桂文楽
かつらぶんらく
本名:並河 益義
1892年11月3日生まれ、1971年12月12日没。
母方の実家が徳川家に仕える武家の次男として誕生。婿養子の父は青森県五所川原町税務署長を務めていたが、その後台湾へ赴任し、異国の地で他界したため、一転して貧しい生活を強いられる。
職を転々とするなか、母が警察官の本多忠勝(当然ながら同名の戦国武将とは無関係)と再婚し、彼の紹介で初代桂小南へ弟子入りし桂小莚を名乗るが、小南は東京出身だが大阪育ちで大阪弁しか喋れず、大阪出身ながら江戸弁もそつなくこなす3代目三遊亭圓馬に稽古を付けてもらう。
その後小南も圓馬も大阪へ帰ってしまい、あてもなく放浪した際、3代目桂大和(のちの8代目桂文治)と出会い入門、翁家さん生を名乗るも文治と喧嘩別れし、5代目柳亭左楽率いる睦会に入会。
1917年に翁家馬之助として真打昇進、1920年に左楽から周囲の反対をよそに8代目文楽襲名を言い渡される。当時5代目の文楽がいたにもかかわらず左楽が8代目文楽襲名を強行したため、5代目は桂やまとに改名。なお6代目と7代目を飛ばした理由は不明。
その後6代目春風亭柳橋、2代目桂小文治、3代目春風亭柳好と「睦の四天王」として活躍するが、1937年に睦会が解散し、師匠の左楽や四天王の面々が柳橋率いる日本芸術協会(現在の落語芸術協会)に合流するなか、ふりい倶楽部や東宝名人会を経て1938年に落語協会に入会。
当時は落語家とTBSラジオ局との専属契約制度があり、ライバルの5代目古今亭志ん生がTBSからニッポン放送へ移籍したり、6代目三遊亭圓生がNHKと掛け持ちするなか、一貫してTBS以外には出演しなかった。
1955年にかつての師匠8代目文治の後任として落語協会会長に就任。1957年に会長職を志ん生に譲るが、1963年に志ん生の体調不良により会長に復帰、1965年に圓生に譲る。
1971年8月31日、国立劇場小劇場で「大仏餅」を演じた際、登場人物の名前を忘れてしまい、「出直してまいります」と言い残して高座を後にし、そのまま引退し、その4か月後に亡くなる。
生前は台東区西黒門町に住んでいたことから「黒門町の師匠」と呼ばれた。
5度の結婚と3度の離婚(4人目の妻のみ死別)があるほか、数多くの愛人がいたという。
5代目柳家小さんは9代目柳家小三治時代、師匠の4代目小さんを亡くし、文楽に弟子入りしていた。
その恩義もあってか小さんは1973年に、文楽の弟子の生き残りの最古参だった桂小益に、周囲の反対をよそに9代目文楽を襲名させている。