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林家木久扇

はやしやきくおう

日本の落語家、タレント。「笑点」の出演者のひとり。バカの皮を被った教養のある人
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概要

落語家の一人。本名は豊田洋(とよた ひろし)。
主なネタは「自称与太郎」「雨乞い師・カッパ(三遊亭好楽から振られる)」等、おふざけやギャグダジャレが多く、桂歌丸や客に先に答えを言われることもしばしば。

愛称は「木久ちゃん」(主に歌丸が使う。)

反面、回答メンバーでは唯一の戦前生まれ(1937生まれ)であることから「終戦の あの日を想う 暑さかな」など戦争や社会に対して鋭い風刺をすることも多い。但し、その直後におちゃらけて座布団獲得を取り消されることも少なくない。

6代目円楽ほどではないが、歌丸罵倒ネタを使うことが多く、「はげちゃびん」と言っては「ばかちゃびん」と返される。

漢字の偏の横に別な漢字を書く漢字遊びの問題では字ではなく絵を描くため、叱られることもある。

2010年以降、笑点メンバーは概してAKB48ネタ(特に「会いたかった」)を使うようになり、とりわけ木久扇が頻繁に使っているのだが、毎回ズレている(具体的に言うと、一般には「会いたかったー」と終助詞の「た」を伸ばすところなのだが、木久扇は「会ーいたかった」と「会」の部分を伸ばしている)。
2013年ごろから笑点の大喜利の答えで暁テル子の「ミネソタの卵売り」を歌うことが見られるようになったが、司会の歌丸からは「これが原因で癌になった」と揶揄されてしまった。
2016年には挨拶や解答にピコ太郎PPAPを取り入れるが、挨拶ではなぜか色々とアレンジの末、「どこが面白いんだよ!」と逆切れする。

ちなみに笑点の楽屋ではぼっちらしい。別にハブられているとかそういう意味ではなく「近寄ると変な商売を持ちかけられるから誰も寄り付かない」だとか。

経歴

森永乳業サラリーマン勤務を経た後漫画家を目指してアシスタントをする(師事したのは後に河童のイラストで名を馳せた漫画家の清水崑)も、そこでたまたまいろんな役者のモノマネをしていたら清水氏に「君は漫画家より落語家に向いているようだから、落語家になりなさい」と言われて落語家に転身した、と言う経緯がある。この時の経験から絵を描く事が巧みであり、笑点チャリティーカレンダーに自身の作品を提供したり、自著や落語のCDのイラストを全て自前で制作する事もしばしば。また漫画サンデーで連載も持っていたプロであった。

当初は3代目桂三木助の弟子となり、「木久男」という名をもらうが、僅か入門1年で三木助が死去。三木助は当時、年配の弟子たちを全員元の落語芸術協会に預け、前座の弟子たちのみを引き連れて落語協会に移った経緯があり(なお当時の木久男は移籍後に新たにとった弟子)、兄弟弟子を頼ろうにも前座や二つ目ばかりでどうにもならなかった。
兄弟子二人が三木助の親友でもある5代目柳家小さんの元に移籍したのに対し、木久男のみ小さんの兄弟子にあたる8代目林家正蔵(後の林家彦六)の元へ移籍し、「木久蔵」となる。この木久蔵の名は「三木助の弟子だったから木という字は残そう。そして私の正蔵という名から蔵をあげよう。そして久しくやれるように久という字も入れよう」という弟子想いの彦六ならではのエピソードがある。

2番目の師匠彦六に対しては、その清貧さを評価しつつも、落語の人物さながらの長屋住まいで金に無頓着だった「昔ながらの落語家」というスタイルを保ち続けたことには批判もしている。これは少年時代の自身の苦労から「金はあるに越したことはない」を信条としているためであり、対象的に豪邸を建て高級車に乗り週刊誌記者からは逆に「正蔵を見習え」と批判された3代目古今亭志ん朝を賞賛している。自身も所属事務所を作り、ギャラの管理から木久蔵ラーメンの販売まで行っているのは、自身の高い経済観念故である。

声帯模写を得意とし、時代劇にも造詣が深いことから高座では披露することが多く、これを生かした『彦六伝』や『昭和芸能史』(両者が重なる部分も多い)という新作落語を作っている。
また、前述したとおり、かつては漫画家を目指していたこともあってサブカルチャーに関しては歌丸以上に理解を示しているようで、劇場版ドラえもんのび太の南海大冒険では声優を務めている。
また歌手としても1978年にいやんばか〜んをリリース、笑点でたまに歌うこともある。
(他に1975年に「酔姫エレジー/歌奈里亜」、1979年に「とびだすな!!/村のおまわりさん」も販売された。)
2016年には息子・二代目林家木久蔵、孫の久美子と寿太郎、そして木久扇一家と親交のある元オフコースの鈴木康博によるユニット『木久ちゃんロケッツ』「空とぶプリンプリン」を37年ぶりにリリースした。このほか、2012年にヴィジュアル系など90年代ロックのカバーコンピレーションアルバム(もちろん、V.A.であり、木久扇は参加していない)のジャケットでヴィジュアル系アーティストのようなメイクをしたことがある。

実は生前の横山やすしとも親交があり自身の主催する「日本ラーメン党」の副会長兼大阪支部長にやすしを任命している。

2014年7月に初期の喉頭癌と診断され、7月末から笑点を休み治療に専念していたが、10月19日の放送から笑点に復帰することになった。闘病記の執筆や講演の依頼などもあるようで、復帰したときに楽屋では「癌がこんなに儲かるとは思わなかった」と冗談交じりに発言していた。

名前の公募から襲名まで

長い間「木久蔵」を名乗っていたが、息子の「きくお(後の2代目木久蔵)」が真打昇進するのに伴い、自身の名前を譲ろうとしたことから、2006年10月に笑点で自身の名前を公募することに。2007年2月4日の中間発表でのメンバーの候補名は以下の通り。
歌丸「林家愚真八(グーチョキパー)」 小遊三「林家加山雄蔵」 好楽「林家?蔵(おやぞう)」 昇太「林家馬鹿面(うまかめん)」 楽太郎「椎名巌(歌丸の本名)」 たい平「林家木造二階建て築40年2DK風呂無便所共同駅から徒歩10分敷金礼金一か月分ペット不可お天気の日には富士山も見える蔵」
そして2007年5月6日の名前発表でメンバーに相談した時(同年4月21日収録)は、「林家三茶」「林家彦蔵」「林家木久彦」「林家画太郎」「林家木久扇」の5つに絞りこんでいたが、最終的には「木久扇」に決定した。ちなみに「木久扇」という名の案で応募されたのは2通だけである。

彦六伝

自身の師匠である林家彦六の日常風景の姿を切り取り、弟子である木久蔵が経験した失敗談や体験談を交えつつ脚色を加えて編み出した滑稽噺。
以下の様なネタがある。

  • 彦六がテレビでバスケットボールの試合をじっと見ている姿を目にした木久蔵は「明治生まれなのにこうした新しい物事もネタにしようとしているのか。」と遠巻きに感心していたが、その矢先に彦六はテレビに向かって「誰かが教えてやりゃあいいじゃねえか。」と口走った。彦六の一言が理解できずに「どうかなさいましたか?」と聞いたところ、彦六は「テレビを見てみろよ。さっきから若えやつがボールを拾っちゃ網の中に入れてるが、底が無えのを知らねえんだ。」と言った
  • 孫弟子の春風亭小朝が彦六の誕生日に祝い品を携えて長屋に参じた日のこと。感謝もそこそこに彦六が包みを解いて箱を開けてみるとそこにはチョコレートが入っていたが、どれもがいびつな丸みを帯びた奇妙な形をしていたためにどう食べてよいものか思案に暮れ、とりあえず口中に入れてみた。なるほど確かにチョコレートだとしばらく口中で転がしていたが、程なくしてやけに硬くて歯が立たない何かが現れ、手に吐き出してみると楕円形をした茶色いものが出てきた。高価な贈り物をあまり好まない彦六の性分を知っていた小朝が機転を利かせ、比較的安価でありながら当時はまだ珍しかったアーモンドチョコレートを用意したのだが、そうしたチョコレートをまるで知らなかった彦六は「やい、小朝。このチョコレートには種がある。」と言った。
  • 鏡開きの日、神棚に供えてあった鏡餅を水餅にしようと思った彦六は木久蔵を呼んで鏡餅を下ろさせる。しかし、神棚の下には長火鉢にかけられた鉄瓶から常に湯気が立っており、その湯気に当たり続けていた鏡餅はカビが生えている酷い有様であったため、彦六は木久蔵にカビの生えた部分を小刀で削り取るように改めて促す。手を滑らせないように注意して作業を続ける木久蔵の様子をぎこちないと感じた彦六は、大怪我があってはならないとする親心からその手元をじっと見つめていたが、当の木久蔵には刺さるような彦六の視線が耐えられない。そこで、どうにか間を持たせようと一計を案じて「師匠、どうして餅ってカビが生えるんでしょうかね?」と彦六に質問すると、すかさず「馬鹿野郎、早く食わねえからだ!!」と答えた

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桂歌丸 三遊亭小遊三 三遊亭好楽 春風亭昇太 三遊亭楽太郎 林家たい平 山田隆夫 木久蔵ラーメン

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