桂ざこば
かつらざこば
1947年9月21日生まれ。 本名:関口 弘(ひろむ)※
※彼の本名は俳優で司会者の関口宏と同姓同名の名前にも見えるが、あくまでも「ひろし」と読むのではなく「ひろむ」と読む。向こうの方は「宏」で、こちらは「弘」
小学生時代に両親が離婚し、引き取った父は自殺。本人も皮膚病を患い荒んだ生活を送っていた。1963年、中学卒業後に3代目桂米朝に内弟子として入門し、桂朝丸を名乗る。高校も不登校演芸場入り浸りの毎日が続いていたが、師匠の助言によって高校卒業を決意。
駆け出しの頃には永六輔の紹介で東京でもバラエティ番組に数多く出演するが、まるで名が売れなかったので実力不足を痛感し関西に出戻り。師匠や兄弟子の桂枝雀に一から鍛え直してもらう決意をする(それまでは嫉妬深い性格が災いし人気のありすぎた兄弟子、枝雀の後座を任され全く受けなかった《しかも枝雀の席では爆笑の渦》ことで著しくプライドを傷つけられ、嫌気が差していたことさえあったという)。
1988年、2代目ざこばを襲名。ざこばとは大坂にあった地名のこと。
1994年、兄弟子の2代目桂枝雀とともに上方落語協会を脱退。
2004年、上方落語協会に復帰。
2008年12月、西成区山王のマンション2階に寄席小屋「動楽亭」を開設。(運営は米朝事務所)
2015年、師匠米朝の死去により、事実上一門の総帥となった。
2018年、兄弟子月亭可朝の死去により、名実ともに一門の総帥となった。
2024年6月12日、喘息により自宅で逝去。享年78(満76歳)。
米朝一門では4番弟子であった。
筆頭弟子・最年長の3代目桂米紫は米朝と年齢が2つしか変わらず、腹話術などで芸歴を重ねていたことに加え早期に引退したこと、2番弟子の月亭可朝は元は3代目林家染丸門下であったことや事務所(当初の師の関係から吉本興業所属であった)の違いに加え元々の性格から惣領弟子として師につくことが少なかったこともあり、平成時代になる頃には3番弟子の2代目桂枝雀が事実上の惣領弟子の立場に収まっていた。
しかしながら枝雀は1999年に他界し、以後米朝の身の回りはざこばと3代目桂南光(枝雀の筆頭弟子)、3代目桂小米朝→5代目桂米團治(米朝の長男)中心に動くこととなった。
もっとも、前述の経緯とは言え系譜上の筆頭は可朝であるため、師・米朝の葬儀など一門の重要な式典において可朝が参列する場合、代表格としての立場を可朝に譲ることもままあった。
しかし、米朝が逝去してからわずか3年後の2018年に可朝も他界したため、2024年に逝去するまでざこばは名実ともに米朝一門全体において筆頭・最古参となっていた。
なお、2024年現在における米朝の弟子の最年長は弟弟子の桂米蔵で七つ年上、次が二つ年上の桂朝太郎であるがこの二人は米朝事務所に属さずフリーで活動している。
直弟子には朝丸時代に入門した者は「○丸」、ざこば時代に入門した者は「○○ば」とつけるのが通例。筆頭弟子都丸(『仮面ライダー』でがんがんじい役を演じていた。)はのちに4代目桂塩鯛を襲名。また、弟子の中には兄弟子枝雀の長男(桂りょうば)がいる。
娘が2人いて、長女は一般人、次女はタレントの関口まい。またそれぞれに孫がいる。
2024年6月12日、喘息により自宅で亡くなった事を所属事務所が発表。その数年前に脳梗塞を患い体力も著しく落ちていたが、復帰と再演まもなくの出来事であった。故人の意向で、通夜及び葬儀は家族のみで執り行い、後日お別れ会が開かれた。
ちなみに2023年から5月には上岡龍太郎、8月には桑原和男、10月には谷村新司・財津一郎・もんたよしのり、12月には坂田利夫、2024年3月には五代目林家小染、5月にはキダ・タローと今くるよ、そして6月にざこばと関西に縁が深い大御所芸能人の訃報が続いている。
たかじんのそこまで言って委員会(読売テレビ) など…
しかし、選挙速報番組で一政党苦戦の経過に「それは信心が足らんっちゅうことですか?」などとタブー発言をしてしまったために、一時はテレビ出演を干されてしまった(慌てて司会が、政治と宗教は無関係ですのでとフォローを入れているが、皮肉にもそれが原因で関西以外にも名が知られるようになった)。