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月亭可朝

つきていかちょう

大ヒット曲『嘆きのボイン』でも知られる上方落語家で漫談家(1938年 - 2018年)。

人物編集

1938年3月10日生まれ。神奈川県横浜市出身だが育ちは兵庫県西宮市

本名は鈴木傑(すずき まさる)。あだ名は「カチョヤン」。


1958年に3代目林家染丸に入門し、「林家染奴」の高座名を頂くが女性問題で破門され、直後に3代目桂米朝に拾われて「2代目桂小米朝」となる。

米朝の二番弟子である。可朝が小米朝として米朝門下になった時に腹話術師の斎田憲志(のちの3代目桂米紫)が米朝に入門を交渉していたが、米朝は斎田に「これまでの師匠方に挨拶をしてから来るように」と命じた。この間に小米朝を預かった形となるが、これが「米朝の一番弟子」がどちらかの議論を生んだ。

時は過ぎ1986年、米朝の紫綬褒章受章に際する祝いの席では米紫が一番弟子となったが、可朝はそれでも「ホンマはわしが一番やねん」と言っていたようだ。

1995年に米紫が逝去したため可朝が系譜上の筆頭弟子になるが、可朝が月亭一門の総帥として半独立していたことやその性格もあり、実際の惣領弟子は3番弟子の桂枝雀だった。その枝雀が1999年に逝去してからは4番弟子の桂ざこばが惣領弟子の座を引き継いでいる。


可朝は多くの米朝一門と異なり長らく吉本興業に籍を置いていたが、これは元々3代目染丸(染丸一門も吉本所属)門下だったことに起因する。現在でも月亭一門は吉本所属である。

1967年、吉本の林正之助会長が「うちの所属芸人に小のつく名前がついてるのが気に入らない」という理由から小米朝を始め3代目桂小文枝・桂小春団治に対して改名を命じたため、小米朝は当時絶えていた月亭の亭号を称し名前は尊敬していた8代目三笑亭可楽の「可」と米朝の「朝」を組み合わせ「月亭可朝」を名乗った。

ちなみに5代目桂文枝となる3代目小文枝は「文枝を名乗るものが今はいないから」「まだ大名跡を名乗る時期ではない」としてこの時は固辞した。最終的に2代目露の五郎兵衛となった小春団治はこの時は「2代目露乃五郎」を襲名している。

改名後は落語よりも漫談に力を入れて放送業界に進出。1969年にカンカン帽姿で歌った『嘆きのボイン』が大ヒット。氏の代名詞となった。


直弟子に月亭八方らがいる。孫弟子(全て八方の弟子)に月亭八光(八方の長男)や月亭方正山崎邦正)などを持ち、「月亭一門」を形成している。


また1971年一夫多妻制や銭湯の男子風呂・女子風呂の仕切り撤廃実現の公約を掲げて参議院議員選挙に出馬するも落選。2001年に再度出馬するも落選している。

さらには1979年に野球賭博で逮捕され謹慎、2008年に知人女性に対するストーカー行為で再度逮捕されるなどトラブルも経験している。


師匠の米朝が逝去してわずか3年後の2018年3月28日、急性肺線維症のために兵庫県内の病院で死去。享年81(満80歳没)。

さらにこの4ヶ月後には笑点の年頭東西対抗大喜利でやりあった桂歌丸が、翌年は明石家さんまの師匠で可朝と共に笑点の西軍メンバーだった笑福亭松之助も鬼籍に入っている。


改名の際には棺桶に入って葬儀風に演出し、「『桂小米朝』は死んだので改めて『月亭可朝』が誕生する」という名目で棺桶から飛び出すという奇抜な披露を行った。参院選でも悪ふざけのような公約を出すなど、周囲には「破天荒」「やたけた」のイメージそのものを体現した人物として知られた。前述の二度の逮捕の際にも「暴力団を負けさせた、損させたのに逮捕される道理が無い」「女性は愛人やった」など不祥事そのものすらネタにしている。リアル前科持ちのため当然ながら年頭の笑点の東西大喜利では6代目三遊亭円楽ら東軍メンバーから挑発されたり集中砲火を受けるのは恒例になっていた。


その性格や行動から「米朝一門の異端児」として知られたが、一方で正統派の古典落語家としての顔もあり高座は米朝に基礎を叩きこまれたまさしく直系の本格的なものを見せていた。米朝曰く「可朝には30%教えたらギター持ってどっか飛んでった」らしいが、「怪談市川堤」など現代ではかける者の少ない噺も伝わっている。特に「算段の平兵衛」など自身の人生を髣髴とさせるような人間の噺においては米朝以上に「らしい」という評価も受けていた。


月日が経つにつれ、米朝一門でも孫弟子世代の若手との付き合いは薄れ、自身の孫弟子・曾孫弟子ですら直接会ったことの無いものも増えたという。自身も吉本を退所後、ケーエープロダクション等を経てフリーとなるなど、近年は他の落語家と関わりの無い時期も多かった。しかし師・米朝の葬儀に当たっては筆頭弟子として先頭に立って挨拶を行い、後に姫路市が建立した墓所の創設記念式典にも参加している。

米朝の葬儀の際にもカンカン帽は脱帽せず、ウィットに富んだ挨拶で思わず会場から笑いが漏れだすほどであったが、その中にさりげなく入れた「私みたいなムチャモンをよう育ててくれはった」という一言に、彼の師に対する思いが詰まっているとも言えよう。


自身の本当の葬儀をやるにあたってはかつての襲名披露や米朝のそれと打って変わって密葬の形式を取ったが、後日八方ら弟子・孫弟子一門が主催した「お別れの会」では場内BGMに「嘆きのボイン」を使うなど、しんみりする中どこか遊びを入れたものになった。


pixiv内では氏を直接描いたイラストは少なく、『嘆きのボイン』にちなんだイラストが多く投稿されている。

嘆きのボイン


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落語家/漫談家 ボイン

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