生涯
本名:山﨑 松尾
1900年9月3日生まれ、1979年9月3日没。
幼少時は義太夫の修行をしていたが、母が橘家小圓蔵(のちの5代目三遊亭圓生)と再婚してから落語に関わるようになり、明治42年に怪我を機に義太夫を断念し継父の師匠である4代目橘家圓蔵に入門し、橘家圓童を名乗る。
その後継父から小圓蔵の名を継ぎ、大正9年に5代目橘家圓好として真打昇進、大正11年に4代目三遊亭圓窓、大正14年に6代目橘家圓蔵と改名するものの、全く売れなかった。
1941年に6代目圓生を襲名し、満州を慰問。帰国後は満州での厳しい生活が芸を磨いたのか、ようやく売れ始める。以降は「昭和の名人と言えばだれか」という話題が上がれば古今亭志ん生と桂文楽らとともに必ず挙げられるほどの名声をほしいままとした。
ただし当時は「名声の割にはあんまり面白くない」という、いわゆる名前負けの代表格のように扱われていた。彼の芸が本当の意味で伸びていったのは晩年に向けてだったといわれており、これは関係者から部外者、それどころか「名前負け」と揶揄していた人に至るまでに共通する認識だったという。
1965年に8代目桂文楽から落語協会会長を引き継ぎ、協会の近代化を進め、後に5代目柳家小さんにその座を譲る。
1978年に協会の方針を巡って脱退し、新協会を設立する(落語協会分裂騒動)。
1979年に圓生は誕生日の高座を降りた直後に急死。皮肉にも同日上野動物園のジャイアントパンダのランランが死亡したため、話題はそちらに集中し、昭和の名人の1人と称された圓生の訃報記事は小さく扱われた(ただしスポーツ新聞ではパンダと同格程度だったという話もある)。席亭の北村銀太郎は「もう1日前か後にずらせばよかった。そんな芸もできないほど弱っていたのか」とその死を悼んだ。
圓生の死後、惣領弟子の5代目三遊亭圓楽は弟弟子達を落語協会に送り返し、自分の弟子達だけで三遊協会を「大日本すみれ会」と改め、さらに後に円楽一門会と改める。
圓楽は圓生の名を、自分の死後に惣領弟子の三遊亭鳳楽に継承させようとしたが、弟弟子の3代目三遊亭圓丈、6代目三遊亭圓窓の猛反対に遭い、圓生の名は遺族によって封印される。
現在では芸や人物ではなく後述する「江戸落語の分裂問題」に際して語られ、その原因を彼の性格に求められることが多い。
だがその堅実な芸に加え、幼少期から芸能一筋、9歳くらいのときにすでに高座に上がっていたという、芸能漬けというよりも「生活と芸能が一体化した」波乱万丈な人生と、その中でストイックに芸を磨いていった大器晩成ぶりなども評価点のひとつである。
気難しい性格と女癖の悪ささえなければ、「大器晩成の立派な人」として伝記などの題材にもなっていたかもしれない。あの志ん生がメイン格の大河ドラマなんてのもあったくらいなんだし。
落語協会分裂騒動
現在圓生について語られる場合、ほぼこの分裂騒動が説明のメインとなる。
圓生の会長時代、昇進の基準を非常に厳しくしたこと、特に嫌い合っていた8代目林家正蔵(のちの林家彦六)門下の昇進をことごとく邪魔していたことから、協会内には10年経っても真打になれない落語家が40人いるという異常事態が続いていた。読者にも分かりやすい例だと、笑点の林家こん平や5代目鈴々舎馬風などが圓生によって真打昇進を阻まれていたのだが、これは「正蔵や三平が嫌いだから意地悪しよう」という魂胆ではなかった。
弟子の三遊亭圓丈は「うまい二ツ目は、ドンドン抜擢し、長くやってる下手な二ツ目は、その間に挟み込むような形でうまく廻っていた。(中略)円生が会長になり、従来の方式で真打をつくっていった。そのために真打になれない二ツ目の数がドンドン増えていった。そして会長を小さんにバトンタッチしたときは、落語界の社会問題になる程増えていた。(中略)事の善し悪しは別として、今の真打制度を続ければ当然、大量真打をつくるしかないのだ。」と評し、これを(協会側の騒動関係者のひとり三代目三遊亭圓歌師がかつて落語家に転職したキッカケとなった)「国鉄の人事問題」に例え、いつか向き合う問題だったという趣旨のことを述べている。
この若手落語家の不満爆発を恐れた小さんが真打の大量昇進を決定したことに激怒し、圓生は1978年に若手の真打昇進に積極的な3代目三遊亭圓歌・4代目三遊亭金馬(のちの2代目三遊亭金翁)・5代目春風亭柳朝を常任理事から解任し、古典落語のホープと呼ばれた圓楽・7代目立川談志・3代目古今亭志ん朝を理事から常任理事に昇格させろと提案するが、小さんは常任理事枠を3人から6人に拡大することで収めようとした。これを自分の提案を却下されたとみなして遂に堪忍袋の緒が切れた圓生は、弟子や7代目橘家圓蔵とその弟子の5代目月の家圓鏡(のちの8代目橘家圓蔵)、志ん朝らを引き連れて落語協会を脱退する。
金馬によれば、背景には真打の位置づけについて「芸を磨き上げた者だけが到達できる頂点」とする圓生派と「一人前の証程度であり、むしろここからが本番のスタートライン」と考える正蔵他大勢との対立があったという。
また、圓生の会長時代は前任者による院政が敷かれており、自分にもその権利があると思っていた圓生は協会の意思決定が合議制へと移動していくことに不満を抱いていたといい、「権力志向の強かった落語家が、こういうことで不満を持っていた圓生を担ぎ上げた」という面もあるという。
そしてこの話は元々、すでにだいぶ売れっ子であった圓生が一人で協会を離脱してフリーランスで続けるつもりであり、そんな身勝手に弟子を巻き添えにするわけにもいかないので総領弟子の圓楽の預り弟子にするつもりだったという。これに権力志向の強い落語家による担ぎ上げや、圓楽と師弟関係を結びたくない弟弟子たちが大反対したことなど様々な思惑が絡んだ末の出来事だという話である。
こうして脱退組は、「落語界の質の低下を憂い、質の高い落語を目指す」という名目を掲げた新団体「落語三遊協会」を結成する計画を立て、発表当初は真打の質の低下が嘆かれていた世相にうまく噛み合い期待された。
しかし後述する敵を作りやすい性格や、そもそも幼少期から芸能一筋でやってきたせいで腹芸や駆け引きに慣れていなかったこと、書面を残さず口約束にとどめてしまった工作の拙さから、多くの売れっ子や実力派を引き抜こうとした圓生の目論見は大きく外れた。
- 10代目金原亭馬生(志ん朝の兄)
小さんから副会長就任を打診されて残留。これによって門下の大量離脱をたった一手で抑え、さらに志ん朝の出戻りの際にパイプ役にもなるという名采配。夢月亭清麿(小さんの弟子)には「絶対の一手」「一石二鳥どころか、一石百鳥ぐらいの価値」とまで評された。
- 初代林家三平(圓蔵の弟子)
新作落語中心の芸風から圓生から常に批判されていたことに加え、弟子の林家こん平が真打昇進できなかったことにも不満があった。移籍しても一門揃って徹底して冷遇され、客寄せパンダで終わることを予期して残留し、むしろ圓蔵たちの翻意に動いている。圓生の死後も圓楽に落語協会への復帰を何度も説得していたという。
- 7代目立川談志
ライバルの志ん朝が新団体の次期会長と知らされ激怒して翻意。
所属する落語芸術協会の会長である4代目桂米丸の反対により参加しなかった(この2人は新作派の多い芸協のなかでは珍しい古典派であり、圓生に気に入られるだろうと圓楽に誘われた)。
さん生は破天荒な言動と芸風を、好生は圓生を崇拝するあまり「影法師」と呼ばれるほどの酷似ぶり(特に芸がうまくなる前、自分が陰で下手だと嘲られていた若い頃に似ていた)から同族嫌悪を抱かれて、外様の弟弟子に昇進を越されるなど様々な仕打ちを受けたことを理由に残留、後に破門。そもそも「圓楽以外の弟子は事前に新協会設立を知らされていなかった」という話で、設立を主導する一門でさえ一枚岩ではなかった。
こうして新協会は、圓生の日頃からの人間関係に対する無神経さ、失敗したときの代替案を考えていなかったこと、書類による誓約を行わなかったこと、拙い工作などで有望な落語家を集めることができず、戦力不足であると看做されて東京の定席から出演を断られ、代わりに協会への復帰を促される。
当時の圓生は正月しか寄席に来なかったため、席亭たちとの関係も冷え切っていた。さらにこの新協会が、これまで協会と芸協が二等分で割り振っていた寄席の興行日程を三等分にするという話まで出てきて、芸協からも反対意見が出てくる始末(三遊亭小遊三曰く「対岸の火事だったが、あれはこちらにも実害が来る。記録には残っていないが、お偉いさんは必死に動いただろう」とのこと)。
しかし面子を気にした圓生は定席の関係者が用意した協会側との和解の席をすっぽかしたことで最終的にすべての定席から締め出され、反対に出席した圓蔵一門や志ん朝らは落語協会に復帰する。
この問題冷めやらぬうちに圓生が急逝し、圓楽一門以外が落語協会に復帰。一方協会復帰を頑なに拒んだ圓楽一門は「大日本すみれ会」を結成し、江戸落語界の孤児として小規模ながら「地方のホール落語を中心に活動をする」という独自路線を歩むこととなる。
エピソード
- 名字が2つ重なっているような奇妙な本名だが、これはもともと「松雄」だったのが、家族も知らない間に戸籍上で「松尾」となってしまっていたため(手書き時代にはたまにこういう問題が起きており、これで名字の漢字や読み方が変わってしまうこともあった)。
- 当時の落語家では珍しくメディアに露出するだけではなく、高座を積極的に録音したりしていた。ビジネスにも聡く、それまで主催者側の言い値だった出演料をはっきりと口にして交渉にあたった。
- 女癖が非常に悪いことでも有名だった。「色事師」なんて呼ばれていたこともあるほど。
- ものすごくケチなことで有名だった。笑い話では「三遊亭圓歌が歌奴時代に御前口演をすることになった際、古今亭志ん生をはじめとした噺家が自分のことのように大喜びして「こんな栄誉なことはない、お前ひとりには行かせない」と言って紋付や袴や帯を拵えてくれたのだが、圓生だけは何もくれなかった」「高級な下駄に穴をあけてしまった時にそれをたいそう悔やみ、唾で直るんじゃないかとその穴を舐めた」というものがある。しかし贈り物としての誠意や仁義に欠くような笑えない話も多く、陰で不満を持たれやすい人だった。
- ただし最近では「巷で言われるほどケチというわけではなかった」とするエピソードも出てきている。たとえばこのケチなエピソードは、交際費を「協会の経費ではなく自腹を切って出していたから」と言われている。
- 人気先行で芸を磨く事を怠る芸人を嫌い、一年で枯れる草花より日本庭園の松の木の様な芸を育てると語っていた。このため古典落語至上主義の気があり、初代三平や柳昇のような新作落語派を嫌っていた。おかげで5代目鈴々舎馬風は弟弟子の10代目柳家小三治に香盤を追い越されたり、入門が早かった林家こん平も真打昇進に足踏みせざるを得なかった。
- 「松の木」を自称するだけあり、残っている高座の映像や録音は派手さこそないが堅実なもの。現在でも落語マニアからたびたび「正統派の江戸落語」として引き合いに出される。人情噺の「中村仲蔵」などは彼のよさがよく出ている名演である。
- その性格のため人間関係で悶着が多く、芸は評価するが人間性は嫌うという人も多かった。
- この話題を出す際に真っ先に名前が出て来る林家彦六との不仲はたいへんに有名で、最後までそりが合わなかった。三遊亭圓歌は「分裂騒動は実はこの2人の不仲が原因で、ただの喧嘩を周りが分裂、分裂なんて言うからことが大きくなったんだ」という趣旨のことを冗談交じりに解説している。
- 他にも古今亭志ん生を満州に置いて女を作った挙句勝手に帰国したことで怨まれたり、真打昇進を止められていた当時の二ツ目、女性問題など、好かれていたエピソードよりも嫌われていた・いがみ合っていた・揉めたというエピソードの方が圧倒的に多い始末。席亭の北村銀太郎は「芸の大きさに人間の大きさが追い付いていなかった」とまで評した。
- そんな圓生が頭が上がらなかった相手は、志ん生でも8代目桂文楽でもなく6代目春風亭柳橋だった。1歳年上の彼には少年時代から才能で常に先を越され、戦後に人気が逆転してもなお彼が姿を見せると楽屋の上座を譲るほど恐れていた。
- 落語協会分裂騒動の際に選択する権利すら与えてもらえなかった弟子(川柳川柳、三遊亭圓丈など)は彼の死後にこの騒動を当事者の目線から描いた暴露本を出版し、愛憎入り混じった複雑な心境を語っているほか、徹底して冷遇された春風亭一柳は暴露本を出した後から精神を病んで自殺してしまうなど、彼の人格的な部分が残した負の遺産は大きかった。しかし弟子達は決まって「むしろ最後(協会に戻らず後がなくなってから)は芸がどんどんよくなっていった」と評しており、非常にストイックなことで知られる本人も古典落語で爆笑を取った後の楽屋で『私は名人でゲスね』などと自画自賛するほどだった。
- 似顔絵や顔写真、このようなネガティブなエピソードがいくらでも出て来ることなどから「気難しい頑迷ジジイ」のように思われがちだが、機嫌がいい時はよくシャレを飛ばしたり、見どころがあると感じた人には目をかけてかわいがったりという一面があった。かわいがってもらった人としては5代目圓楽、圓丈、孫弟子にあたる三遊亭鳳楽、三遊亭楽太郎あたりがよく名前を挙げられる。落語協会分裂騒動の当事者(特に勝手に分裂された落語協会側や席亭)も鬼籍に入っている現在では、当時の師匠を知る人々による好意的な回想も増えてきている。
- 6代目円楽はその晩年、自身の立場、知名度、芸協とのコネクションなどを利用して彼の遺した「落語協会分裂騒動」「襲名問題」にケリをつけようとしていたが、2022年に急逝した。この二問題の今後の動向が注目されている。
関連タグ
6代目三遊亭円楽…「楽太郎」の名前は圓生が授けたもの。笑点や高座でもたまに物真似をした。