希:κοινή αἴσθησις コイネー・アイステーシス
羅:Sensus Communis センスス・コムニス
当該社会・組織等の構成員が有していて当たり前のものとしている価値観、知識、判断力のこと。
(ウィキペディアより)
Pixivでの運用
pixiv的には「東風谷早苗が忘れたりぶち壊したりするもの」あるいは「やらない夫がツッコむもの」と言って問題はないだろう。
ほどほどに欠けているとお茶目なだけで収まるのだが、あまりにないと迷惑なだけという諸刃の剣である。
というか詳しく説明するほどのものじゃないだろう常識的に考えて・・・
概念
西欧に於ける常識の概念はアリストテレスの『霊魂論』に見える共通感覚(希:κοινή αἴσθησις コイネー・アイステーシス、羅:Sensus Communis センスス・コムニス)の概念に由来する。
アリストテレスは五感に共通して付帯する感覚があり、それぞれの感覚を同一の対象の感覚として統合するものとして共通感覚と呼んだ。具体的には、感覚の間の比較、関係付け、個別の感覚だけには属さない抽象的な性質である、形、大きさ、数などがこの共通感覚に由来すると考えられた。
ついで、自然法思想の起源をなし「自然の光」に照らされた理性的判断は「万人の合意 consensus omnium」をもたらすと説いたストア派から、Sensus Communis には現在に通じる、人々の間で共通する感覚・判断という意味合いが発生した。特に、それを受けて、キケロに代表される修辞学の伝統においては、この意味における Sensus Communis が重視された。
13世紀のトマス・アクィナスはアリストテレスの意味での共通感覚の規定を受け継いで、彼自身の認識論をより詳細に展開させ、スコラ哲学はそれを受け継いだ。
17世紀のヴィーコやシャフツベリ伯によって、人々の共通の感覚という意味での常識は哲学的に主題化された。
イギリス経験論、及びスコットランド常識学派において、人々が共有する本能的で(健全な)判断能力という意味での常識の概念は重要な位置を占めた。トーマス・リードはその常識の観念を提示するに当たって、しばしばキケロの Sensus Communis を引用している。
カントにおいては Sensus Communis は「共同体感覚 ( Gemeinsinn )」という意味合いで規定され、感性的(美的)なものの普遍性・伝達可能性を支えるものとされている。
歴史的には、トマス・ペインのパンフレットコモン・センスが共和主義的アジテーションにおいて常識の概念を中核に据えたことが有名である。