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ハイドン

はいどん

フランツ・ヨーゼフ・ハイドン。弦楽四重奏曲の父と呼ばれ、交響曲の基本を完成した大作曲家。
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概要編集

フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732年3月31日~1809年5月31日)


弦楽四重奏曲の父と呼ばれ、交響曲の基本を完成した大作曲家。

合唱団にいた少年時代はバロック後期で、最後に感銘を受けたのがベートーベンの「英雄」と、長期間に渡る芸術・文化の進歩を経験した。


人物概要編集

 日本人でモーツァルトよりハイドンが好きだという人は100人に1人くらいだろう。よってハイドンの実像はあまり理解されていない。クラシックガイドを書く学者ですら、「(1791年に亡くなった)モーツァルトが(1794年作曲の)ハイドンの交響曲「時計」の第1楽章に感銘を受けて、弦楽四重奏曲「狩り」を・・・」などと平気で間違った論評をしてしまうほどだ。

 ハイドンの最高傑作は何だろう?おそらく弦楽四重奏曲作品76のグループ(1797年)の第75番のフィナーレ、「5度」の第1楽章と第3楽章、「皇帝」の3つの楽章、「日の出」の全部の楽章(第3楽章が、アニメの『デスノート』で、NHN歌謡祭で高田清美が挨拶する場面で使われています)、「ラルゴ」の前の3つの楽章、第80番の第2楽章だと思う。それに第2ザロモンセット(1794年~1795年)の「時計」「軍隊」「太鼓連打」「ロンドン」が続く感じだろうか。ちなみに弦楽四重奏曲の「騎士」(1794年?)の両端楽章も60代の老人の所作というよりは、弟子だった若きベートーベンみたいな緊迫感を感じさせてくれる。

 オラトリオ「四季」等を上げる人もいるだろう。四季は長時間の大作で・・・とか思うだろうが、対位法的には後退をしている。対位法とは異なる同時音型の合奏がハイドンの晩年の好みだからだ。

 ハイドンがインスピレーションが働いた時に一気呵成に完成させた曲はすばらしい。無名の曲の代表として、交響曲第52番ハ短調を聴いてみて欲しい。この曲がモーツァルトの小ト短調交響曲(第25番)など短調の真価を追及した作品群に与えた影響は計り知れないと思われる。

 では、ハイドンの交響曲は全てすばらしい完成度を誇るのだろうか?答えはNOである。ハイドンは作曲家というよりはむしろプロデューサーだったのだ。(1790年のエステルハージ時代まで)いかに楽員たちに効率的に仕事をしてもらうかを最優先していたため、例えば「うん、フィナーレはこんなもんでいいだろう」と手抜きをするのが常だったのだ。彼の交響曲と弦楽四重奏曲も第1楽章は名曲ぞろいだが、フィナーレは手抜きが散見されることが多いのだ。名作「ラルゴ」もフィナーレになると残念ウサギな感じになってしまうのだ。この手抜きによって「とても残念な結果だ」という感想が多く出ていたため、古典派の大家とはいえ、モーツァルトやベートーベンほどにマエストロと言われることはない。


ハイドンとモーツァルト編集

ハイドンは1732年生まれでモーツァルトよりも24歳年上だった。二人はライバルというよりは固い絆の友人だった。1791年モーツァルトの亡くなる数ヶ月前に、ザロモンの招きでロンドン行きが決定し、ハイドンの壮行会が行われたという。モーツァルトはパリにすら出たことのない高齢のハイドンの身を案じ、ロンドン行きを反対するほどだった。そして、最後に「パパハイドン!行かないで!もう会えないかもしれない……」といって抱きついて泣きじゃくっていたと伝えられている。

 ハイドンはモーツァルトを世界一の作曲家として手放しに褒め、モーツァルトの作り上げた世界を尊重するために、自分の不得手とするピアノ協奏曲とオペラから手を引いてしまったのである。モーツァルトは自分こそ世界一と自負しながらも、自分とは異質のハイドンの稀代の個性に惹かれ、彼の音楽を尊敬していた。弦楽四重奏曲の作曲に苦労していたモーツァルトも、1781年のハイドンのロシア四重奏曲にインスピレーションを得て、いわゆる力作ハイドンセットを作曲して献呈している。モーツァルトは「弦楽四重奏曲の作曲の仕方や発想がやっとわかりました」といってハイドンを尊敬している。

 ハイドンは職人気質のような頑固なプライドを持つ反面、社交家で、場の雰囲気を楽しく盛り上げるよき人柄であった。70歳の誕生会で、今日では無名のモーツァルト2世が父親のピアノ協奏曲を弾いた時も、二流の演奏でありながら、涙を流して感激してみせたという。モーツァルトは逆に二流で自分の感性に合わない音楽家には、アカギがニセアカギに「凡夫だ」とか「なるほど二流だ」と言い放ったように、酷評し受け入れなかった。映画「アマデウス」でもバイオリンの大家を三流呼ばわりしている場面がある。ベートーベンがそのピアニズムを尊重していたクレメンティに対してさえ「偽物の音楽、ペテン師」などと酷評していたのである。


ハイドンとベートーベン編集

若きベートーベンは1793年にハイドンに入門し、1794年にピアノ三重奏曲で華々しくデビューを飾り、まもなくピアノ協奏曲第2番で多くのファンを獲得した。ファンたちはアダージョの大家といわれたベートーベンの片鱗を第2楽章で見せ付けられることとなる。多くの人々が感涙にむせび、ベートーベンは苦笑しながら「みなさんは道化師ですか?」とジョークをとばしたと伝えられている。そんな天才青年ベートーベンも少年時代・青年時代は苦労続きだった。タイミングが悪かったとは言え(モーツァルトもベートーベンも家族を亡くした)モーツァルトにピアノ演奏をほとんど無視され、弟子入りのチャンスはフンメルに奪われてしまった。あまりの悔しさにモーツァルトとハイドンの前で自暴自棄になり暴言を吐き、楽譜を破り捨てるという騒ぎを起こしてしまったとも伝えられている。

 そんなベートーベンとハイドンの弟子・師匠の関係は実は、カイジ兵藤和尊の関係にも似ている。ベートーベンが入門した1793年は2回目の渡英の準備でハイドンは多忙を極めていた。しかし、お金が絡むと事情は異なる。ハイドンはベートーベンから恐らく多額の授業料を受け取っていたのである。しかし、ベートーベンの提出する課題に対して、ハイドンは持ち前の効率主義という手抜きで酬いたのである。厳格な対位法による作曲の技法や発想を大家ハイドンに学びたいと思っていた真剣なベートーベン。手抜きと手違いによる見当違いな添削は高い授業料を払ったベートーベンを大いに落胆させた(船井にだまされるよりはマシなストーリーかもしれないが)

 そして激しい性格のベートーベンをハイドンは結構敬遠していたようだ。後にベートーベンは自分の弟子に対しては星一徹並みの厳しさと暴力で接していた。ピアノ演奏強化ギプスの装着に異議を唱える弟子たちに容赦なく楽譜やローソクを投げつけていたと伝えられている。ベートーベンがモーツァルトに無視され、後にハイドンと対立するのも極端な性格が災いしたのかもしれない。

 何かハイドンの機嫌を損ねることでもやらかしたのだろう。高い授業料を取られながらも、2回目の渡英にベートーベンはお供することが許されなかったのである。これにはさすがにベートーベンも怒った!ロンドンで大成功を収めて悠々と帰還したハイドンは、デビューを果たしたベートーベンの楽譜に「ハイドンの弟子、ベートーベン」と書くように命じた。しかし、ベートーベンは「ふざけろ!俺はあんたの弟子だったけど、あんたからは何ひとつ学んだものがねーんだよ。」と言って拒絶した。

 ハイドンには黒服部隊のような取り巻きが何人もいた。ハイドン自体は温厚な振る舞いをしていたが、黒服は18世紀末の音楽界の権威としてハイドン至上主義を展開した。クレメンティが交響曲で目が出なかったのも黒服部隊の妨害が原因と言われている。そんなハイドンの弦楽四重奏曲を研究したベートーベンは弦楽四重奏曲作品18を完成し、その初稿をハイドンに見せた。(1798年)新しい感覚の旋律や和声・より巧妙な転調そして力強い全奏など、大胆な変化に富んだ力作の底力をハイドンが理解することはできなかった。そして、日頃から二流作家であっても暖かく励まし見守る優しいハイドンは冷たく言い放った。「何だこれは?私が教えた手本とは全然ちがうものになっているじゃないか!弟子というものはまず師匠の手法を尊敬するものだ。いずれ、私だったらこんな書き方なんてしない」

 ここにベートーベンはハイドンに復讐を誓う「兵藤っ!這わせてやるぞ、いつの日か!次は俺が勝つッ!」

こうしてベートーベンは作品18の推敲に2年以上もかけて、画期的な力作に仕立てたのである。我々が今日聴くのは最終稿による演奏である。

 このように二人の関係は決して良好なものとはいえなかった。そんなハイドンもベートーベンの交響曲「英雄」が演奏された頃には、「モーツァルトに代わる真の巨匠」と褒め称えたと言われる


ハイドンの作品の特徴編集

 ハイドンは77歳までの長生きで、ベートーベンにも匹敵するほどの作風の変化が認められる。彼自身の好きな旋律や和声のクセは最後まで抜けなかったが、それ以外の総合的な部分では大器晩成型ながら驚くべき進歩と変化を遂げている。1760年代はヘンデル等のバロック後期のスタイルを踏襲して,

貴族の有職故実とも言えるような音楽を好んでいた。だがその30年後にはベートーベンにも影響を与えた斬新さと立体的な充実感という人類の管弦楽の基本的な音ともいえる基本を完成している。モーツァルトやベートーベンが時として100年先の音を作り出したとよく言われているが、ハイドンも交響曲第88番の2つの楽章では、プロコフィエフのような金属臭のする音(特に第1楽章のモーターのような音)を響かせている。この音はモーツァルトでは絶対に作り出せない音楽だと指摘されている。

 ハイドンの後期の交響曲はよく、「大きさのちがうまちまちの大きさのレンガを積み立てた音楽」だと言われている。歌うアレグロといわれるモーツァルトや、流れるような美しさをもつベートーベンの「英雄」などとは異なる構造をもち、とっつきにくいという第1印象を与えている。しかし、それは時として交響曲第98番の第1楽章のように精密な部品で組み立てられたような構成美に高められている。

 そんなハイドンも第2楽章とフィナーレではよくボンカレーを使ったような手抜きをして楽団の運営の効率化を最優先していたようだ(全部の曲ではないが)しかし、その報いとして西洋人にすら、20世紀前半の頃にはハイドンの曲はほとんど人気がなかった。トスカニーニが「時計」の2回目のレコード録音をすると発表すると「マジっすかー?」と驚かれるほどだった。

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