概要
江戸時代末期の弘化年間から続く噺家名跡の1つ。後述する3代目によって特に世に広く知られる事となったため、一般的に桂米朝の名称は3代目を指して用いられる。
1947年に上方落語界へ足を踏み入れた同期の初代笑福亭松之助(後の6代目笑福亭松鶴)、2代目桂あやめ(後の5代目桂文枝)、2代目桂小春(後の3代目桂春團治)と手を携え、絶滅の危機に直面した上方落語の復活に尽力した『上方落語四天王』の一角。
本名は『中川清』(なかがわ きよし)。
来歴
生い立ち
1925年11月6日、中国の関東州大連普蘭店に生まれる。1929年に奉天に移住するが、兵庫県姫路市の神社の神主だった祖父の他界を契機に一家揃って帰郷し、叔父に連れられて通った『西花月亭』(元・紅梅亭)や『南地花月』(元・金沢亭)で演芸の魅力に触れる。中学卒業後、進学のために上京した先で寄席文化研究家でありアマチュア落語家の正岡容(まさおか いるる)と出会い、その縁から5代目松鶴などとも接触を持つ機会に恵まれる。
大東文化学院(現在の大東文化大学)在籍中の1945年2月に学徒動員の招集を受けて出征するも体調不良による入院中に終戦を迎え、大学を中退して移り住んだ神戸で会社に勤務しつつ落語を披露する場の運営、さらには自らも天狗連の一員として高座に上がるなど、落語巧者のアマチュア落語家として個人レベルの上方落語復興活動を始める。この頃、正岡の縁で出会った3代目桂米之助の紹介を経て後の師匠である4代目桂米團治と対面し、程無くして正岡から「衰亡の途にある上方落語の復活に力を尽くせ」と諭されて正式に米團治一門に入門する運びとなり、ゆくゆくは米團治を受け継ぐ流れにある名跡『桂米朝』の3代目を襲名する。
全盛期
入門満4年目を目前にして4代目米團治が急逝した事を契機に芸道一筋に生きる決意を固め、イベントにラジオにテレビに寄席に文壇にと八面六臂の活躍で駆け回る日々を送る中で順調に弟子を抱える身となるが、声色使いの3代目桂米紫、破天荒の2代目桂小米朝(後の月亭可朝)、理論派の10代目桂小米(後の2代目桂枝雀)、激情家の桂朝丸(後の2代目桂ざこば)、多芸多彩の桂吉朝など、およそ厳格な芸風を持つ米團治の系譜とはかけ離れた異能派が直弟子として集結する事となる。後の直弟子が総じて「この頃の師匠は思い出すだけでも怖ろしい」と語るように、若手のために用意した定席『桂米朝落語研究会』(無償の落語研鑽会)での出来栄えに不満を感じれば凄まじい剣幕で罵声を浴びせ、時には頭めがけて湯呑みや灰皿を投げ付け、鉄拳制裁を加える事もあったとされるなど、上方落語の存続と発展を託すに足る次世代育成に文字通り心血を注いだ。
一方、自身も分刻みの多忙を縫って古典落語の研究に勤しむために古書店で買い漁った多様な文献、文書を黙々と読み解き、芸の肥やしにすると同時に世相から風俗に至るまで当時の時代背景を詳細に探った成果として新作落語『一文笛』(いちもんぶえ)を書き上げ、さらには継承者不在のために失伝した噺の行方を追って上方落語界の古老を訪ねて回るといった地道な努力を重ね、いずれも大ネタの『地獄八景亡者戯』(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)、『百年目』(ひゃくねんめ)、『算段の平兵衛』(さんだんのへいべえ)の他、上方落語基礎中の基礎である旅噺の1つ『伊勢参宮神乃賑』(いせさんぐうかみのにぎわい、通称『東の旅』)から欠落していた『矢橋船』(やばせぶね)など多数の上方噺を復活させた。
「上方落語には珍しい泣かせる人情噺である『たちぎれ(たちぎれ線香)』は神聖視されるあまり消滅の危機にすら瀕していたが、若かりし頃の米朝が挑戦したことが発破となって残り続けた」「得意ネタの1つ『持参金』を立川談志と三遊亭圓龍に教えて東京に移植させた」というエピソードも残っているなど、その熱意が残したり復活させた噺はそれこそ枚挙に暇がない。
相次いで紫綬褒章受賞者、落語界2人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)となった60代を過ぎてなお一門惣領として精力的に活躍するが、この頃と前後して直弟子、孫弟子との死別が重なるようになり、高座でこそ「何ぞめでたいという話は、近頃はとんと縁がおまへんな。そのくせ、葬式はぎょうさんおますねん。まぁ、あの世の噺を無理から掘り返して演じてるのが他ならぬ一門の長たる私ですさかいな。おそらく、うちはいつの間にやらあっちゃとイケイケになったんでっしゃろ」とくすぐりに用いて気丈に振る舞ったものの、枝雀が1999年に長患いの鬱病を遠因とする自殺、吉朝が2005年に再発した悪性胃癌で病死した際には次代の一門を背負う逸材と期待を寄せていた2人の早逝に落胆を隠せなかった。
晩年
70代半ばから体力と記憶力に陰りが見え始め、肺活量と声量の低下、舌のもつれ、さらには僅か数秒間とは言え噺の筋が飛んでしまうといった老齢から来る数々の支障が顕著となり、独演会の終焉を境に徐々に仕事の量を減らしつつ直弟子、孫弟子、曾孫弟子の指導に専念するようになる。2008年には長男の3代目小米朝が久しく途絶えていた5代目米團治を襲名する明るい話題に恵まれるが、その少し前に足を骨折した頃から体力の衰えに拍車が掛かり、2009年11月には演芸人史上初の文化勲章受章者となった一方で同年3月と7月にそれぞれ軽度脳梗塞、軽度脳幹梗塞の診断結果から入退院を繰り返している。
2012年に数え88歳を記念して開催された特別展覧会『米寿記念 桂米朝展』に介添の5代目米團治を伴った車椅子での出席を最後に主だった表舞台から身を退き、最後のレギュラー番組となったラジオ放送『米朝よもやま噺』(朝日放送)も肺炎を患って入院した2013年8月26日放送分で降板し、以降は一切の芸能活動を自粛して療養に努めた。
2015年3月19日19時41分、肺炎により病没。享年89。
祖父と父親が神職を務め、自身もまた神主の仮免状を取得していた神道の家系である事から葬儀は神式に則って執り行われ、諡号は『故中川清大人之命』(こなかがわきよしうしのみこと)。葬儀に際して今上天皇(当時の明仁上皇)の弔意が伝えられ、生前に文化勲章を受章した経歴と上方落語界復興の功績を考慮した日本政府は没年同日まで遡って従三位を追叙する認可を2015年4月17日の閣議で決定した。
従三位の位階は太安万侶、武田信玄、加藤清正、大久保利通らと同格に列し、日本国憲法施行後の芸能関係追叙者には17代目中村勘三郎、黒澤明、森繁久彌、4代目中村雀右衛門、新藤兼人、朝比奈隆、山田五十鈴、森光子、4世茂山千作、蜷川幸雄らが名を連ねる。なお、米朝以前に東西落語界で追叙を認められた5代目柳家小さん、林家彦六の2名は従五位である。
人物
3代目春團治と並ぶ俳優並の端正な容姿に加え、威厳溢れる町奉行から品の良い隠居、裏長屋の雷女房、間抜けな丁稚、奥ゆかしい深窓の令嬢、口を閉じる暇も無い幇間など様々な年齢、性別、職業の登場人物を音域の広い声色と歌舞伎譲りの所作で巧みに演じ分ける芸の細かさ、上方落語特有の朗々とした語り口が一層映える張りのある声で早くから人気を博した技巧派。
酒席での酔態(酒肴の運び方、酒の注ぎ方、語気や振る舞いなど)や煙草(キセル、葉巻、紙巻き、両切りなど)を飲む一連の動作、果ては縫い物の糸切りの位置に至るまで「いかに日常生活で当たり前のように行われている動作が落語の中で正しく自然に表れるか」という仕草のリアリズムに極限までこだわった。
犬の糞を触るやら反吐を吐くやらという演技も実に自然に行い、特に『祝の壺』という食事中は絶対に聞きたくない落語なども汚くなりすぎないように自然に熱演するなど、大師匠格にもかかわらず全く気取った所の無い技巧も特徴。落語のこまごまとした納得いかない部分を改作して違和感を徹底的に排除するなど、「芸は最終的には催眠術である」の持論を貫くために細部までこだわり抜いて噺のざらついた感触を取り除いている。
この熱意は対面稽古でも猛威を振るい、その様子を知り抜く直弟子一同曰く「稽古場の上座には煙草盆が置いてあり、そこに入った太竿のキセル片手に稽古に入るが、しくじる度に無言のままムスッとした顔でそのキセルをカンカンと灰落としや火皿、側の火鉢に打ち付ける音が怖ろしくて仕方が無く、二人稽古は真剣勝負だった」と回想している。
ただし、5代目米團治曰く「弟子を厳しく指導するのは愛情の裏返しで、今まで米朝一門で破門者は1人も出ていないし、そもそも米朝が破門したがらなかった」、2代目枝雀門下の3代目桂南光曰く「弟子にとって米朝の稽古は針の筵。ただ、稽古が終わるとボロカスに言われた中でも最も出来の悪かった弟子を側に置いて茶飲み話に花を咲かせたり、お供を名目に祇園のお茶屋に連れ出して酒を振る舞った」と深い愛情を語っている。
※稽古の厳しさと弟子への愛については6代目松鶴一門にも逸話が残されており、直弟子の2代目笑福亭鶴光曰く「うちのおやっさんは1つの噺の稽古を3度(あらすじ→詳細→所作)しか付けず、その際に重々しい灰皿を片手に『今度間違えたらこれでお前のドタマかち割ったる』とまで脅されるから弟子たちは必死の思いで3度のうちに覚えるようにし、3度の稽古が終わっても覚えきれないと見るや散々怒鳴り散らした上で必ず犬の散歩を命じられた。ただ、実はこの犬の散歩はネタさらいの時間を与えてくれるための名目で、噺が上がる(=落語を修得)まで何度も散歩を繰り返させたから誰も本当に頭を割られる事は無かった」と回想している。
些細な間違いも許さない直弟子への苛烈な指導、いつ体を壊してもおかしくない数人分の働きを還暦手前まで続けたのには確たる理由があり、実父、恩師の正岡、師匠の4代目米團治といった因縁の深い人物がいずれも実年齢または数え歳55歳で世を去った事実、加えて戦時中の入院先で出会った易者が「55歳で災難あり」と見立てた過去から「自身も55歳で命を閉じるかもしれない」と考え、寿命を迎えるその時までに少しでも上方落語の発展に尽くそうとしたためである。女性関係には厳しかった反面、若手時代の借金やお座敷遊びについては「溺れるのは問題だが落語の芸域を豊かにする大事な経験である」とする寛容さを示し、自身を含む先人の大半もそうであった事から固く禁じることは無かった。本人も、ちょっとだらしないところがあったという話もある。
上方落語を研究するために収集、蓄積した知識の量は大学教授並みとまでいわれた。国語学者の金田一春彦が味噌汁を指す『御御御付け』(おみおつけ)の由縁を「御を3つも付けるほど日本人にとって大事な食べ物である」と講釈した一件が話題に上がった際、「あれは御所に勤める女御が使う女官言葉で味噌を『御味い』(おみい)と呼んでいて、食膳に出る味噌の付け合わせだから『御味いの御付け』、後に身分の高い方が食するから『御御御付け』と転じたのだ」と反証を論じてみせ、他方では直弟子におでんの由来と共に珍芸『おでんさん』を伝授するなど、特に語源に関する国語研究をライフワークとしていた。ざこば曰く「驚くほど深い博識振りから30代にして諸先輩から例外なく『米朝さん』『米朝くん』と呼ばれていた」とされ、綿密な取材と莫大な資料から得た客観的情報を前提に筆を執った小説家の司馬遼太郎をして「上方芸能史に関する話なら米朝さんに伺ったほうが早くて確かだ」と感嘆させるなど、関西屈指の知識人としても一目置かれる存在であった。
- 補足資料『おでんさん』
当時の田楽には、串を打って炭火で焼いた豆腐に山椒の若葉を混ぜた木の芽味噌を塗る『焼田楽』(木の芽田楽)の他に、串を打って昆布だしで煮たこんにゃくにみりんで伸ばした甘味噌を塗る『煮田楽』(味噌田楽)があり、上方では煮田楽を商って歩く荷車と口上が冬の到来を告げる風物詩となっていた。
おでーんさん
お前の出庄(でしょう)は何処じゃい
播磨屋さんの店にと落ち着いて 手厚いお世話になりまして
べっぴんさんのおでんさんになろうとて 朝から晩まで湯に入り
おでん熱々ー
この口上は、売り物のこんにゃくを田舎の女性に見立てて「身売りで郷里を離れて見知らぬ土地で身請けを待つ」という哀愁を重ねたものであり、時代の流れと共に徐々に姿を消していったが、たまたま上方風俗史の取材中にこれを知る者と出会えた森繁が録音に成功し、森繁の好意でその音源を聴き覚えた初代桂南天を通じて米朝に伝えられた。
ちなみに、米朝が上方芸能史の聞き取り調査で最も頼りにした人物こそあらゆる伎芸に通じた初代南天であり、『おでんさん』や数々の上方噺の他、初代南天で途絶える危機にあった上方伝統芸『錦影絵』も継承し、その多くは今でも米朝一門で演じ続けられている。
閑話休題
止め名を越えた前名
6代目松鶴を除く3人は上方落語界における桂一門宗家、初代文枝に源を発する宗家と分家の関係にあり、以下のような系譜となる。
- 初代文枝→3代目文枝→4代目文枝→5代目文枝
- 初代文枝→初代文團治→初代米團治(後の7代目文治)→初代春團治→2代目春團治→3代目春團治
- 初代文枝→初代文團治→初代米團治→初代米朝(後の2代目米團治)→2代目米朝(後の3代目米團治)→4代目米團治→3代目米朝
このように、宗家の文枝や宗家に比肩するまでに化けた春團治の大名跡から見れば、米朝の名跡も文枝に連なる伝統と格式こそ持つものの、米團治一門の前名の1つに留まるに過ぎなかった。しかし、3代目米朝自身が5代目米團治の襲名を頑なに固辞して半世紀以上の活動を続けた結果、米朝が文枝と春團治に並び立つ上方桂一門の一大名跡に大化けし、これに加えて直弟子の3代目小米朝が57年の空座にあった5代目米團治を襲名する事態となったために「本来の止め名である米團治を前名の米朝が越えてしまった」という奇妙な逆転現象が発生するに至った(類似例では、三遊派宗家の名跡である三遊亭圓生の2代目を継がず、一代で圓生の名をも越えたとされる初代三遊亭圓朝が挙げられる)。
米團治の名跡を継いだ弟子を抱えた米朝の名跡が空座となった今、果たして米朝一門の止め名は米團治と米朝のどちらが適格であるとされるかは大きな謎となっている。
なお、生前の米朝曰く「(2代目枝雀と吉朝が相次いでいなくなった今からすれば)ざこばが継げばええと思うけど嫌がるやろなあ」と口にする場面はあったが、当のざこばも2024年6月に逝去するまで米朝襲名に対して忌避に等しい拒絶の意を一貫し続けた。これには内弟子に入るまでに起こった母親との離別、父親との死別という複雑な家庭環境が大きく起因しており、米朝夫婦に両親の、さらに2代目枝雀に架空の兄の姿を重ねて長く連れ添い、無知無学であった自身に一人前の稼ぎを得る手段を教えてくれた「第二の家族」としての大恩があるためであり、生活即落語の毎日を送る不世出の天才とまで謳われた兄弟子の2代目枝雀ですら拒んだ米朝の名跡がどれだけ重いかを人一倍知るからである。
ちなみに、米朝を身近に知る関西圏では未だに「米朝とは『アメリカと北朝鮮』ではなく『米朝さん』の事」という認識が広く浸透している。これは、たまたま名跡の字も読みも完全に同一だったが故に生まれた偶然の産物であり、本人もこれを逆手に取って「家でテレビをペチンとひねってニュースで『米朝が…』と耳に入る度、ワシ何や悪い事でもしたんかしらとビックリするんですな」とネタにしていたとは言え、いかに「3代目桂米朝」なる存在が関西人にとって「生活の一部」であったかという紛れも無い証である。
文治の名跡
桂の亭号を名乗った元祖、即ち系譜上の正統な桂一門宗家は上方の初代桂文治だが、3代目を境に名跡が東西に分派して以降は「上方代」「江戸代」で文治の代数がそれぞれ読まれるようになり、これが江戸落語界に「結三柏を定紋とする桂の亭号」が定着するきっかけとなった。
上方落語界では上方4代目までが存在したが、4代目門下であった初代文枝が上方5代目の襲名を固辞して継承者を失ったために文枝を上方桂一門宗家、さらに上方桂一門の止め名として扱うようになり、上方における文治の名跡は廃籍に等しい形で芸能史の闇に消えることとなった。ところが、初代米團治を経た2代目文團治が一代限りの名跡借りを実現して江戸代に倣った7代目文治を襲名する運びとなり、約50年振りに上方に文治の名を復活させた。
後に初代桂文楽を名乗る江戸3代目を始祖とする江戸代文治は、江戸6代目から名跡を借り受けた7代目との約定に従って再び名跡を江戸落語界に戻して江戸8代目に受け継がれたものの、江戸9代目の時に門下に文治を継げる真打が不在という危機に直面し、これを7代目門下であり東京に活動の場を移していた2代目桂小文治が預かる形で事態を収め、小文治門下に10代、11代と受け継がれて現在に至る。
以上の文治の流れを前項の上方桂一門の各系譜と照合すると、現在の江戸11代目は先代と共に2代目小文治を通じて7代目門下に連なる関係、即ち米朝や春團治と同じく初代米團治、ひいては初代文枝に帰結する名跡へと変遷を遂げており、上方における文枝の名跡の大きさを物語る一因となっている。
立ち消えた名跡襲名
遂には「上方落語中興の祖」と賞賛される上方芸能史屈指の一大名跡となったが、実際には他の大名跡を継ぐ話が幾つか浮かんだ事はあり、それらが1つも実現しなかったために桂米朝という大看板が生まれる結果となった。
第一に、5代目米團治の襲名については生前の談で「師匠の実の娘と後妻との仲が極めて悪く、師匠が没した後も娘は是非とも名跡を継いでほしい、後妻は絶対に名跡を譲らないと丁々発止の平行線であり、その2人の様子に嫌気が差して自分から名跡の継承を辞退した」と語っており、これが後年まで続く米團治襲名を固辞する直接の原因となった。
次に、名跡の差配好きで知られていた東京の8代目文楽から勧めがあり、元々は上方の噺家名跡であったが3代目で東京に根付き、その3代目に米朝がよく可愛がられた一件から上方へ返上する形で4代目桂三木助の襲名を持ち掛けられた。元を辿れば文治を祖とする桂一門の大先輩、さらには5代目古今亭志ん生と世の人気を二分する稀代の名人である文楽の肝煎りとあって気乗りもしていたが、その文楽を介して伝えられた「襲名披露は角座で行うように」なる奇妙な条件から「松竹が米朝の松竹芸能への強制移籍を企んでいる」(角座は松竹の子会社でもある松竹芸能が運営していた)と察知し、そもそも1974年に設立した個人芸能事務所『株式会社 米朝事務所』に所属して松竹芸能と吉本興業という上方演芸の二大興行主から適度な距離を保っていた米朝は興が醒め、三木助襲名計画は自然消滅した。
このため、松之助が光鶴・枝鶴を経て松鶴を、小春が福團治を経て春團治を、あやめが小文枝を経て文枝といった各一門の止め名を襲名する中にあっても、米朝は米團治一門へ入門して以来の名跡を一度も変えないまま68年間名乗り続け、今や上方落語界で一大勢力を誇る噺家一門を米朝の名で築き上げた(こちらも類似例としては、5代目松鶴一門入門以来の前名を生涯名乗り続け、「明石家さんまの師匠」として有名な2代目松之助が挙げられる)。
文團治の行方
そもそも、文團治は『桂派四天王』と称される初代文枝の門人4人の名跡(文三、文之助、文團治、文都)の1つであり、上方桂一門からすればまさしく初代直属の由緒ある大名跡に当たる。
一時期は立川談志一門に名跡が移って長期の断絶を免れた文都が2代目に縁のある月亭を名乗る月亭八方門下の月亭八天に、継承者を失って闇に埋もれていた文之助が83年振りに2代目枝雀門下の桂雀松に、同じく88年振りに文三が5代目文枝門下の桂つく枝に与えられた事で徐々に上方落語界に復活したものの、文團治のみ2024年時点で62年が経過した今でも空座のままとなっており、名跡復活の機運が乏しいのが現状である。
なお、2024年時点で初代文枝直系の6代文枝一門が保持する桂派四天王名跡が文三のみであるのに対し、残る文之助、文都、そして文團治直系の米團治は米朝一門が占めており、「名跡は文枝、人材は米朝」という現代の上方落語界の構図をより鮮明に示す形となっている(ただし、だからと言って上方落語四天王各一門間で深刻な対立や確執があるわけではない)。
格言
- 「芸は最終的には催眠術である」
- 「末路哀れは覚悟の前」
主な持ちネタ
古典落語
- 東の旅(前口上から三十石夢乃通路までの26編全て)
- 地獄八景亡者戯
- 算段の平兵衛
- 百年目
- はてなの茶碗
- 天狗裁き
- 愛宕山
- 壺算
- 胴乱の幸助
- たちぎれ
- 夏の医者
- 青菜
- 蔵丁稚
- 不動坊
- 軒付け
- 寝床
- 鹿政談
- 骨釣り
- 佐々木裁き
- 色事根問
- 風の神送り
- 始末の極意
- 近江八景
など東西限らず多数
新作落語
- 代書(作:中濱賢三=4代目米團治)
- 淀の鯉(作:中川清)
- 一文笛(作:中川清)
- まめだ(作:三田純市)
- 除夜の雪(作:永滝五郎)
※『淀の鯉』は、アマチュア時代に4代目米團治へ贈ったものの1度も演じられないまま行方不明となった幻の作品とされていたが、65年後に発見された原稿に従って2012年8月に5代目米團治が口演して復活を果たした。
関連イラスト
「テレビで『米朝会談』という言葉を聞くと、ドキッとしますねや。」
関連タグ
味の招待席 - 12年続いたレギュラー番組で、司会とナレーションを担当。独特の味わいがあるグルメ番組。
桂歌丸 - 初代米團治の系譜に位置する遠縁の同門。互いの晩年、歌丸が直々に稽古をつけてもらおうと申し込み、米朝に高齢を理由に断られたエピソードが有名。
立川談志 - 談志をして「心から感服した」と言わしめた。一方、米朝も談志の著書を「(落語文化の危機に対して)号泣しているようにすら感じられる」と評しているなど、芸で相通じるもののある仲だったようである。