概要
日本独自の話芸『落語』に従事する専業芸能者を指し、同義の古典表現『噺家』も併用される。
近現代では、「落語家=落語を演じる人」という広義的解釈から各教育機関の落語研究会(以下、落研)に所属する学生、または趣味が高じて落語を演じる素人も「アマチュア落語家」として分類される。
身分制度
芸事である以上、芸歴と技術に応じた身分制度が確立されており、最も有名なのは江戸落語界の真打制度(見習い→前座→二つ目→真打)である。第二次世界大戦終戦直後には深刻な人手不足を理由に『前座飛ばし』(見習いと前座の修行期間を飛び越して二つ目待遇で高座に上がる)が黙認された時期もあったが、基本的には所属協会の審査会議で昇進の可否が決定され、入門から真打昇進までに10~15年前後の下積みを必要とする。
二つ目以下は真打の門下に在籍することが義務となっており、師匠が亡くなったり破門を言い渡された場合は廃業を余儀なくされるが、前者の場合は兄弟子など他の真打に引き取られるなど救済措置が取られることが多い。中には3代目橘ノ圓→5代目三遊亭圓馬門下の橘ノ圓満や10代目桂文治→3代目桂伸治門下の桂文月のように、最初の師匠亡き後に兄弟子の門下となったものの、絶縁状を叩き付けられた者もいるが、両者は既に真打となっているので兄弟弟子関係に戻っただけという例もある。
例外として落語協会が分裂騒動終結後に協会に復帰した三遊亭圓龍(当時:旭生)や7代目三遊亭圓好(当時:梅生)は当時二つ目で、兄弟子の門下に入ることを許されず協会預かりとなり、他の師匠たちの指導を受けて真打となった。
また三遊亭天歌は師匠の4代目三遊亭圓歌からパワハラを受けた挙句破門となるが、本人は落語協会残留を希望し提訴、協会は彼を本名のまま預かりとして二つ目の香盤に名前を残し、協会の窓口としてこの問題を調査していた4代目吉原朝馬(10代目金原亭馬生門下)が天歌を引き取ることとなり、吉原馬雀の高座名が与えられ活動再開が認められる。
名古屋在住の登龍亭獅篭は師匠の雷門小福から遺言として「真打昇進を認める」と言われたものの、東京の団体ではないので真打制度は不要と判断しこれを辞退、かつての兄弟子筆頭の土橋亭里う馬(前・立川談十郎)にも二つ目のまま弟子を取る趣旨を伝え、認められている。
上方落語界では事情が異なり、第二次大戦前にこそ同様の「前座→中座→真打」が存在したが、戦禍による定席の消滅と共に明確な真打制度も消え失せてしまい、現在では桂および笑福亭門派のベテランや直接の師匠などが合議して年季、実力、人気を総合的に判断し、昇進や名跡襲名を決定している。概ね5年で年季明け(内弟子修行から卒業)となり、約15年で真打扱いとなっている。
ただし、名人級の師匠や先輩、席亭(寄席を経営する興行主)などの強い推薦があり、所属協会にその実力と実績を認められた者は年季に関わらず特進を許される特例が存在し、1962年5月に8代目桂文楽の推薦を得た3代目古今亭志ん朝が実現した「入門5年目36人抜き」が現在までの真打昇進最速記録となっている(真打昇進最年少記録は後に柳家花緑が22歳で更新。また、落語芸術協会では特例として二つ目からキャリアをスタートさせた4代目桂米丸が2年で真打に昇進している)。
原則として真打から二つ目への降格はないが、初代林家三平や立川吉幸、立川幸之進(両名とも立川談幸の弟子)、桂しん華(三遊亭歌る多門下→3代目伸治門下)、春風亭かけ橋(柳家三三門下→8代目春風亭柳橋門下)のように団体を移籍した二つ目の落語家はそれまでの実績をリセットされ前座からやり直させられたり、立川志らくが二つ目の弟子の不忠を理由に降格を命じた例もある。
一方、金原亭世之介門下の金原亭乃ゝ香改め古今亭志ん輔門下の古今亭佑輔のように、一旦廃業後同じ団体の別の師匠の元で復帰した場合は元の香盤位置に据え置かれる場合もあれば、前述の馬雀のように別の師匠の元に移籍が認められ、二つ目の階級は維持できたものの香盤を下げられる場合もある。
小道具と演出
小道具
扇子と手拭いのみを小道具として用い、巧みな話術]と所作を駆使して聴かせる素噺(すばなし)を基本とするのは東西共通だが、江戸落語では幇間が披露した座興に端を発する座敷芸として発展した経緯から湯呑みを備える場合が多い一方、上方落語では露天の客寄せに端を発する辻語りや啖呵売として発展した経緯から見台、膝隠し、小拍子一式を、演目によってはこれに叩き扇を加えて高座に備える場合が多い。
例外の一例としては、江戸落語界では事故を通じて切断した左足を隠すために見台を用いた3代目三遊亭金馬、上方落語界では全身を使う躍動感溢れる独特の所作のために敢えて見台一式を取り払った2代目桂枝雀が挙げられる。
演出
いかにも落語らしい演出の1つに『すすり』が挙げられ、食文化の相違から江戸落語ではそばを、上方落語ではうどんをすすりの基本としている。
当然ながら、そばとうどんでは麺の太さが違うためにすすりの音でその違いを明快に表さなければならず、そばに至っては所作も含めて「もりそばとかけそばの違い」、はたまた『時そば』に見られるような「完璧に茹で上げられたコシのあるそばとグダグダに煮えきったコシの無いそばの違い」にまで徹底的なリアリズムを要求される。
しかし、このすすりの音を左右する舌の使い方は各人が独自に習得するというのが落語界の常識であり、苦心してすすりの基礎を会得したとしても「麺物と汁物の違い」「味噌汁と茶の違い」「老若男女貴賎の違い」が続々と待ち構えているため、どうしてもすすりが習得できない、あるいはすすり自体は習得してもすすり分けが未熟な者はすすりを必要としない噺に進みがちである。
また、講演中の鳴り物(太鼓、三味線、鉦、銅鑼など)についても東西では扱いが異なり、江戸落語では芝居噺や怪談噺などのごく一場面に効果音として用いるのに対し、上方落語では「はめもの」と称してそれらを臨場感に満ちた場面転換や風景描写のためにふんだんに奏でる大きな違いがある。
高座名
いわゆる芸名。基本的に師匠の亭号と師匠の高座名から一文字取って付けられるが、中には師匠のユーモラスな発想で変わった高座名を付けられる場合もある。師匠から認められれば、由緒ある高座名を襲名することも可能。通常は2代目、3代目などと名乗るが、
- 桂文楽:先々代が5代目なのに先代が8代目を名乗ったため、当代は9代目を名乗る。
- 金原亭馬生:先代は5代目の弟子である9代目から生前稽古を付けてもらった際に、「自分が6代目になるはずだったのに6代目から8代目は勝手に名乗ったのだから、お前が7代目を名乗りなさい」と言い遺されたのでそうしようとしたが、これを聞いた父の5代目古今亭志ん生(実は7代目馬生は彼のこと)が激怒し、9代目を除外して襲名では9代目を名乗らされる。これに見かねた6代目三遊亭圓生が「遺恨を残さない方がいい」と10代目に修正させ、当代は11代目となる。
- 立川談志:本来は7代目だが、6代目が4代目を自称していたことと、師匠が5代目柳家小さんなので合わせる形で5代目を名乗る。
- 昔々亭桃太郎:過去何人が名乗ったかは不明だが、先代は24代目を名乗り、当代は「初代は童話の桃太郎」として先代を合わせて3代目を名乗る(当代は亭号を『昔昔亭』に改号)。
- 三遊亭圓丈:過去に2人いたにもかかわらず、師匠の6代目圓生が「売れなかった人たちなんか無視してお前が初代を名乗りなさい」として落語協会では初代扱いされたが、本人は後に6代目司馬龍生と改名した方だけを認めて結局2代目を名乗った。
と、代数はいい加減な場合もある。また、二つ目で改名した場合などは代数から除外される。中には「○代目」以外の呼称を用いる人物もおり、例えば上方では、
- 曽呂利新左衛門:頓智話で知られる同名の豊臣秀吉の御伽衆を初代とし、その「偽物」という洒落で敢えて「二世」を名乗っていた。
- 桂文枝:当代(前・桂三枝)である6代目は、上方落語復興の立役者の一人『六代目』こと6代目笑福亭松鶴への敬意から『六代 桂文枝』を名乗っている。
といった例がある。
亭号
現在、専業者として認知されている亭号は少なくとも20以上が存在するが、その一部には上方落語で活躍した者が江戸に移る、またはその逆によってそれぞれの名跡が定着した事例、さらには同じ亭号を名乗りながら東西で分派、独立しているものもあり、代表例である桂号については別記事『桂米朝』の項目「文治の名跡」に詳しい。
江戸落語界
三遊派
山遊亭猿松(さんゆうてい えんしょう、初代で三遊亭圓生に改号・改名)を宗家とし、人情噺を得意とする系譜。定紋は『三つ組橘』。
古今亭、金原亭、橘家、月の家、三升家、むかし家、蝶花楼、昔々亭、五街道、桃月庵、五明楼、橘ノなど最も多くの派生を持つ流派である一方、派閥を超えて19回も改名を繰り返した5代目志ん生、弟子や後輩が襲名する名跡の差配を好んで行っていた8代目文楽、継承者を失って闇に埋もれた古い名跡を次々と発掘、再興する五街道雲助らによる名跡操作の結果、同じ亭号や名跡で直系と傍系が入り交じる複雑怪奇な系譜となっている。
ちなみに”山遊亭”は現在は四代目山遊亭金太郎(旧名・くま八)のみである。
三遊亭圓生(6代目) | 金原亭馬生(10代目) | 橘家圓蔵(8代目) |
柳派
麗々亭柳橋(れいれいてい りゅうきょう、6代目で春風亭柳橋に改号)を宗家とし、滑稽噺を得意とする系譜。定紋は『五瓜に唐花』。
初代柳橋の弟子であった初代春風亭柳枝、初代柳枝の弟子であった柳亭燕枝(後の初代談洲楼燕枝)、初代燕枝から3代目柳枝に移籍した柳家枝太郎(後の4代目柳亭左楽)が春風亭、柳亭、柳家号の祖という直系直属の流れに加え、柳橋の師であった船遊亭扇橋(現名跡・入船亭扇橋)、初代三升亭小勝(5代目で三升家小勝に改号)に見出された初代瀧川鯉かんの弟子であった3代目柳橋と3代目談志、5代目小さんの弟子であった7代目談志と5代目鈴々舎馬風も含む密接な系譜となっている。
元を辿れば麗々亭や春風亭でありながら今なお流派を柳派と称するのは、落語中興の祖と謳われた初代三遊亭圓朝率いる三遊派に対して柳亭を号していた頃の燕枝が中心となって相争った先史に加え、柳派関連の亭号を5代目小さんが柳家主導で統括したことに由来する。
柳家小さん(5代目) | 立川談志(7代目) | 春風亭昇太 |
三笑派
山生亭花楽(さんしょうてい からく、初代で三笑亭可楽に改号・改名)を宗家とし、頓智噺や謎掛け問答、初代可楽が創始した三題噺(客から出された3つのテーマで即興の噺を演じる)を得意とする系譜。定紋は『可の字枡』。
東西に存在する桂号と林家号に深い縁を持つ流派であり、初代可楽門下であった初代林屋正藏(5代目で林家正蔵に改号・改名)の孫弟子に上方落語界における林家号の祖となった初代林家正三、2代目可楽の弟子に江戸落語界における桂号の祖となった江戸3代目文治(後の初代文楽)が名を連ねている。
一方、元々は三笑派の亭号であった雷門号については、初代可楽を師に持つ初代朝寝房夢羅久(2代目で朝寝坊むらくに改号・改名)の弟子であった2代目立川金馬が初代雷門助六に改名したことで生まれたが、3代目志ん生が5代目助六を襲名して以降は三遊派、柳派とも関わりを持つようになり、現在の9代目助六は古今亭に縁を持つ6代目助六の流れを汲む三遊派に属している。
先述の初代扇橋は初代可楽の弟子、即ち初代柳橋からすれば大師匠に当たり、さらに初代圓生が最初に入門した東亭一門が初代可楽門下の系列にある事から三遊派および柳派の先祖と称するに等しく、江戸二大諸派を「亭号の隆盛から見た『三遊派・柳派』」とする者と「名跡の歴史から見た『三笑派・三遊派』」とする者に分かれている。
林家正蔵(8代目) | 林家三平(初代) | 林家三平(2代目) |
※補足
三笑派直系の林家号は東西共に断絶しており、現在の林家号は
をそれぞれの祖としている。
上方落語界
上方桂一門
桂文枝(かつら ぶんし)を宗家とし、商家噺や旅噺を得意とする系譜。定紋は『結三柏』。
元々は初代文治を始祖とする一門だったが、3代目で名跡が上方と江戸に分派し、上方4代目文治の弟子であった初代文枝が名跡襲名を拒否したために上方桂一門宗家の名跡が文枝に変わった。江戸代に倣う特例で一度だけ復活した7代目文治以降、上方落語界では文治の名跡は完全に封印されている。
第二次大戦前は初代文枝とその弟子の『桂派四天王』(文三、文之助、文團治、文都)、初代文團治一門から現れた初代桂春團治が世間を賑わせ、戦後は絶滅寸前であった上方落語界の復興に生涯を捧げた『上方落語四天王』に2代目桂あやめ(後の5代目文枝)、2代目桂小春(後の3代目春團治)、3代目米朝が名を連ね、さらに文枝一門からは三枝(現・6代文枝)や桂文珍、春團治一門からは4代目桂福團治や2代目桂春蝶、米朝一門からは2代目枝雀、2代目桂ざこば、桂吉朝などを次々と世に送り出した。
また、2代目桂小春團治が2代目露の五郎を経て2代目露の五郎兵衛を襲名、2代目桂小米朝が2代目月亭文都以来の月亭号を復活させて月亭可朝に改号・改名した事で露の、月亭2つの亭号も桂一門に属している。
桂文枝(5代目) | 桂春團治(3代目) | 桂米朝(3代目) |
笑福亭一門
笑福亭松鶴(しょうふくてい しょかく)を宗家とし、長屋噺や酒噺を得意とする系譜。定紋は『五枚笹』。
元々は松富久亭松竹(しょうふくてい しょちく)を始祖とする一門だったが、松竹の弟子であった初代笑福亭吾竹から現在の亭号となり、後に5代目吾竹が3代目松鶴一門に移籍したために松鶴が笑福亭宗家の名跡となった。
上方四天王唯一の他派であり、年長者の立場から5代目文枝、3代目春團治、3代目米朝の3人を牽引した6代目松鶴と、その弟子の3代目笑福亭仁鶴、2代目笑福亭鶴光、笑福亭鶴瓶らの活躍によって上方桂一門に劣らぬ勢力を築き上げた。
また、3代目松鶴の弟子であった5代目笑福亭松喬が2代目染丸(先述参照)を襲名、3代目笑福亭福松の弟子であった笑福亭福郎が藤山寛美の命名によって初代森乃福郎に改号、2代目笑福亭松之助の弟子であった笑福亭さんまが松之助の一存によって明石家さんまに改号した事で上方林家、森乃、明石家3つの亭号も笑福亭一門に属している。
笑福亭松鶴(6代目) | 笑福亭鶴瓶 | 明石家さんま |
※補足
明石家号は、2代目松之助が自身の本名『明石徳三』(あかし とくぞう)から取って作った独自の亭号であると同時に、2代目松之助一門における事実上の公称亭号でもある。
系譜上では、一番弟子に当たる明石家つる松(後の橘家圓三)、二番弟子に当たる明石家小禄(後の五所の家小禄)が三番弟子のさんまに先んじて名乗っているが、つる松は3代目染丸一門、小禄は2代目五郎一門からの移籍者であり、さらにつる松は3年後に橘ノ圓都一門に移籍、小禄は1992年に廃業したために松之助の直弟子であるさんまが明石家一門筆頭、ひいては2代目松之助一門の総領弟子となっている。
学生落語その他
落研に所属する学生、並びに同好の士で結成された集団に所属する一般人は、基本的に自身で考案した一代名跡を名乗って活動する。
しかし、それらの集団にも長い年月を経る中で亭号継承や名跡襲名といった本業同様の体制が確立された事例が存在し、以下に挙げる落研の亭号はその代表例である。
浪漫亭
関西大学落研『落語大学』が伝承する6亭号(浪漫亭、千里家、関大亭、爪田家、花の家、夢)のうち、創設メンバーが名乗った最も古い2大亭号の1つ(もう1つは千里家)。
第一期生の1人である6代文枝が名乗った浪漫亭ちっく(ろまんてい-)が有名。
紫紺亭
明治大学落研が伝承する5亭号(紫紺亭、駿河亭、生田家、和泉家、お茶の家)のうち、最も格の高い亭号。
4代目を三宅裕司が、5代目を立川志の輔が、6代目を渡辺正行が立て続けに襲名した紫紺亭志い朝(しこんてい しいちょう)はアマチュア落語界の大看板であり、2024年時点で22代目を数える。2021年12月23日には「三宅裕司70歳記念落語会」を催した際、ゲストに渡辺と志の輔を招聘し、4代目・5代目・6代目の揃い踏みを実現した。
浪漫亭ちっく | 紫紺亭志い朝(4代目) | 紫紺亭志い朝(5代目) |
落語家団体
東京
落語協会
現会長は柳家さん喬。
1923年に起こった関東大震災で壊滅的な被害に遭い、江戸落語界に最大の危機が訪れた時に5代目左楽が東奔西走し、江戸落語諸派と一致団結して『東京落語協会』を設立する。ところが、翌1924年には早くも協会分裂が発生する事態に陥り、初代会長を務めた5代目左楽を含む多数が脱退して『睦会』を再興。3年後の1927年には、初代柳家三語楼が一門ごと脱退して全く同名の落語協会を設立し、区別のために前者を「東京落語協会」、後者を「三語楼協会」と称するようになった(三語楼協会は1930年に解散)。
1940年5月、『日本芸術協会』(後の落語芸術協会)などと合流して『日本芸能文化連盟』が結成され、その傘下にある『講談落語協会』で活動を再開する。1945年の終戦後、再び分裂して講談落語協会が解散となったために落語協会が事実上の復活を遂げ、1946年10月に4代目小さんらによって正式に復活を果たした。
この後も1978年と1983年に協会分裂(前者は5代目小さんと6代目圓生の対立、後者は5代目小さんと7代目談志の対立)を経験するが、「東京4大定席」とされる上野鈴本演芸場、新宿末廣亭、池袋演芸場、浅草演芸ホールを全て使用できる唯一の江戸落語家団体として君臨し続けている。
- 小さん一門
3代目柳家小さんを祖とする、落語協会の最大派閥。3代目蝶花楼馬楽、4代目小さん、柳家金語楼、5代目古今亭今輔、9代目文治などの弟子を育て、4代目小さんの弟子の9代目柳家小三治が5代目小さんを継承し、4代目柳家小せん、5代目馬風、10代目小三治、6代目柳家つば女、3代目柳家小満ん、さん喬、3代目柳家権太楼、柳家小里ん、柳家三寿、4代目柳亭市馬、5代目小さんの孫の花緑などの各一門に分かれる他、3代目桂三木助の元弟子の9代目扇橋や6代目圓生から破門された川柳川柳、芸協の2代目桂小南一門から落語協会に移籍した2代目桂文朝と桂南喬、同じく2代目桂枝太郎一門だった3代目桂文生も所属していた。
ちなみに2006年以降、落語協会会長はこの一門から選出されている(5代目馬風→10代目小三治→市馬→さん喬)。
- 圓歌一門
初代三遊亭圓歌を祖とする。そこから2代目円歌(2代目のみ新字体)を経て3代目三遊亭圓歌に継承され、そこから三遊亭歌司、三遊亭歌之介(現・4代目圓歌)、三遊亭歌る多、三遊亭歌武蔵などの各一門に分かれる。
- 金馬一門
初代圓歌の弟子で2代目円歌の兄弟子だった3代目三遊亭金馬を祖とする。彼自身は落語協会を脱退し東宝名人会に所属していたが、弟子の4代目金馬(のちの2代目三遊亭金翁)が1964年に入会し3代目三遊亭小金馬、息子の5代目金馬らと一門を形成している。場合によっては圓歌一門の一部の扱いとなる。
また、落語芸術協会に所属する4代目金太郎も3代目金馬の流れを汲むことから金馬一門として扱われる。(こちらを参照。3代目金馬門下の2代目金太郎が、金馬の口利きで落語芸術協会の前身に在籍していた2代目桂小文治の身内となり後に2代目桂小南を名乗る。その後門下に3代目金太郎、当代は3代目金太郎から兄弟子の桂南なん門下にはいる。)
- 志ん生一門
3代目古今亭志ん生を祖とする。そこから4代目志ん生を経て5代目志ん生に継承され、長男の10代目馬生、次男の3代目志ん朝、手話落語の達人であった2代目古今亭圓菊の各一門に分かれる。
- 圓生一門
6代目三遊亭圓生の弟子の内、落語三遊協会解散後に落語協会に復帰した三遊亭圓彌、三遊亭生之助、6代目三遊亭圓窓、圓丈、圓龍らを指し、圓彌・圓窓・圓丈はそれぞれ弟子を育てている。2022年9月15日に圓窓が亡くなり、直弟子は全て他界した。
- 彦六一門
様々な師匠に仕えた林家彦六を祖とする。そこから5代目春風亭柳朝、2代目橘家文蔵、3代目三木助の元弟子の林家木久扇(初代林家木久蔵)、8代目春風亭柳枝の元弟子の7代目春風亭栄枝、3代目八光亭春輔の各一門に分かれ(春輔に弟子はいない)、さらに柳朝一門は春風亭一朝、春風亭小朝、春風亭正朝の各一門に、文蔵一門は林家正雀、3代目桂藤兵衛、3代目橘家文蔵の各一門に分かれる(藤兵衛に弟子はいない)。
金馬一門を圓歌一門と同一視すれば、唯一会長を輩出していない一門といえる。
- 文楽一門→圓蔵一門
8代目桂文楽を祖とする。文楽の死後6代目小勝、5代目小さん、7代目圓蔵の各一門に分裂し、6代目小勝一門は彼の死に伴い解散、7代目圓蔵一門から初代三平、8代目圓蔵、8代目文楽の元弟子の9代目文楽などの各一門に分かれ、三平が亡くなると弟子たちは6代目小勝の元弟子の8代目小勝を除き林家こん平一門となる。8代目圓蔵門下では橘家竹蔵と6代目月の家圓鏡にそれぞれ弟子がいる。
- 馬楽一門(消滅)
4代目小さん死後兄弟子の彦六門下となった6代目馬楽の弟子の7代目馬楽のみだったが、2019年3月13日に死去。弟子の蝶花楼未楽が3代目伸治門下に移籍し、弟子がいなくなったため消滅。
- 9代目文治一門(消滅)
様々な師匠に仕えた9代目桂文治を祖とした。彼には10代目翁家さん馬と7代目桂才賀の2人の弟子がいたが、文治の死後才賀は志ん朝一門に移籍、さん馬は弟子を取らぬまま2008年に亡くなる。
芸能事務所に所属するのは
・5代目春風亭柳朝や弟子の小朝などは個人事務所所属、5代目柳朝の孫弟子にあたる春風亭一之輔は『ワタナベエンターテインメント』がマネジメント。
・木久扇一門の大半は『有限会社トヨタアート』(初代木久蔵が立ち上げた芸能事務所)所属だったが、現在は木久扇、林家きく姫、2代目木久蔵の3人のみ。
・木久扇一門の林家彦いちは『オフィス・トゥー・ワン』、林家希林は『TCPアーティスト』がマネジメント。
・初代三平の家族は『ねぎし事務所』がマネジメント。
・林家たい平は『オフィスビーワン』がマネジメント。
落語芸術協会
現会長は春風亭昇太。
折しも人気絶頂にあった柳家金語楼が「ラジオに出演する芸人は寄席の出演を禁止する」という席亭一同の協定によって定席から締め出されていた頃、東京進出を果たした芸能事務所『吉本興業』が金語楼に強い興味を抱き、吉本興業の誘いを快く受けた神楽坂演芸場席亭の千葉博巳が目を付けていた6代目春風亭柳橋と共に金語楼を売り出す算段を整え、1930年に6代目柳橋を初代会長とする日本芸術協会を設立する。
しかし、翌1931年に金語楼が協会を去ってしまい、1940年5月に落語協会などと合流して日本芸能文化連盟を結成し、講談落語協会として活動を続けたが1945年の分裂に際して日本芸術協会に戻る。1977年に『落語芸術協会』に改称するも、1984年に鈴本演芸場と絶縁したためにしばらくは上野の『株式会社 吉池』本店ビル(通称「吉池デパート」)7階を拠点とし、1996年からお江戸上野広小路亭を使用している。
2代目鶴光は上方落語協会と落語芸術協会双方に籍を置いており、東京の寄席でトリを務める資格を持つ唯一の上方落語家である。
- 小文治一門
2代目桂小文治を祖とする、芸協の最大派閥。様々な師匠に仕えた5代目今輔、同じく2代目枝太郎、6代目助六の元弟子の4代目三遊亭圓遊、3代目金馬の元弟子の2代目小南、10代目文治の各一門に分かれ(ただし枝太郎一門は3代目桂圓枝と桂枝助の死、桂文生の落語協会移籍で消滅、2代目枝太郎の弟子だった桂歌春は圓枝門下を経て桂歌丸一門に引き取られる)、さらに今輔一門は4代目米丸、3代目三遊亭圓右の両一門に、米丸一門は今輔の元弟子の歌丸、桂米助などの各一門に、10代目文治一門は2代目柳家蝠丸、3代目伸治、3代目小文治、11代目桂文治の各一門に分かれる。ちなみに、5代目今輔→4代目米丸→10代目文治→歌丸と、1974年から2018年までこの一門が芸協会長職を独占していた。
- 圓馬一門
3代目三遊亭圓馬を祖とする。そこから4代目圓馬に継承され、4代目三遊亭小圓馬、3代目三遊亭遊三、3代目圓などの各一門に分かれ、さらに遊三の弟子に三遊亭小遊三らがいる。
- 柳橋一門
6代目春風亭柳橋を祖とする。彼には大勢の弟子がいたが、一門を形成したのは5代目春風亭柳昇と7代目柳橋のみで、さらに柳昇一門は9代目春風亭小柳枝、桃太郎、瀧川鯉昇、昇太、5代目春風亭柳好の各一門に分かれる。ちなみに、小文治一門以外から芸協会長を輩出しているのは柳橋一門のみ(6代目柳橋および昇太)である。
- 可楽一門
8代目三笑亭可楽を祖とする。そこから5代目今輔の元弟子の三笑亭夢楽、三笑亭笑三、9代目可楽の各一門に分かれる(笑三に弟子はいない)。夢楽の弟子の1人に三笑亭夢之助がいたが肺気腫を患って2019年に廃業、タレント活動も停止した。
- 助六一門
6代目雷門助六を祖とする。そこから2代目枝太郎、初代雷門福助、4代目三遊亭圓遊、6代目の息子の8代目助六の各一門に分かれ、8代目から9代目助六と4代目春雨や雷蔵の両一門に分かれる。
- 鶴光一門
前述の通り、2代目鶴光と東京で活動する弟子たちであり、惣領弟子の笑福亭學光は含まれない(學光は上方落語協会に所属)。
- 談幸一門
2014年に落語立川流から退会、2015年に芸協へ移籍した立川談幸とその弟子たち。
- 左楽一門(消滅)
5代目柳亭左楽を祖とした。彼は落語協会から脱退し落語睦会を経て晩年を芸協で過ごし、4代目柳亭痴楽が芸協の柳派の総帥を継いだものの病に倒れ、落語家の弟子のうち2代目春風亭梅橋は早逝、5代目柳亭痴楽も2009年に死去し途絶えた(柳亭楽輔は存命だが、4代目痴楽が倒れた際に夢楽一門に移籍している。また5代目痴楽の実子で11代目文治門下から移籍していた3代目柳亭小痴楽も父の死後楽輔門下に移籍)。
芸能事務所に所属するのは
・鶴光一門が『松竹芸能』所属。(學光も含む。後述の大阪・松鶴一門も参照)
・昇太門下の春風亭昇吉が『ワタナベエンターテインメント』所属、春風亭昇々が『ホリプロ』所属。
・遊三と弟子の小遊三、孫弟子・遊之介(小遊三門下)は『大有企画』所属。
・かつて米助が『古舘プロジェクト』に所属(現在は退所)。
五代目円楽一門会
現会長は三遊亭圓橘。
1978年の真打昇進を巡って5代目小さんと対立し、脱退を決めた6代目圓生に義理堅く追従した5代目三遊亭圓楽を中心として『落語三遊協会』が設立される。水面下で会員獲得交渉に奔走し、同年5月24日に記者会見を開いて正式に新団体設立を宣言したが、勧誘した大多数が不参加を決めて三遊協会への合流を避けたために6代目圓生一門から参加した5代目圓楽率いる弟子数名、7代目圓蔵一門、5代目圓鏡(後の8代目圓蔵)一門、3代目志ん朝一門で構成されるに留まった。
ところが、翌25日に開かれた4大定席の席亭会議で「三遊協会の寄席出演は認めず、席亭会議は圓生が落語協会に復帰することを勧告する」という決議声明の発表を受け、程なく圓蔵一門、圓鏡一門、志ん朝一門が一斉に離脱して落語協会に復帰してしまい、三遊協会は「6代目圓生を会長とする事実上の5代目圓楽一門」にまで縮小してしまった上、肝心の圓生が1979年9月3日に過労を遠因とする心筋梗塞で急逝する追い討ちに見舞われた。
これを見た落語協会から復帰を持ち掛けられたが5代目圓楽は頑として受け入れず(なお、他の圓生の弟子たちは復帰を受け入れた。そもそも、この落語協会脱退の仕掛け自体「5代目圓楽が圓生を誘導する形で引き起こされてしまった面もあるのでは」と当事者の一人である圓丈はその著書にて述懐している)、1980年に自身の一門に所属する直弟子のみで三遊協会を『大日本落語すみれ会』として再結成する。
1985年に『落語円楽党』に改称するも、4大定席への寄席出演が叶わず弟子の育成に大きな支障を来たしていた現状を打破するべく、私財に1億6千万円の借金を上乗せした莫大な資金(推定総額7億円)を投じて江東区に円楽党専用の寄席を組み込んだ一大拠点『若竹ビル』を建造した。「噺家の純粋培養」を謳った5代目圓楽待望の寄席として生まれた反面、立地条件の関係で客道の悪さから客足が伸び悩み、一門の若手は他所で行う余興に明け暮れ、圓楽本人も借金返済のために仕事漬けの毎日を余儀なくされる悪循環に陥った結果、4年後の1989年11月25日に閉館となった。
1990年からは『円楽一門会』に改称したが、2009年10月に五代目圓楽が逝去。現在は『五代目円楽一門会』として墨田区のお江戸両国亭と台東区の池之端しのぶ亭(好楽の自宅1階に設けられた小規模寄席)、江東区の亀戸梅屋敷を中心に活動している。
5代目圓楽の直弟子の内、弟子がいるのは三遊亭鳳楽、三遊亭好楽、圓橘、6代目三遊亭円楽、三遊亭小圓楽、三遊亭栄楽、三遊亭愛楽の6人。三遊亭神楽にもかつて弟子がいたが廃業し、現在弟子はいない。
2017年に6代目円楽が落語芸術協会に客員として所属して以降、主に新宿末廣亭の定席番組の交互枠を皮切りに、各寄席で開かれる芸術協会の真打披露興行等に五代目円楽一門会所属の落語家がゲストあるいは円楽の代演として呼ばれるようになるなど、同協会との繋がりが深くなっていた。
2022年9月30日に一門の顔的存在だった6代目円楽が急逝したこと、さらに後述の落語立川流が一般社団法人になり唯一の任意団体となったことにより一門の存続を危惧する憶測や噂が飛び交っているが、前述した芸協への定期的な出演は継続している他、2023年2月中席(11~20日)には好楽が特別に落語協会理事会の承認を得て「五代目春風亭柳朝三十三回忌追善興行」へのゲストとして40年ぶりに落語協会の定席への出演が決定する、その好楽の実子であり弟弟子に当たる三遊亭王楽が2025年2月20日付で七代目円楽を襲名する運びとなるなど、今後の動向が注目されている。
かつて一門は芸能事務所『星企画』に所属(後に5代目圓楽は長男が社長の個人事務所へ移籍)したが、現在は個人事務所を構えるなどしている。
・6代目円楽は自身のマネージャーが独立した『オフィスまめかな』に移籍(一門の一部やその他の落語家も在籍)していた。
・6代目円楽の実子・三遊亭一太郎は落語以外の仕事は『青二プロダクション』所属。
・好楽一門の錦笑亭満堂が『エイベックスマネジメント』と個人事務所の『株式会社プロダクション末高』の所属。
落語立川流
現代表は立川志の輔。
1983年の真打昇進を巡って5代目小さんと対立し、脱退を決めた7代目談志が設立した独自の家元組織。実は、1978年の三遊協会設立構想を発案したのは7代目談志本人であり、6代目圓生退任後に次期会長の座を射止める算段まで整えていたところ、ある日にそれとなく6代目圓生に探りを入れてみると「次期会長には志ん朝を据える」と返されて愕然とし、これが三遊協会発足直前に起こした掌返しの真相とされている。そして、5年後に迎えた落語協会脱退を契機に自身を頂点とし、自身とそれに近しい芸談巧者の目で本当の真打を名乗るにふさわしい技量を見極める実力至上主義集団『落語立川流』設立に繋がった。
7代目談志自身、二つ目の柳家小ゑん時代から抜群の記憶力と学習能力を活かして落語、講談、歌舞音曲、漫談、謎掛け、コント、スタンダップコメディ、タップダンスに精通する多芸多才の人であり、東西に存在する落語家団体の中でも最も昇進審査が厳しいとされた上、上納金制度やコース選択といった他に類を見ない特徴を持っていたが、7代目談志逝去後の2012年6月に「家元および上納金制度の廃止」「立川流Bコース・Cコースの解散」「原則3年の見習い期間」の3つを主軸に据えた新体制に改められた。
現在の五代目円楽一門会と同じく落語協会脱退に伴って4大定席の出演を禁止されているが、7代目談志が落語の可能性に挑戦する意志から定席に縛られることに疑問を感じていたこともあって荒川区の日暮里サニーホールなどのホール落語を中心とする方針に切り替えて活動し、現在の立川一門は上野広小路亭やお江戸日本橋亭の高座にも上がるようになっている(2020年には芸協の伝手で講釈師・6代目神田伯山襲名興業の際に志らくら数名が新宿末広亭などの高座に上がることが出来た)。
また、生前の談志や「立川流四天王」と呼ばれている志の輔、立川談春、志らく、立川談笑といった売れっ子たちはそれぞれの独演会などで独自の活躍の場を広げている。
五代目円楽一門会同様、2018年以降は芸協との繋がりが深くなっており、談志の直弟子の1人である立川談之助を筆頭に、立川流所属の落語家が芸協の定席番組にゲストなどで出演する機会が増えている。永らく任意団体だったが、2024年に一般社団法人に認可され、これを機に知名度の高い志の輔・談春・志らくのトロイカ体制となる。
談志の直弟子の内、弟子がいるのは立川左談次、立川談四楼、立川龍志、志の輔、談春、志らく、立川生志、立川談慶、6代目談笑、立川談修の10人。
芸能事務所に所属するのは
・志の輔が『オフィスほたるいか』(個人事務所)所属。弟子の立川晴の輔が『グレースプロジェクト』(個人事務所)及び『サンミュージック』(マネジメント)所属。
・志らくが『ワタナベエンターテインメント』(文化人部門)所属。
大阪
上方落語協会
現会長は笑福亭仁智(3代目仁鶴の惣領弟子)。
第二次大戦の影響で並み居る定席が壊滅し、上方諸派が四散して上方落語存亡の危機にあった1957年に3代目林家染丸、4代目笑福亭枝鶴(後の6代目松鶴)、3代目桂小文枝(後の5代目文枝)、2代目福團治(後の3代目春團治)、3代目米朝ら18名が連名して発起人の3代目染丸を初代会長とする『上方落語協会』が設立される。
2003年に6代文枝(当時は三枝)が協会会長に就任した折、大阪天満宮の門前町である天神橋筋商店街で落語会を行える物件の斡旋を商店街組合に依頼した一件から、この案件に対して組合、天満宮、協会の三者会議を重ねた結果、「天満宮用地に落語専門の定席を新設する」という合意で決着し、宮司の好意によって無償提供された天満宮北側の用地、『繁昌亭建設募金』を通じて個人や企業から寄付された約2億4000万円の費用を元に建設が始まり、2006年8月8日に約60年振りの定席『天満天神繁昌亭』が完成した。
協会副会長職の合間を縫って建築家と共に東京の寄席を調べ歩いた4代目染丸が試行錯誤した内観に、6代目松鶴と縁の深いホール落語席『千里繁昌亭』から取った名前、かつて上方桂一門桂派の寄席であった『幾代亭』に掲げられていた「薬」の一字を3代目米朝が自筆した書額、生前の5代目文枝が実際に使っていた膝隠しを備え、さらに上方落語隆盛の語り草となった初代春團治の「赤い人力車」を復元展示するなど並々ならぬ思いが込められている。
東京の落語家はほとんどがマネジメントを自分で管理する(芸能プロダクションに所属する者もいるが)のに対し、上方では吉本興業、松竹芸能、米朝事務所の影響が強く、事務所主催で落語会を開くことが多い。
寄席は前述の天満天神繁昌亭の他、2018年に開業した神戸新開地・喜楽館があり、さらに所属事務所別に吉本興業はなんばグランド花月、松竹芸能は心斎橋角座、米朝事務所は動楽亭(2代目ざこばが経営した小規模寄席)なども使用する。
- 松鶴一門
2代目笑福亭松鶴を祖とする、上方落語協会の最大派閥。次の代で初代笑福亭福松と3代目松鶴の両一門に、さらに3代目松鶴一門は2代目林家染丸と4代目松鶴の両一門に分かれ、4代目松鶴から5代目松鶴、そして6代目松鶴へと引き継がれ、3代目仁鶴、2代目鶴光、笑福亭福笑、6代目松喬、笑福亭松枝、笑福亭呂鶴、鶴瓶、4代目笑福亭圓笑、笑福亭鶴笑などの直弟子がそれぞれ弟子を増やしている。
ほとんどが松竹芸能に所属するが、三代目仁鶴一門や鶴笑一門などは吉本興業に所属、福笑は個人事務所を経営、4代目圓笑・笑福亭たま(福笑門下)・笑福亭笑子(鶴笑門下)はフリー、鶴瓶の弟子の笑福亭笑瓶は東京の『太田プロダクション』に所属していた。
- 森乃福郎一門
初代笑福亭福松を祖とする。彼の弟子と孫弟子は福松を継いだが、3代目福松の弟子である福郎が藤山寛美の提案で森乃福郎に改号する。初代福郎の死後に直弟子の3代目笑福亭福三が2代目福郎を継承した。
いずれも松竹芸能に所属。
- 米朝一門
3代目桂米朝を祖とする。そこから3代目染丸の元弟子の可朝、2代目枝雀、2代目ざこば、2代目桂歌之助、桂米輔、吉朝、桂米二、米朝の長男の5代目桂米團治などの各一門に分かれるが、可朝一門は除外される場合が多い。
ほとんどが米朝事務所に所属。可朝はフリー、可朝の弟子の月亭八方一門は吉本興業に所属。朝太郎など松竹芸能に所属する者もいる。
- 文枝一門
上方3代目桂文枝を祖とする。そこから5代目文吾と4代目文枝の両一門に分かれ、後者から5代目文枝を経て6代文枝、4代目小文枝(前・桂きん枝)、文珍、桂文福、桂小枝、2代目桂枝光、桂文華などの各一門に分かれる。
ほとんどが吉本興業に所属。
- 春團治一門
初代桂春團治を祖とする。そこから2代目春團治を経て2代目の息子の3代目春團治と2代目五郎兵衛の両一門に分かれ(ほかに3代目桂文我と祝々亭舶伝の両一門もあったが消滅)、3代目春團治から4代目桂福團治、2代目春蝶、4代目春団治、3代目小春團治、4代目桂梅團治、2代目春蝶の息子の3代目春蝶などの各一門に分かれる。
ほとんどが松竹芸能に所属。
- 露の五郎兵衛一門
3代目春團治同様、2代目春團治の弟子の2代目露の五郎兵衛を祖とする。弟子がいるのは初の女流落語家である露の都、露の團四郎、露の新治の3人。都のこともあってか女流落語家が多い。
所属事務所はまちまちであるが、五郎兵衛は一時期東京の落語協会に所属していたことがあった。
- 染丸一門
2代目林家染丸を祖とする。そこから3代目染丸と3代目林家染語楼の両一門に分かれ、さらに3代目染丸一門は3代目林家染三、4代目林家小染、4代目染丸らの各一門に分かれる。
このうち、染三一門は上方落語協会を退会しており、4代目染丸も2度の脳梗塞の影響でほぼリタイア状態であり、現役は林家菊丸などとなっている。
ほとんどが吉本興業に所属。
- 松之助一門(消滅)
6代目松鶴の弟弟子の2代目松之助と明石家のんきの親子2人のみだったが、松之助が2019年2月22日に死去したため松鶴一門扱いとなる。
いずれも吉本興業に所属。
- 7代目文治一門(消滅)
7代目文治を中心とした、上方桂派の中興の祖。弟子に3代目米朝の大大師匠の3代目文團治、2代目春團治の師匠の初代春團治、2代目小文治、橘ノ圓都と4つの一門に分かれた。
- 文團治一門(消滅)
3代目文團治一門は3代目米團治と4代目文團治の両一門に分かれ、前者は孫弟子に3代目米朝がいて一門を拡大したのに対し、後者は最後まで師匠に仕えた4代目桂文紅が弟子を取らず文團治も襲名しないまま2005年に亡くなり途絶え、復活襲名が続く桂派四天王名跡のうち文團治のみが2024年現在も空き名跡のままである。
- 圓都一門(消滅)
3代目染丸門下から2代目松之助門下を経て橘ノ圓都門下となった橘家圓三が唯一圓都一門を名乗っていたが、2021年3月15日に死去。しかし上方落語協会の公式サイトには一門名が残っている。
関西落語文芸協会(消滅)
上述した3代目染丸の弟子、3代目染三が上方落語協会を脱退したのちに作った協会で、染三の弟子のみが所属していた。そもそも染三脱退の理由の一つとも言えたが同協会は「セミプロ」と呼ばれる、素人かつ副業を行いながら落語家を目指すという、かつての立川流Bコースなどに近いものであった。
これは染三の育成方針をそのまま流用したようなものであったが、師の高齢により活動は休止状態にあり、元より門下の者は他の落語家の弟子に鞍替えしたり、漫才師になったり(オール阪神・巨人など)自由なその後を歩んでいるようで、自然消滅したと思われる。
後に染三の死によりほぼ完全に消滅したとされ、一門で亭号を現在も名乗る林家三笑も同協会を名乗ってはいない。法人としても元から存在しないかあるいは休止・消滅したものと考えられる。その三笑も2015年を最後に活動が確認されていない。
フリーの落語家
・6代目桂文吾:芸協所属だった5代目文吾の唯一の弟子。宝塚新芸座を経て鳥取県でサラリーマン勤務、定年後フリーで活動。現在は上方落語協会会友として文枝一門の落語会に参加。2020年に談幸門下だった立川幸平を桂吾空→7代目桂小文吾として引き取る。
・8代目三升家小勝:2016年に落語協会を退会。
・春雨や落雷:本業は医師だが、2006年に4代目雷蔵へ弟子入り。既に高齢(しかも師匠の雷蔵より年上)だったため落語芸術協会には入会せず。島根県在住。
・雷門喜助:初代雷門福助→8代目雷門助六門下だったが日本芸術協会を退会。たまたま岡山駅行きの新幹線に乗ってしまい、岡山で活動を再開。
・桂小軽:5代目桂文枝の弟子だったが、2015年に脱税事件を起こし上方落語協会も吉本興業も辞める。しかしSNSで活動が確認されている。
・3代目桂南光:1994年に師匠の枝雀らと共に上方落語協会を脱退。枝雀の死後、ざこば、桂雀三郎らは復帰したが、本人は今もなお復帰を拒否している。ただし、米朝事務所の常務であり、一門会には参加している。弟子の2代目桂南天、孫弟子の桂天吾も非会員。
・2代目快楽亭ブラック:2005年に落語立川流を脱退。
・らぶ平:初代三平→こん平門下だったが、2005年に破門され廃業。2009年にフリーで活動再開。らむ音、らぶ丸 らばちゃと3人の弟子がいる。
・桂雀々:1994年に師匠の枝雀らと共に上方落語協会を脱退。2011年に米朝事務所も退社し、東京でフリーで活動。弟子の桂優々も非会員(ただし米朝事務所には残留)。なお雀々は2024年11月20日に死去し、優々が今後どうするかは未定。
・4代目桂文我:1994年に師匠の枝雀らと共に上方落語協会を脱退。当初から米朝事務所には所属せず完全フリー。弟子の桂まん我、桂笑我も非会員。
・柳家千壽:夢楽から破門され小さん一門の三寿門下となったが、落語協会には入会せず。
・3代目桂すずめ:女優『三林京子』として活動していたが、米朝に弟子入り。米朝事務所にも所属するが、上方落語協会には入会していない。
・古今亭駿菊:2代目圓菊の弟子だったが、2015年に落語協会を退会。
・てんご堂我落:鶴瓶の弟子だったが、2016年に上方落語協会を退会し松竹芸能も退社。
・三遊亭羊之助:5代目柳昇の弟子の春風亭昇吉が一旦廃業後、司馬龍鳳と改名してフリーで活動。その後、落語協会の4代目三遊亭歌笑が協会非公認の弟子として引き取っている。
・三遊亭笑くぼ:4代目歌笑が名古屋在住時に入門。歌笑が帰京後も大須演芸場を中心に大須くるみの芸名でパフォーマーとしても活動。
・桂七福:徳島県在住。4代目福團治の弟子だが、上方落語協会を脱退したのか最初から非会員なのかは不明。
・桂文鹿:文福の弟子だったが、松竹芸能に所属していた。しかし2014年に退社し、上方落語協会も2022年に退会。
・桂福若:2020年に上方落語協会の公式サイトから名前が弟子の桂若奴と共に削除されるが、本人も父親の福團治も協会も詳細を明らかにしていない。現在は塗装会社を経営しながらフリーの落語家として活動。若奴はそのまま廃業したと思われる。
・桂紅雀:枝雀の弟子。米朝事務所所属だが、上方落語協会には最初から加盟していない。
・登龍亭獅篭、登龍亭幸福:2002年に落語立川流を破門され、名古屋の大須演芸場でたった一人で活動していた小福(初代福助の弟子)に弟子入り。小なお下の登龍亭福三、獅篭門下の登龍亭獅鉄と共に、2020年4月に亭号を「雷門」から「登龍亭」に改名。獅篭門下には登龍亭篭二も入門。
・三遊亭はらしょう:三遊亭圓丈の弟子だったが、2011年に廃業。しかしすぐに東京演芸協会に移籍して活動再開、師匠から一門に戻る許可を得たため圓丈一門の落語会にもまれに顔を出す。ただし圓丈の死去に伴い真打昇進は絶望的となる。
・林家三笑:前述。現在地元の阪南市で『三笑会』という河内音頭などのグループの講師をしている。
・北山亭メンソーレ:志の輔の弟子だったが、2010年に落語立川流を退会し沖縄県でフリーとして活動。
・露のききょう:2代目五郎兵衛の娘。父親から落語を習ったが、本業は女優なので上方落語協会には入会していない。
・林家きなこ:2017年に林家しん平(こん平門下)に弟子入りしたが、40歳を過ぎていたため落語協会には入会できず。
・立川幸弥:落語協会の三遊亭歌橘(3代目圓歌門下)から破門され、談幸に拾われたものの、素行不良で落語芸術協会を除名される。しかし談幸は彼を破門せず、フリーとして活動させている。
など…。各協会に属さない人物がプロを名乗って高座に出る場合が地方などでまま見られるが、そのような人物を「プロ」と見做すかどうかが各々で見解が分かれる(司馬龍鳳を巡る一連の騒動など)。
他に、民主党の国会議員だった今野東(高座名:今野家東)が1997年に東北弁を使った落語を普及させるべく旗揚げした『東方落語』という団体もあり、細々と活動している。
名古屋にある大須演芸場は小福一門だけでなく、東西の落語家が団体の垣根を越えて使用する。
架空の落語家
小説および映像作品
※太字の人名は本物の落語家。
ちりとてちん
- 徒然亭一門
3代目徒然亭草若(渡瀬恒彦)
徒然亭草原(桂吉弥)
徒然亭草々(青木崇高)
徒然亭小草若→4代目草若(茂山宗彦)
徒然亭四草(加藤虎ノ介)
徒然亭若狭(貫地谷しほり)
- 万葉亭一門
万葉亭柳宝(4代目林家染丸)
万葉亭柳眉(桂よね吉)
- 土佐屋一門
土佐屋尊徳(芝本正)
土佐屋尊建(波岡一喜)
など
タイガー&ドラゴン
- 林屋亭一門
6代目林屋亭どん兵衛→2代目林屋亭小虎→林屋亭小猫(西田敏行)
初代林屋亭小虎→3代目林屋亭小虎(長瀬智也)
林屋亭小竜→7代目林屋亭どん兵衛(岡田准一)
林屋亭どん太(阿部サダヲ)
林屋亭どん吉(春風亭昇太)
- 高田亭一門
高田亭馬場彦(高田文夫)※かつて高田は落語立川流Bコースに所属しており、談志から『立川藤志楼』(たてかわ とうしろう)の高座名を拝命している。
ジャンプ亭ジャンプ(荒川良々)
- 柳亭 ※読みは実在の「りゅうてい」ではなく「やなぎてい」
柳亭小しん(小日向文世)
など
しゃべれども しゃべれども
- 今昔亭一門
今昔亭小三文(伊東四朗)
今昔亭三つ葉(国分太一)
など
わろてんか
- 月の井一門
月の井団吾(波岡一喜)
月の井団真(北村有起哉)
- その他
喜楽亭文鳥(笹野高史)
柳々亭燕団治(6代桂文枝)
漫画およびアニメ作品
美味しんぼ
- 快楽亭一門
快楽亭八笑(丸山詠二)
快楽亭吉笑→2代目福々亭末吉(林家こぶ平) ※9代目正蔵襲名以前の出演
快楽亭ブラック(青野武)※前述した実在の快楽亭ブラックとは無関係
昭和元禄落語心中
- 有楽亭一門
有楽亭初太郎→2代目有楽亭助六(山寺宏一)
- 円屋一門
円屋萬歳(茶風林)
4代目円屋萬月(遊佐浩二)
- その他
猫助師匠(林家しん平)
アニさん(須藤翔)
など
金田一少年の事件簿
桂横平:理由は不明だがドラマ版では落語家ではない別設定の人物に差し替えられている。名前がストーリーと関係しているのだが、2度ドラマ化された際はいずれも女性で1度目は全く別の名前でそれに関係した展開も変えられ、2度目は頭文字が「桂」から始まり、名前についての要素は同じになっている。アニメ版(桜井敏治)では原作通りの名前で、それについての展開は同じである。
じょしらく
バーチャルYouTuber
など