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ベートーヴェン

べーとーゔぇん

楽聖と呼ばれるドイツの大作曲家。古典派音楽の完成者にしてロマン派の先駆者。 聴覚を失うという、音楽家にとっての『死』をも乗り越え、現代に数多の名曲を遺している。
目次 [非表示]

「苦悩を突き抜ければ、歓喜に至る。」

概要編集

ドイツ作曲家

フルネームはルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig vanBeethoven,1770~1827)。

より近いドイツ読みは「ルートヴィヒ・ァン・ベートホェン」。


クラシック音楽の大家であり、「楽聖」などとも称される。

多くの音楽ジャンルに傑作を残した。古典派を完成させ、ロマン派の100年を切り開く先駆になったとも言われる。バッハブラームスと共にドイツ3Bの一人。


波乱に満ちた生涯編集

幼少期編集

祖父は有能な宮廷楽師であったが、テノール歌手であった父が無類の好きであり、祖父が亡くなると家財のほとんどが酒に消えていったため、家庭は貧窮していった。

幼少から非凡な才能の片鱗を見せていたことから、父親に『金の成る木』として当てにされ、虐待に近い苛烈な音楽教育を仕込まれることになる。その厳しさゆえに、一時は音楽嫌いになるほどだったという。

1778年にケルンでの演奏会に出演し、1782年よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。

修行の傍ら、貴族の家庭にピアノの講師として出向いて生活費を稼ぐ日が続く。


修行時代編集

1787年にかねてから夢であった音楽の都・ウィーンに出向き、モーツァルトの下に弟子入り志願に向かうも良い返事はもらえなかった。そして最愛の母が結核に倒れたため故郷へ戻るも、同年に間もなくこの世を去る。

この頃から父の酒癖はさらに悪化し、アルコール依存症となってしまったため、父の仕事を肩代わりしながら幼い兄弟たちの面倒に追われることになる。

1792年、ロンドンからウィーンへの帰路でハイドンと出会い、その才能を認められて師弟関係を結ぶ。

それから間もなくして、ウィーンで即興演奏の名手として名を挙げていくこととなる。


難聴との格闘、そして全盛期へ編集

二十代後半にさしかかって難聴を患うようになり、やがて症状は悪化の一途をたどっていく。

音楽家にとって『死の宣告』に等しいこの事態に一時は自殺も考えたベートーヴェンだったが、持ち前の不屈の精神でこの逆境を乗り越え、1804年に作曲した『交響曲第三番』を皮切りにその才能を見事に開花させ、のち10年に及ぶ全盛期へと突入することになる。


晩年編集

四十代に入ると完全に聴覚を失い、さらに持病である神経性の腹痛や下痢に悩まされることになる。また情緒不安定にも陥り、自殺未遂や非行を繰り返すようになってしまう。

しかしながら、こうした苦境の中で生涯の大作とされる『交響曲第九番』を完成させ、彼の作曲の才は円熟の時を迎えていくことになる。

だが1826年に肝硬変を患って以降、体の至る所に変調が現れていき、作曲活動は徐々に滞っていってしまう。

そして『交響曲第十番』の完成を遂げることなく、1827年3月26日にこの世を去った。

享年56であったという。


人物性編集

170cm未満という欧米人種としては小柄な体格だったが、体格は筋肉質でがっしりしており、黒い髪は常にボサボサに逆立っていたという。その目は常に強い生気を宿しており、豊かに現れる表情と相まって相手に強い印象を残したとされる。

感情や情緒の起伏が激しく、頑固でどこか偏屈な部分が散見されたという。

当時としてもかなりの変わり者で知られていたらしく、衣服や生活空間に頓着しない割には潔癖症で風呂好き、生涯に70回にも及ぶ引っ越しを繰り返し、作曲になると夢中になると周りが見えなくなり、曲を考えながら市街を歩き回っていると不審者として警察に連行されかけたことさえあるらしい。

頑固なことでも有名で、たとえ相手が目上の人間であっても決して自分の姿勢を崩そうとせず、周囲からは「傲慢で非社交的」と悪評が立つこともしばしば。中には「才能は素晴らしいのに人間性が残念」と評した人もいたという(←この評が当てはまる著名人は珍しくないが…)。


こうしたマイナス面が目立つ人物ではあったが、それでも当時はどんな音楽家たちよりも愛されており、彼の葬儀には2万人もの弔問者が訪れたとされる。


ベートーヴェン研究最大の汚点編集

ベートーヴェンの秘書にアントン・シンドラーという人物がいた。

彼はベートーヴェンの死後、偏屈で社交的ではなかった彼の数少ない友人が亡くなると自分に都合よく脚色したベートーヴェンの伝記を出版した。

更にベートーヴェンの残していた手紙など貴重な史料を、伝記と折り合いをつけるために破棄した事などが明らかになっており、有名な逸話のいくつかはこの人物の創作と見られている。


特に、シンドラーが書いたベートーヴェンの伝記で「会話帳」と呼ばれている筆談用のメモ・ノートをベートーヴェンの死後に管理していたのは彼であり、一次資料である筈の「会話帳」には、彼の主張・著書に沿った追記をした箇所が多数有り、現存する会話帳139冊の内64冊、ページ数にして240ページ以上が明らかに改竄されている。

また、彼自身が生前に「元々『会話帳』は400冊前後有ったが、価値が無いと思われた箇所は引っ越しなどの際に捨てた」と認めており、その言い分が正しければ「会話帳」の半分以上が彼の手によって破棄された事になる。


更に恐るべき事に、彼の存在・所業を知らない人が持っている「ベートーヴェン」に対するイメージの多くは、彼によって広められたものであり、例えば「ジャジャジャジャーン」で有名な交響曲第五番(運命)の冒頭部分のモチーフが「運命が扉を叩く音」だと云うのは、同時代の資料では、彼の著作と「会話帳」の改竄箇所以外に典拠は無く、ベートーヴェンの別の弟子は「小鳥の囀り声がモチーフだ」と証言している(つまり、交響曲第5番の通称「運命」はベートーヴェンに関する数々の情報の隠蔽・捏造を行なった者により広められた根拠不明の呼び名)。

なお、彼はベートーヴェンの死後、指揮者としても活動しており、下手をすると「ベートーヴェンの楽曲をどのように解釈し演奏するか?」についてさえも、彼による情報汚染を免れているとは言い難い。


「楽聖」としてのベートーヴェンのイメージが後世に伝わった経緯に関しても、彼の「捏造」「情報隠蔽」による「貢献」を避けて論じる事は、ほぼ不可能である。ある意味で、学術的には最も許し難い人物だが、宣伝屋・プロデューサーとしては無類の成功をおさめた人物とも言えよう。


代表的な楽曲編集

交響曲編集


ピアノ編集


彼をモデルにした作品orキャラクター編集


関連イラスト編集

醜男と言わないで【欧州音楽家】前略、路の上より

色々まとめベートーヴェン


関連タグ編集

クラシック 音楽家 作曲家 欧州音楽家

佐村河内守 - 全盲の作曲家として知られ「現代のベートーヴェン」と呼ばれていたが……

弁当-語感が近いためダジャレに使われることが多い。

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