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概要編集

本名:美濃部孝蔵

1890年6月5日生まれ、1973年9月21日没。


少年時代は父が警察官だったにもかかわらず、尋常小學校すら卒業せず退学になるほどの素行不良で、家出して実家と絶縁する。

1907年に三遊亭圓盛の元で三遊亭盛朝を名乗るが、この時はまだセミプロ扱いだった。

1910年に圓盛の師匠の2代目三遊亭盛朝に正式入門し、三遊亭朝太を名乗る。

その後二つ目に昇進する際に初代古今亭圓菊に改名し、1918年4代目古今亭志ん生一門に移籍し金原亭馬太郎に改名。

1921年、真打昇進し金原亭馬きんに改名。

1924年、3代目古今亭志ん馬に改名。その後先輩落語家とのトラブルから一旦は講釈師に転向し小金井芦風と改名するが、師匠が死去したため初代柳家三語楼の元で復帰し柳家東三楼と改名するものの、どん底の日々を過ごす。

1932年、高座名を志ん馬に戻し、ようやく人気が上昇する。

1934年、7代目金原亭馬生を襲名。

1939年、5代目志ん生を襲名。初代から4代目までの志ん生はいずれも還暦前に亡くなっているため、周囲から反対されるが、のちにこのジンクスを破る。

1945年、6代目三遊亭圓生らとともに満州に慰問するが、終戦のゴタゴタで2年間も満州に足止めされる。

帰国後は8代目桂文楽とともに戦後の江戸落語を盛り上げ、1957年に文楽の後任として落語協会会長に就任したが、1963年に体調不良を訴えて会長職を文楽に返す。

1973年、死去。


長男は10代目金原亭馬生、次男は3代目古今亭志ん朝。孫(馬生の長女)に女優の池波志乃中尾彬の妻)、曾孫(馬生の次女の息子)に金原亭小駒(俳優の山田清貴)がいる。


人物編集

あのビートたけしがあこがれ、あの立川談志が大好きだったという人物。

三遊亭圓歌曰く「文楽さんが(会長から)ひいた、あの頃(1957~1963)の協会ほどやりやすかった頃はなかったね。だって会長があの志ん生だもの!」。

この「あの」の2文字でだいたい察せるだろう。昔のギャグ漫画の登場人物並にチャランポランな人であり、落語家ではなく「落語が人間になった」とまで言われるほど。

その濃いキャラも相まって非常に人気が高かった、林家彦六とは違った形で江戸の名残を残した噺家。

噺の方も「じゃーっ!となってぶわぁー!がっしゃーん!」というとにかく擬音でかき混ぜるような芸風であり、せかせかとした話し方も相まって畳みかけるように笑わせて来る。当時の録音環境の悪さもあって日本語の部分が聞き取りづらく、現在名人格として名前のあがる人々の丁寧な噺とは対照的の大らかな落語。

上方落語の桂米朝は「噺家に名人は3代続かない」というマクラを好んでいたが、2代続いた名人である志ん生と馬生・志ん朝の親子の存在は無関係ではないだろう。


とにかく酒好きで知られており、嘘だか本当だか分からない話がやたら残っている。

「関東大震災が起きたとき、これでは酒がダメになってしまうと酒屋へ駆け込み、『お勘定なんてやってる場合じゃないから』ともらったタダ酒を1升半も飲んで泥酔して帰宅」

「戦時中、お土産にビールを持たせてもらって帰宅中に空襲が始まった。このまま爆弾が落ちて死んだらもらったビールがもったいないのでその場ですべて飲み干して泥酔して熟睡、翌朝無傷で帰宅した」

「そもそも満州へ慰問に行ったのがタダ酒目当て」

「人生で情けなくて泣いたのはたった一度だけ。終戦後に圓生と満州で極貧生活を送っている時、やっとの思いで手に入れた酒瓶を割ってしまい、台無しにしてしまった時だ」

「一度自殺を考えるほどに悩んでいた時期に選んだ自殺の手段が一気飲みしたら死んでしまうといわれた酒を一瓶一気飲みすることだった。実際にやって数日昏睡状態になったが後に回復した」

「丼に入れたかつ丼に日本酒を注いで蓋をして蒸すという食べ方を好んでおり、家族にも気持ち悪がられた。このやり方をまねて気に入った人曰く『酒の風味がうつって美味である』とのことだったが、それを聞いてなお娘は『こんな気持ち悪い食べ方は試したくない』と言うほど」

「最晩年は鯨飲がたたったことで『これ以上酒を飲ませてはいけない』と言われ、水を注いで薄めたものを飲ませたがすぐに気づいた。『上等なお酒はお上品だから薄い』とごまかして納得させた。しかし最期に飲ませた混ぜ物なしの酒は飲むなり『やっぱり酒はいい』と喜んで、そのまま永眠した」

などなど。


他にも子供たちを前に「関東大震災の経験談(目の前で地割れが起きて人が大勢落ちていき、その地割れが閉じると中から助けを求める声がした、など)」を噺家の話術たっぷりにほらを吹いて教えたせいで一家そろって地震嫌いになったり、

医者が大嫌いで、ある日おできがひどくなった時に医者に行こうと言ったが断じて行こうとせず、仕方なしに家族でその膿を徹底的に取り出してうまく快癒したことがあったがその時「ほら見ろ、医者なんか行かなくても治るんだ」とうそぶいたり、

納豆が大好きで弟子入りを志願した客の前に襟に納豆をつけたまま応対したり、逆に漬物は嫌いで入っているだけでお鉢をよけたり、最晩年は自宅の掃除に来た孫弟子の後ろに鼻歌を歌いながらついて回ったりと、子供のようなふるまいが残っている。

こうしたくだらないが愛嬌のある話はたびたびスポーツ新聞の小さな記事となって紙面をにぎわせ、これをまとめた本も出ている。

粋な話も残っており、三遊亭圓歌が歌奴と名乗っていた時代、昭和天皇の御前で口演することが決まったことを聞いた志ん生は「俺達でも行けないところへ行っちまった。こんなに嬉しいことはねえ、お前ひとりには行かせねえ」と言って、これがついてくるのかと圓歌を慌てさせた。しかし志ん生は「そうじゃあねえんだ。お前の紋付を俺に拵えさせて、代わりに連れて行ってやってくれ」。それに倣って他の大名人たちも帯や袴を拵えてくれたという。だけどドケチなあの人は何もくれなかった、とサゲになる。


「酒気を帯びて高座を務める」「時間通りに来ない」「高座で口演中に居眠りしてしまい、客が『そのまま寝かせておいてやれ』というので後に出番がある人が隣に座って起こさない程度の小声で噺をした」「自分の独演会に来なかった」「師匠の着物を質に入れてしまい破門された」「借金取りから逃げるために表札を18回変えた」「博打をやって素寒貧になり女房に洋食屋のバイトで稼がせた」「道路工事の人(当時はヤクザ崩れが多かった)相手から細工花札(ガン牌、ガン札)でお金を巻き上た」「このイカサマがバレかけたので奥さんが花札をくみ取り式便所に捨ててなんとか事なきを得た」など笑えないレベルのズボラエピソードも多く、しかしそれを許せてしまう不思議な愛嬌を持つジジイだったという。


彼の前後に会長を務めた8代目の桂文楽とは芸も人間性もまったく正反対。完璧主義が嵩じて自分の納得いくレベルにまで仕上げたネタ以外を高座にかけず、最後の高座で登場人物の名前がトんで「勉強しなおしてまいります」とその場を退いて現役を引退した逸話が今でも語られる文楽に対し、志ん生はその持ちネタの多さでも知られ、登場人物の名前を忘れて「…どうでもいい名前」ととぼけて爆笑をかっさらうほどいいかげんだった。前座に対する接し方も雲泥の差であり、文楽は誰に対しても非常に礼儀正しく接したが、志ん生はろくに言葉すら交わさないほどに横着だった。

炎と氷、白と黒のように人間性の異なる2人だったがたいへんに仲がよく、よく自宅に来ていたという。「あいつは若い頃の貧乏話を自慢しているが、若い頃貸した金を踏み倒された方にもなってほしい」と呆れたり、二女を文楽夫婦に養子に出す話があったり、最晩年には文楽がウイスキーを持って「二人会をやろう」と相談しにきたり、長年連れ添った妻の葬儀でも涙を見せなかった(これは三遊亭圓丈も「たとえ親の葬儀でも男が人前で泣くのはみっともない」という持論を述べている)男が、その葬儀の翌日に盟友の訃報に触れた際は相当に堪えて「皆、いなくなってしまった」と大泣きしたと語られるほどだったという。


噺の方も人の名前を間違える、台詞を自分で拵える、気が乗らないと適当に切り上げてしまうなどいいかげんそのものであり、同時にそれ(筋さえ覚えておけば、台詞なんて自分で拵えてもいい)こそが志ん生の流儀だった。ゆえに志ん生を評して「いいかげんに見せる技術のプロ」と言う人も多い。正統派というにはあまりにも砕けたその話芸はあの気難しい圓生をして「志ん生とは道場の試合では勝てるが、屋外での真剣勝負では斬られるかもしれない」とまで評されたほど。

その圓生や8代目の桂文楽のような非常に丁寧で完璧主義の芸とはまったく異なる落語は、息子に「なろうと思ってなれるものではない」「親父に稽古はつけてもらうなよ、めちゃくちゃになる」とまで言われた。

現在でも古今亭を受け継ぐ人々は志ん生の魂を受け継いで「筋が同じならなんでもいい、長所を伸ばしていけ」という教え方をし、志ん生の孫弟子にあたる五街道雲助もこのやり方で3人の弟子を育てた。


その通夜には、午後6時からと伝えてあったにもかかわらず午後3時に圓生が来てしばらく瞠目して故人を偲び、そして立川談志は午前1時ごろまで酒を飲んで居座り続けた(どちらも応対で弟子が困り果てた)。そんな人間性に評価の分かれる人物にさえたいへん好かれた、愛嬌のある人間だった。

総じて落語というものを伝統芸能として発展させるのではなく、大衆芸能として裾野を広げた天才的な大名人として、今でも桂文楽や三遊亭圓生と並んで名人と称される。



志ん生を扱った作品編集

  • 彼の生涯を元にした小説「志ん生一代」が存在(作者は結城昌治)しており、これを元に、主人公をのりんに置き換えたテレビドラマ「おりんさん」が1983年8月から9月にかけて東海テレビホスト・フジテレビ系列局(ただし一部系列局除く)で放送されている。ちなみにりんを池波(!)が演じたほか、ナレーションは3代目志ん朝が務め、池波の夫・中尾も志ん生の友人役で出演している。
  • 2019年放送の大河ドラマいだてん〜東京オリムピック噺〜」は日本人が初出場した1912年ストックホルムオリンピックから日本で初開催した1964年東京オリンピックまでの日本スポーツ界の歴史を志ん生が落語で語る、という体で進行している。作中現在(昭和30年代)の志ん生をビートたけしが、また青年期の孝蔵森山未來がそれぞれ演じている。またこの作品においても妻りん役を池波が再び演じている。

関連タグ編集

落語家


林家正蔵:7代目は初代柳家三語楼門下の兄弟弟子、9代目はその孫。

ビートたけし

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