、自身を含む立川流の命題と位置付けて現代に通用する落語の在り方を積極的に模索し続けた。
自身の芸評や近代落語史を素噺調にまとめたものは別として新作にこそ手を染めなかったが、古典を現代に通じるものとするために幾度と無く手を加えては高座に掛け、他の落語家のアレンジが自身の感性に響くものであれば使わせてもらうべく深々と頭を下げ、演目中の符丁や用語などに詳細な解説を加える「落語を講義する」という前代未聞の枕やくすぐりを取り入れるなど、独創的なアイデアと数限りない実験成果によって立川流のお家芸とも言うべき自由闊達な芸風を確立した。
一方、立川志の輔を始めとする直弟子が総じて「人格は最低だが芸は最高」と評するように、洒落と本気の区別が付かない突飛な行動で周囲を困惑させ、気に入らないことがあれば江戸訛りで捲し立てる歯に衣着せぬ発言が目立つアクの強い人物像が先行し、その上で誰に憚ることなく好き嫌いを明言する独立独歩のイメージが強く、テレビやラジオといった広域公共放送の場であっても規制を無視した発言やネタ(陰部、麻薬、国際問題、凶悪犯罪者など)を平気で用いるために放送関係者からは煙たがられる存在であり、落語を披露する番組以外では「極めて扱いの難しい芸能人」の代名詞として君臨し続けた。その中で、強烈な洒落を帯びた感性や芸風、周囲の批評に物怖じしない行動理念に同じ匂いを持つ毒蝮やビートたけし、爆笑問題(太田光)を特に可愛がった。
これらについては、生前の本人曰く「ジャリ(子ども)の時分から世の中ってぇものを常に斜めから見ているひねくれ者なんですよ」と語っており、この視点から見て感じた世情の疑問や矛盾に対して納得の行くまで答えを求めなければ気が済まず、そのためには誰が相手であろうとも衝突や反目、孤立を辞さない姿勢を貫く性分だったからだとしている。
しかし、自身の戦争体験から物のありがたさ、特に食に対する感謝の念は人一倍強く、自ら購入した田畑で毎年欠かさずに稲作を続けて手作りの米を食し、冷蔵庫の残り物で作った弁当を持参して食事を済ませ、時には弁当とは別に用意した手作りの料理を差し入れとして振る舞うなど「食品や食材を無駄に捨てる」という行為を極端に嫌った。ただし、それを相手にする直弟子一同は戦々恐々であり、成功の代表例では立川談春が入門を申し込んだその日に食べさせられた「談志カレー」(残り物のホワイトシチューをベースに思い付きであらゆる食材や菓子、調味料を加えて煮込んだもの)、失敗の代表例では「何でもふりかけ」(出汁ガラの鰹節や昆布をベースに余り物の海苔、胡麻、漬物の他、時には飲み切れずに放置していたビタミン剤なども一緒にすり潰して天日乾燥したもの)が挙げられる。
肉が好物で、弟子はしくじった際にお詫びの品に高級肉を持っていって機嫌を取っていた。
肉の他にはドリアンも好んでおり、銀座の行きつけのバーにドリアンをキープしていた。
しかし飛行機に乗る前に山程食べた後、機内でゲップが出てしまいあまりの臭いに離陸一時取りやめ、ドリアン持ち込み禁止のホテルにこっそり持ち込んだのがホテル側にばれ、弟子が謝罪するはめになったなどの逸話がある。
手塚治虫の熱烈なファンであり、親交関係を持っていた。千夜一夜物語、ジャングル大帝のアニメに声優として出演し、ブラック・ジャックの文庫本にもメッセージを寄せている。
また元都知事の石原慎太郎とも親交があったが、会う度に互いを罵倒し合うという奇妙な友人関係を築いていた。
談志の死去数日前のこと。石原が電話口で
「おい談志、おまえもそろそろくたばるんだろう。ざまあみろ」
といつものように毒を吐くと、談志はそれに対してゼイゼイ言って返した。これに対して石原は
「あんたの人生に対する言い分が全部わかった気がする。人生で一番印象深い『会話』だった」
とお別れの会で述べている。
林家彦六は8代目正蔵を名乗っていた頃に「やること成すこと何でもかんでも上手く行きすぎるあまり、世の中が馬鹿馬鹿しくなって自殺するのではないか」と心配していた。
談志理論
- 『芸術は模倣より生ずる』
「芸事に天性のセンスが必要なのは当たり前で、それだけに頼らずに技術を練磨しなければ本物にはならない。しかし、その研鑽の方法にも良し悪しがあり、的確な技術を効率的に磨くのであれば、名人が名人たり得る技術を徹底的に研究しなければならない。ただし、折角の研究内容をそのままの形で出すだけでは単なる猿真似に過ぎず、それを手がかり、足がかりとして己の芸に反映させなければならない。」
- 『落語とは人間の業の肯定である』
「落語に登場する出演者は、誰もが間違いなく一個の知的生命体である。知的生命体とは『己を彼と区別して理解する自我を持つ存在』を指し、そうである以上は生きる苦しみ、死への恐怖、老いの辛さ、病の不遇などの不条理な宿業を背負っていて然るべきである。それを完全に理解した上で清いも汚いも包み隠さず己の全てを曝け出す、即ち業の肯定によって落語は初めて出演者の息遣いをも感じさせるドキュメンタリーとして完成するのである。」
- 『狂気と冒険』
「人間というのは馬鹿な動物だからこそ生きていく上で無数のルールを己に課し、その決まり事に従って世の中を渡り歩いて行くものである。しかし、得てして物事の本質はそうして作り上げられた常識の外にこそ転がっているもので、それを探し出すためには冒険が必要となる。世間の目から見れば一般常識から逸脱した奇行は狂気の沙汰としか映らないだろうが、常識の外を歩き回るにはそれを押し通す揺るぎない冒険心が不可欠である。つまりは、狂気がモノを言う。」
関連タグ
6代目笑福亭松鶴、3代目桂米朝、6代目桂文枝(前・桂三枝):上方落語の真髄を思い知らされ(その応対にも感銘を受けている)、以後はその理解者となり、東西噺家の橋渡し役として大いに貢献している。これは同氏の著書『現代落語論』にも雑感が記されている。
桂歌丸:『笑点』レギュラー枠オーディションで見せた芸で談志を唸らせた
大平正芳:練馬の居宅購入に際して金を催促されたが、後日の機知に富む返答で談志を見事に黙らせた
『笑点』歴代司会者
立川談志→前田武彦