来歴
本名は家鋪 隆仁(やしき たかじ)。
1949年10月5日、大阪市西成区で父・権三郎、母・光子の間に次男として誕生。父は朝鮮半島で生まれ、14才の時日本に移住した在日韓国人で、工場、パチンコ屋などを経営していた。母は日本人。両親は時代背景もあって入籍しておらず、子供たちは母の籍に入り「家鋪」姓を名乗る。
たかじん本人は父が韓国籍であることはデビュー以来完全に伏せており、死後発表された評伝『ゆめいらんかね やしきたかじん伝』にて明かされている。
中学生までは野球をしており、強豪校からスカウトもあったが才能が無いと中学卒業を機に辞めている。一方、洋楽がきっかけで音楽に目覚め、兄から歌声を褒められたことからミュージシャンに憧れを抱くようになる。
桃山学院高校(同級生に堀内孝雄がいる)時代は新聞部に所属し、部長を務めコンクール受賞を果たしている。しかし、自身の暴走によって廃部に追い込んだために桃山学院高校にとってたかじんの存在はタブー扱いされており、在校生から文化祭にゲストに呼びたいと提案されたが頓挫していた(たかじんの死後、遺産の一部の一億円が母校に寄付されている)。
その後大学受験に失敗し、系列大学の桃山学院大学に通いながら別の大学の受験勉強を続ける仮面浪人となる。このころ、父に「将来は新聞記者か歌手になりたい」と相談するが、父は自分の会社を手伝わせる気だったため激怒、勘当される。
1967年、龍谷大学に合格し、京都に移る。大学入学後は京都市のクラブやスナックでギターの弾き語りで活動するようになる。なお、龍谷大学には6年在籍したが中退している。
1971年、京都レコードよりシングル「娼婦和子」でデビュー(歌詞の内容が問題視され、まもなく発売禁止、廃盤となる)。以降京都を拠点に歌手活動を行い、1973年5月15日には京都文化芸術会館で初のコンサートを開催する。
1974年に一度東京に移住。アルバイトをしながら音楽活動を行うがあまりうまくいかず、1年ほどで京都に戻る。
1976年、キング・ベルウッドからシングル『ゆめいらんかね』、アルバム『TAKAJIN』にて再デビュー。
この再デビューを機に、1977年には当時宝塚歌劇団の演出家であった草野旦の推薦で鳳蘭のリサイタル『私の肖像画』への楽曲提供を行い、宝塚大劇場への出演・歌唱も果たした。歌手として宝塚の舞台に上った男性はたかじんが唯一である。
なお、この頃から歌手・作曲活動の傍タレント活動、ラジオパーソナリティとしての活動にも邁進し、強烈な大阪弁による軽快なトークで関西圏を中心に人気を博す。一方歌手としては1980年代半ばまで大ヒットには至らなかった。このため、1978年ごろに一度歌手を辞めようと決心するが、周囲の勧めで出場した「第2回大阪大衆音楽祭」にてグランプリを獲得し、歌手活動を続ける決心をする。
1977年に、自身が主題歌『焼けた道』を歌った『新・木枯し紋次郎』への出演で酷い目に遭わされたことや、1981年の映画『機動戦士ガンダム』の主題歌『砂の十字架』について自身の意に反する形で発売された上にヒットしてしまったことから、これらのことが生涯にわたってのトラウマとなり、『焼けた道』については「自身が出演する番組で流すことを禁ずる。もし冠番組なら即打ち切り」とした上で、今後一切の俳優活動をしないと宣言。『砂の十字架』については文字通り黒歴史として「人生最大の汚点」と発言し、『ガンダム』という作品そのものを観ることすら避けていた。しかし、後者に関しては交流のあった橋下徹や岡田斗司夫から物語の内容を聞かされ、「逆に今歌うと新鮮かも」と悪くない反応を示していたことや、公式サイトでも生前から否定的な扱いはしていなかったようである。このため、あくまで不満を持っていたのはレコード発売にあたってのゴタゴタに関するものと見られる。
1982年にマネージャーであった野田幸嗣とともに個人事務所「P.I.S(パブリック・インフォメーション・スタイル)」を設立。翌1983年にビクターに移籍し、少しずつ歌手としての評価が高まる。
1985年、「聞けば効くほどやしきたかじん」(朝日放送ラジオ)の公開生放送での円広志とのコンビが人気を集め、「浪速の高視聴率男」と呼ばれるようになる。1986年には日本放送演芸大賞「ホープ賞」を受賞。
同年「やっぱ好きやねん」が関西でヒットしたことを皮切りに、以降も「ICHIZU」、「大阪恋物語」、「なめとんか」など、関西でヒットを飛ばし続ける。
1992年、在京放送局で3本のレギュラー番組を持つが、東京への嫌悪感から半年後に全て降板し関西に戻る。以降関西から動くことはなかった。
1993年、上方お笑い大賞「審査員特別賞」を受賞。同年にリリースの「東京」が自己最高のヒット曲となる。
2002年、「たかじんのそこまで言って委員会」(読売テレビ)が放映開始。歌手としては新作リリースも激減し半ば休止状態となり、タレントとして大いに活躍するようになる。
2012年、食道がんの治療のため芸能活動を休止。2013年3月、「たかじん胸いっぱい」の収録で仕事に復帰。しかしその後も体調が思わしくなく、5月から再び休養。以後メディアへの出演は無かった。
2014年1月3日、東京都内の病院で心不全により死去。享年64歳。
死去の報は7日になってから伝えられたが、これは生前「めでたい気持ちで迎えている正月に、自分の訃報で多くの人に悲しい思いをさせたくない」という、たかじんなりの気遣いによる生前からの意向であるとのこと。
関西地区のローカルニュースではこの訃報を大きく扱い、読売テレビのす・またん!では生前番組で深く関わりのあった辛坊治郎がこのニュースを読みながら号泣する映像が生放送で流れた。
彼の死後も、彼の名を冠した番組はタイトルはしばらくそのまま続いたが、テレビ大阪の『たかじんNOマネー』以外はのちにタイトルが変更され「たかじん」の名前が消滅している。
私生活では3度の結婚を経験しており、最初の妻との間に一女がいる。一度目の結婚は20代前半のうちに別れ(その後妻はたかじんが39歳の時に死去)、1993年に再婚するが「離婚届を送ってきよった」とのことで2006年に離婚。その後、闘病生活を送っていた2013年10月に再々婚している。
家族についてはあまり語ることはなかった。
人物
表向きの性格は毒舌で派手好き、遊び好きと(良くも悪くも)豪快な人物で知られたが、実際には小心で寂しがり屋であると多くの人から称されている。
伝説化しているネオン街での豪胆な振舞いは気の弱さの裏返しであったと思われ、コンサートが近付いてくると極度にナーバスになり、元妻(二人目)によればよく体調を崩していたほか、些細なことで凄んだり暴力を振るうこともたびたびあった。ただし、マネージャーによれば暴力を振るうのは人前だけで、2人きりの時は優しかったという。
お世辞にも素行がいい人物であったとは言えないが、女性には細やかな心遣いを見せる一面もあり、大変にモテたという。
典型的な「イッチョカミ」気質(大阪で「何にでも口をはさむ人、首を突っ込みたがる人」のこと)であり、本人曰く「見たかってん」。自宅に10台以上のHDDレコーダーを設置・自宅にいる間は一日中録画したテレビ番組を鑑賞し、気づいたことをなんでもネタ帳に記してトークに生かしていた。芸能界の構図から政治経済論、果てはキャバクラなどの風俗の裏事情やハワイ観光のノウハウに至るまでジャンルを問わず、辛辣な毒舌でトークのネタにしていた。本人は自身を「国際ジャーナリスト」であると称しており、ソ連が崩壊した時モスクワに行ったり、湾岸戦争の後イスラエルに行ったり、9.11テロの1ヶ月後ニューヨークに行ったりしていた。
その一方で、彼の暴走気味の行いから引き起こされた騒動は数知れない。仕事中に気に食わないことがあると突然帰ることがあるので、スタッフはいつも戦々恐々としていた。
また、些細な事でもすぐ怒る非常に短気な性格だった事から、感情に任せて共演者やディレクターを罵倒・酷い時にはスタッフにも暴力を振るったり、セットを破壊することもたびたびあり、その所業の報いからかつて共演した間柄の芸能人と絶縁状態になる等の険悪な関係に陥ったりすることも珍しくなかった(トミーズ雅、大竹まことなど)。
また、自身のファンや高く評価してくれていた芸能人などをそうとは知らずにうっかり悪く言ってしまい、後悔したことも多いという。
酒のトラブルも少なからずあり、親友である桂ざこばの弟子である桂雀々が飲み会の席で桑田佳祐と一緒になり、桑田が「たかじんさんのファンだから話したい」と雀々に頼んで電話をかけてもらったが、たまたまたかじんも飲み屋で泥酔状態のため「桑田です」と名乗ったのがよく聞き取れず激怒してしまった、というエピソードがある(のちに番組で経緯を説明した上で謝罪している)。このことの影響があったのかは定かではないが、二人の共演は最後まで叶わなかった。
また、反権威的である印象が強いものの、その対象から褒められると一転してべた褒め状態になる(一例としてビートたけしなど)こともあり、自分が心を許せると感じた相手には従うある種権威主義的な一面も見られる。これを「言動の不一致」とするか「柔軟な姿勢」とするかは人によるといえる。
楽曲の詞については非常にこだわりを持っており、著名な作詞家の作品でもコンセプトにそぐわないと即刻却下する等、業界では作詞家泣かせと恐れられていた。
文化放送に出入りしていた駆け出し時代の秋元康の詞について「アンタの作る歌詞は『詞』ではなくてただの文章や」とかなり酷いダメ出しをしたことでも知られる。
その後秋元は誰もが知る人気作詞家となったため、自身の才能のみる目の無さについて「あの時ナンボか金でも貰っておけば…」と恥じていたという。
とはいえ秋元当人も「たかじんさんはこだわりが強い人なので、納得させる歌詞を作るのは難しい」と語ったことがあるほか、仕事で大阪に来た際は飲み仲間として付き合いがあり、最後に発表した楽曲「その時の空」の作詞も担当した。
競馬好きでもあり、生前に10頭の馬主を経験していた。しかし以下4頭の個性的ないわゆるバカ馬に当ってしまったという。
- 閉所恐怖症でゲートにすら入れない
- 負けん気が強すぎて後方から追い込んできた別の馬に噛み付く
- 虚弱体質
- わざわざ自分の目で見て買い付けたが、中央のレースで勝てず「地方へ転籍させるか?」といった意見を無視して別の馬主へ売却したら、売却先で好成績をあげる
荒っぽいダミ声での軽快かつ痛快な毒舌トークとは裏腹に澄んだ美しい歌声の持ち主であり、関西圏以外やヒットを知らない若年層からは「同一人物か?」と疑問視されることも少なくなかったという。このギャップから「鈴虫の声を持ったゴキブリ(もしくはマイルドに「おっさん」)」と揶揄されることもあった。
たかじんが関西ローカルタレントだった理由
それ以前にも関西を中心に他の地方の番組に出演した経験もあったたかじんであるが、一時期本格的な東京進出を果たした経験はある。しかしその時の(たかじんからすると)あまりの不自由な番組の作り方からあまりいい思い出を持っておらず、東京では仕事をしない、自身が制作出演をした番組を東京で放送させないという方針を固めていた。
例えば、彼が委員長という設定でMCを務めた「たかじんのそこまで言って委員会」(読売テレビ)は、読売テレビと関係の深い日本テレビ系列のネット局によって(※東北の一部やクロスネットの編成が関係する福井県などを除く)ほぼ全国で放送されているが、番組の持つ強い関西色を保つため、あるいはたかじんの猛烈な反対に遭ったため、キー局である日本テレビ(関東広域圏)では放送されておらず、これは他の冠番組も同様である。
ただし、いくつかの番組は関東地方の独立局などで放送されていたこともある。また、たかじんの没後はTVer等インターネット配信によって視聴可能となっている。
また、関西では(主にバラエティ番組やワイドショーなどにおいて)番組制作にあたっての大まかな流れ以外の台本が存在せず、基本的にはキャストたちのトークや裁量で回されるという構成が多いようで、番組の空気自体は非常にフリーダムな部分が大きいとされる。
一方、関東圏を中心とした主要放送局では、出演者のキャラ付けからリアクションに至るまでかっちりと台本に組み込まれた番組も少なくないと言われており、その辺りで挫折する関西出身タレントも多い。
たかじんが東京での番組づくりに馴染めなかったのはこの辺りの事情が大きいと見られる。
ただ、関西出身タレントでも関東のやり方に順応しながら、自身の持ち味を出して成功している人も数多いので、そこに対応できなかったたかじん本人にも問題はあるといえる。全国ネットの番組でアナウンサーとして高い評価を得ていた同じく関西出身の逸見政孝を「大阪を捨てたヤツ」として敵視していた事もある。
また、NHKを非常に忌み嫌い、同局の番組には一切の出演を拒否していた。ほかに、在阪局では朝日放送の番組もかつては出演していたが、上層部との揉め事を起こして以降は一切出演していない(ただし当時の会長と個人的には親しく、朝日放送の局アナだった宮根誠司のフリー転向を勧めていた)。
そんな感じなので、関東地方などでは「やしきたかじん死亡説」が出ており、本人もそのことをぼやいていた。
政治思想
たかじんの基本的な政治的思想はタカ派・急進右派・極右と分類される。『たかじんのそこまで言って委員会』では彼のこういった政治的傾向が明確に出ており、そこが人気と共にアンチを増やす原因ともなっていた。
エピソード
- 冠番組の一つである『たかじんのそこまで言って委員会』が熊本県で視聴率20%を超えたことを記念してくまもと県民テレビの情報番組「テレビタミン」に副委員長の辛坊治郎と共に出演した際、視聴者が電話参加するプレゼントクイズで賞品を逃した参加者に「1万円札にサインして送る」と宣言し、司会者や参加者の「本当にいいんですか?」という疑問に「ええの、ええのよ!」と即答した。
- プリンスホテルでのディナーショーの形式について不満があり、キャンセルしたがホテル側から違約金600万円を請求された。これに対してたかじんは「上等やないか」とホテルに乗り込み「600万でええんやな。ディナーショーやめさせてもらうわ」と札束を投げ出し帰った。これにはホテル側も大慌て。対応策を出してなんとかディナーショー開催にこぎつけた。
- 大相撲大阪場所の期間中多くの幕内力士と飲みに出たが、たかじんと飲みに行った力士全員が一人の例外もなく全員怪我で休場に追い込まれるという事態になり、このことを後年自分の番組でネタにし「俺が何悪いことしたんじゃ」とぼやいていた。
死後の騒動
百田尚樹によって執筆された、たかじんと最後の夫人によるノンフィクション小説『殉愛』が、最後の夫人の一方的な言い分を元にしたものだったため、たかじんの周辺の人々からは「デタラメばかり」と激怒を買い、たかじんと最初の夫人の間に生まれた長女から訴えられる事態になっている。
最後の夫人による、たかじんのメモの捏造、遺産総取りなどさまざまな疑惑も浮上し、芸能界と出版界を巻き込む大騒動となった。
なお、本件は週刊誌やネットニュースでは大々的に取り上げられることも多かったが、上述の通りたかじん自身が関東嫌いで全国的には露出が少なかったことも関係して全国区のテレビ番組ではあまり取り上げられなかった。
ただし、『中居正広の金曜日のスマたちへ』や『Mr.サンデー』など全国ネットの番組でも触れられるなど、報道が全く伏せられていたわけではない。テレビでの報道が少なかったことについて著者である百田尚樹が安倍晋三と懇意である政治的な立場や出版不況下においてコンスタントにヒット作を出す売れっ子作家である事を鑑みて、何らかの規制があったという意見も週刊誌やタブロイド紙、インターネット上において多々あるが、あくまで憶測に過ぎず、実際のところは不明である。一種のウヨゲバと見る者も少なくない。
たかじんは生前、韓国を敵視する発言をたびたび行っていたが、死後たかじんの父親が韓国人であったこと(※しかし、たかじんの父もまた右翼、それも韓国民族主義者ではなく天皇崇拝の日本国粋主義者だった)が暴露された。たかじんの嫌韓的言動は出自のコンプレックスの裏返しであったのではないか、とも憶測されている。
代表曲
- 東京
- やっぱ好きやねん
- ゆめいらんかね
- 砂の十字架
関連タグ
吉村洋文2000年代に顧問弁護士を担当した。