プロフィール
来歴
1943年、新潟県の千谷沢村(現在の長岡市)にて生まれ育つ。中学卒業後、上京し1958年(昭和33年)に初代林家三平に入門、キツネ顔だったことから「こん平」と名付けられる。そもそも、当時の初代三平は二ツ目で本来ならば弟子を取れないはずだったが、地元からわざわざ米を一俵担いで弟子入りにきたこん平の熱意に負け、弟子入りを認めた。
1966年(昭和41年)より日本テレビの長寿番組『笑点』に第1回から出演(開始当時はまだ二つ目だった)。1969年より降板していたが、3年後の1972年に復帰。以後、2004年まで32年に渡り番組を支えた。
自身の出身地である千谷沢村を「チャーザー村」と呼びものすごいド田舎のように誇張するネタが定番の1つであった。なお、このネタに関してはジャンプ放送局に彼の親戚を名乗る投稿者が「本当なの?と言われて困っている」という投稿を寄せたことがある。
この地元ネタはかつては江戸あるいは上方出身の落語家だけに許されていたものであり、その慣例を破ったこん平は先輩噺家方からずいぶん苦言を呈されたようである。寄席の高座でもだいたい「(落語家は)新潟からおかしくなったんだ」「(今までの芸を誉める流れで)最近は『チャラーン!』」といじられる定番だった。
大喜利では声が高い上にめちゃくちゃ賑やかで、挨拶の「ちゃらーん!」や山田君との体を張ったやり取りは笑点の対象年齢を下側に広げていくことになる。
「肥溜めに落ちた」に代表される下ネタを多く発言する一方で、「ニースの別荘で詩集を紐解いているときに幸せを感じる」などの洒落た発言や、(ベートーベンの「運命」が挿入されたあとでサゲを言うお題に)「みんなが平和な地球を願っている。でも(ジャジャジャジャーン)銃声は未だに絶えない」など社会風刺や反戦の発言も目立っていた。
上述の下ネタ芸は、本来師匠の初代三平の意向で林家門下では厳禁であったが、田舎者キャラのこん平とその後釜を受け継いだたい平は「田舎者くささが出る」という理由である程度容認されている。
また、山田隆夫の座布団運び卒業などの所謂「山田君罵倒ネタ」を答えにした後に、山田がこん平を突き落として座布団をすべて持っていくのもよく見られた。
もっとも、「山田君罵倒ネタ」は故・6代目三遊亭円楽(当時三遊亭楽太郎)や故・桂歌丸、そして自身の後任である林家たい平もやっており、三人連続(こん平→楽太郎→歌丸の順)でネタをやり三人とも山田に突き落とされて座布団を全て没収されてたりする。特に歌丸は「山田君に失礼。仇取るから」と言っておきながら罵倒していた(ただし歌丸の場合、先の2人よりも優しめ)。
それから余り目立たなかったが、楽太郎や歌丸を罵倒する答えをする事もそれなりに有った。
また楽太郎が歌丸を罵倒すると、間良く合いの手を入れ、さらにツッコミを入れていた。これが二人の罵倒合戦を更に面白くもしていたのも事実である。
高座でこそ非常に明るい権助キャラだったが、酒癖が悪いというより「あの笑点のキャラが酒を飲んで騒ぐ」「落語家は上下関係に大変厳しいので断ることも難しい」ので行く先々で大変に迷惑がられた。
師匠・林家三平の急死に伴って林家一門を率いていかなければならなかったことや、自分が休養中に代役に入ったたい平を「見ていられない」として笑点を見れなかったりしたことからたいへん心労がかさんだようであり、飲酒量も増えていたのではないかと言われている。
ある時、師匠の長男である九代目林家正蔵(当時こぶ平)に、大酒飲みの三遊亭好楽の家にうっちゃられたところ、深夜にもかかわらず受け入れてくれたどころか娘が「有名人が来た」と大喜びし、どれだけ騒いでも一家そろって嫌な顔ひとつしないことからすっかり喜び、ずいぶん訪れたようである。
2004年に多発性硬化症という難病を患い、『笑点』を休演。これを受けて週刊誌にも「笑点メンバー総入れ替えか!?」という記事が載る中、暫くは弟子の林家たい平が代役として出演していたが、2006年に復帰のメドがたたないことから、五代目三遊亭圓楽と同時に卒業となった(たい平・昇太加入後すぐのオープニングではこん平・五代目圓楽両名の功績を忘れさせないためか、スタッフロールに一瞬登場している)。
代役であった林家たい平はスタッフやメンバーの計らいで正式にレギュラーとなり、同時に歌丸も5代目司会者に就任、春風亭昇太が新メンバーとなった)。
その後、療養中に糖尿病の悪化により壊死してしまい、左足の指を切断。
それでも2014年以降わずかずつではあるがTV出演も行っていた。
2015年には24時間テレビ〜愛は地球を救うで11年ぶりに笑点の席に座り、メンバーや観客とともに持ちネタである「チャラーン!!」を披露。2020年の高座復帰を目標にリハビリ継続を宣言した。翌年の同番組では、チャリティーマラソンに挑戦するたい平に触発され、自力歩行と文字を書くリハビリを受けていたことが特集され、当日は愛弟子に直筆の「がんばれたい平 おれもまけない」というメッセージを添えたタオルを手渡した。
2018年の桂歌丸の死去により、『笑点』第一回に出演した回答者としては存命する最後の一人であったが、2020年12月17日に誤嚥性肺炎のため死去。享年77歳。
趣味は卓球で、三遊亭小遊三と対決したこともある。こん平が新潟出身で、小遊三が山梨出身であることから、川中島の戦いを模した卓球対決となった。
師・初代林家三平の急逝に伴う“林家三平門下・離散の危機”回避に尽力した人物でもあり、移籍を決意した弟子を除いて師の門下であった弟弟子たちを自分の弟子として繋ぎ止め、若手弟子の多くを育て上げた苦労人で三平門下の功労者でもある。見かけによらず繊細で、苦労が絶えなかったことでそのつらさを紛らわすために朝まで飲み明かすことは当たり前であったようでそれが前述の病の遠因になったのではとも言われている。
もっともその豪酒ぶりは古今亭志ん朝も辟易させ1999年に披露した「試し酒」のネタに使われ、弟子のたい平にかつて笑点で共演した2代目春風亭梅橋(初代柳亭小痴楽)や4代目三遊亭小圓遊らも登場している。
因みにこん平は海老名家にとっては世話係であり、こん平の立場上から九代正蔵や二代三平もこん平を家庭教師のようにする形で稽古付けてもらった。また、直弟子でもたい平は新弟子時代は海老名家に住み込みで修行をして、こん平が海老名家に通って稽古を付ける形だった。
笑点を救った男
1985年8月12日に発生した日本航空123便墜落事故であるが、実は笑点メンバーが当該機に搭乗する一歩手前であった。林家こん平、5代目圓楽、古今亭朝次(現・7代目桂才賀)、三遊亭小遊三、林家木久蔵(現・木久扇)、三遊亭楽太郎(現・6代目三遊亭円楽)、桂歌丸、山田隆夫)、及び一部の番組スタッフとともに、羽田空港から伊丹経由で徳島入りする事になっていた。
予約していた便が悪天候で遅れていたため、ダイヤ通り離陸する後続の便に振り替えようした所で「予定通りの飛行機で行こうよ」と、こん平が言ったことで本来の便に乗ることとなった。その後続の便こそが墜落事故を起こした日航123便であり、笑点メンバーは移動中の車内のラジオでそれを知り唖然となったという。この一言がなければ、笑点はまったく違う歴史を辿るか番組自体が終わりを迎えていたかもしれない。
笑点での持ちネタ
- チャラーン…大喜利の各メンバー自己紹介の時、「こん平でーす!」の前ぐらいに発される掛け声。「ちゃんらーん」などとも表記されることがある。後々になると、「1、2、3」とタイミングを合わせるための前置きも付けて、客席ともども行うのが恒例になった。また、客席を促す際に、席順で直前である三遊亭楽太郎が「良識のある方々は決してこんなことに付き合ってはなりません」などと戒めたところでこん平が「誰に何と言われようとも怯んではいけません」と反駁するのもお約束であった。
- 若干の余裕…上と同様、大喜利自己紹介時の台詞。地方収録の際には、「〇〇(その土地名)で生まれて新潟で育ったこん平が、久方ぶりに故郷へ帰ってまいりました」と現地の諸々を褒めた後で、翌週に「第二の故郷というのはありがたいもので、友人知人が楽屋に手に持ちきれないほどのお土産を持ってきてくれました。この場を借りて厚く御礼を申し上げます。なお、客席の皆様にお知らせがあります。わたくしの鞄には、まだ若干の余裕がございます」と続けるのが常であった。特殊な例として通常収録の1999年11月7日放送回冒頭にてJA上越が地元産コシヒカリ100%使用の新米「雁木通り」を贈ってくれた事のお礼をした上で「なお、会場のお客様にお知らせがあります。我が家の米びつには、まだ若干の余裕がございます」と発言したほか、こん平の故郷である新潟県(村上市)で収録を行った2001年3月18日放送分の冒頭では「村上で生まれ、チャーザー村で育ったこん平が帰ってまいりました」、その翌週の2001年3月25日放送回(新潟県収録2週目)の冒頭では「なお、会場のお客様にお知らせがございます。私の帰りの鞄には、若干どころじゃない大幅な余裕があります」と言い換えた。
- 毒を盛られた…こん平が病気により卒業した後、弟子のたい平が毒を盛ってメンバーになったのではないかという噂から、6代目円楽ら(たい平本人を含む)がいじるようになった。
例)楽太郎「(2008年6月29日のたい平司会代行回にて)チャラーン!こん平でーす!」→たい平「活動休止なんだって?」→楽太郎「たい平に毒を盛られた…。」→たい平「山田さん‼︎全部(8枚)持ってってください!(しばらく間を置いて)あ!1枚残しといて下さい…。」
弟子
元は弟弟子で初代三平死後に移籍
ほか
直弟子
ほか