概要
本名:前田 達
1939年8月13日生まれ、1999年4月19日没。
1961年に家業の片手間で受験勉強しながら神戸大学に現役合格、それを1年で「大学とはどういうもんかもうわかった」と言って中退後、3代目桂米朝に入門し、噺家の道に進んでいる。兄弟子に3代目桂米紫、月亭可朝がいたが、米紫の引退、可朝の独立などで事実上の惣領弟子となる。
1973年に最初の高座名の10代目桂小米から2代目枝雀に改名後は人気が上昇し、師匠米朝と肩を並べる存在となり、浪速の爆笑王の異名をとるほどだった。
ものすごい早口で繰り出されるマシンガンじみた語り口、話題がどこへ飛んでいくか分からないトーク、非常にオーバーな身振り手振り、落語中にもポンポンと出て来るメタ発言などで、米朝の切り拓いた正統派の上方落語に新しい境地を次々と作り上げていき、関西圏のローカル番組「枝雀寄席」でも人気を博す。その知名度と濃い口のキャラともども将来を嘱望された。
甲高い声と早口と身振り、師匠や弟子から暴露される私生活での失敗などから一見ハチャメチャな人に見えるのだが実際は大変な理論派であり、演じる側からオチを4種類に分類した新理論を提唱したりもした。一方で弟子の桂雀々曰く、普段の師匠は表の姿とは裏腹に、日夜宗教や心理学関係の書物に読み耽る気難しい人物だったと語っている。
また、極端なまでの凝り性でもあり、一度てっちりに凝ったら2ヶ月毎日同じ店に通い詰めたとか、師匠や弟子から様々な奇癖が伝えられている。
頭脳明晰で聡明ゆえに、計算づくだったとはいえこのハチャメチャな芸風は絶大な人気が出た一方で好悪が分かれ、誤解があるとはいえただの張り上げ芸と批判する人も少なくなかった。5代目三遊亭圓楽をはじめその芸風に苦言を呈していた人も多かったり、笑いの分類に同意してくれる人が仲間内にほとんどいなかったり(師匠の桂米朝からでさえも、勝手に言わしとけとつれない対応だったという)とすべてが順風満帆とはいかなかったようである。
一方で演技の方は評判が高く、特に映画「ドグラ・マグラ(1989年)」の正木博士役は現在でも「怪演」と絶賛され、予告映像にもたびたび使われた。
1994年に他の落語家と対立し上方落語協会を弟子や弟弟子の桂ざこばらとともに脱退する(ざこばはその後復帰)。やがて若い頃からの持病だった鬱病により、1999年に首吊り自殺を図り意識不明となり、そのまま1か月後に急性心不全を起こし息を引き取った。これにより桂米朝は、将来を嘱望されていた桂吉朝に加え枝雀さえも失い、大きく老け込んでしまった(上方落語界はこの時期、桂三木助、桂春蝶、笑福亭松葉と立て続けに期待の若手を喪っている)。
弟子に3代目桂南光を初め、桂雀々、3代目桂雀三郎らがいる。没後、南光ら3人の弟子(及び元から未加盟であった彼ら門下にある孫弟子と、末弟子である紅雀)は現在も上方落語協会に復帰していないが、雀三郎ら4人の弟子(ならびに雀三郎門下にある孫弟子)は協会に復帰した。
長男の前田一知はドラマーとして活動していたが2015年8月、2代目桂ざこばに入門し翌年「桂りょうば」の名で落語家デビュー。次男はミュージシャンの「CUTT」(カット)。