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三遊亭小圓遊

さんゆうていこえんゆう

三遊亭小圓遊は、落語家である。ここでは4代目について述べる(メイン画像下段右)。

概要編集

本名:関根 尚雄

1937年8月3日生まれ、1980年10月5日没。


1955年、4代目三遊亭圓遊に入門し、2代目三遊亭金遊を名乗る。

1964年からラジオ番組のレギュラーとして人気となり、1966年に「笑点」が放送開始されると、前身番組の「金曜夜席」のレギュラー陣(7代目立川談志、5代目三遊亭圓楽桂歌丸、初代柳亭小痴楽林家こん平)に混じって参加する(「金曜夜席」のレギュラーだった柳家きん平が直前に自殺したため、その後任として)。

1968年、真打に昇進し4代目三遊亭小圓遊を名乗る。

1969年に談志と対立し他のレギュラー陣とともに一旦は降板するが、談志が降板すると歌丸とともに復帰。

その歌丸とは「ハゲ」となじると「オバケ」と返されるなど、常に罵倒合戦(ハゲ・バケ合戦)を展開させたが、実際は年齢・落語家としての香盤も近かったためとても仲が良かった。

5代目圓楽の降板までは歌丸が1枠、小圓遊が6枠と両端に座っており、間の4名もとばっちりを食らうことがあった。

この位置関係はのちに三遊亭小遊三林家たい平に図らずも受け継がれ、こちらは両者の出身地をダシにした「大月秩父戦争」を展開した。

しかし、笑点のキャラにプレッシャーを感じた結果酒に溺れ、笑点の収録にも支障が出るほど重度のアルコール依存症になる。

1980年9月に逝去した初代林家三平も最後まで小圓遊の体調を心配していたという。

同年10月5日に公演先の山形県で倒れ、43歳の若さで息を引き取る。偶然この日は笑点ハワイ公演の放送日であり、「三遊亭小圓遊さんは本日亡くなりました」のテロップは多くの人を仰天させた。後々公演に同行していた林家木久扇がこの時のことを語っている。

またこの日は映画「伊豆の踊子」で共演したことがある山口百恵の最終公演が行われた日でもあった。

師匠の圓遊は小圓遊に先立たれたショックで高座から遠ざかり引退同然となりわずか3年3ヶ月後の1984年1月に逝去した。


なお小圓遊の名は初代や3代目も公演先で客死していることから、縁起が悪いとして現在も封印されている。

また小圓遊の前名である金遊の名跡は弟弟子の三遊亭楽遊が二つ目に昇進した1979年に引き継がれ、2019年に岡山で急死するまで通した。奇しくも金遊もまた二代続けて公演先で客死という数奇な運命を辿り、こちらも現在は空き名跡のままである。


その後水色の紋付は林家九蔵(現三遊亭好楽)に引き継がれた。好楽が1983年に落語修行の為番組を一時降板した後、小遊三が引き継ぎ現在に至る。なお、好楽は1988年に7代目桂才賀の後釜として復帰した際、紋付を当初のピンクに戻している。


余談だが、時代は下って小遊三は歌丸や木久扇に小圓遊と言い間違えられたことが何度かある。また、歌丸は本番前に楽屋で小圓遊の思い出話をしていたために間違えたと釈明したことがあった。


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