行政区の概要
大阪市中心部からやや南西に向かった地域に存在し、北に浪速区、西に大正区、東に阿倍野区、北東に天王寺区、南に住之江区、南東に住吉区が隣接している。
区の境界付近は物理的に構造物で区切られている場合が多く、大正区との境界には木津川が流れ、浪速区・天王寺区・阿倍野区とは大阪環状線をはじめとする線路で区切られている場合が多い。
面積7.37km²、総人口109,764人(推計人口、2018年10月1日現在)、人口密度 14,893人/km²。なお人口密度は隣接する浪速区や天王寺区などより低い。
区内は主に住宅地や工場で構成され、比較的古い住宅街や木造アパートなども存在する他、後述するが日雇い労働者などの宿泊地なども存在している。
区の北東寄りは交通の利便が良く、JR・南海・地下鉄・阪堺の各線が交差している。
反面市の西側は南海高野線(汐見橋線)が斜めに突っ切っているものの、全体的にバスに頼った交通生活となっている。
オイルショックまでは木津川沿いに大工場が栄えるなどしていたが、以後の産業構造の変化もあり、区西側は住宅地の老朽化や住民の高齢化・商業地の衰退などが見られる。
区東側はそうした衰退とはある意味無縁で、特に21世紀以降は格安の宿泊地として新たに注目されつつあるが、一方で区北東部を中心に存在するあいりん地区(後述)により西成区全体のイメージが固定化することに対して、区や区民は大きな懸念を抱いている、という側面も存在する。
地名としての「西成」
西成の地名の由来は極めて古い。古代律令制の時代には、既に上町台地を挟んで西側を西成、東側を東成と呼んでいた。
この由来は更に上古・弥生時代にまでさかのぼり、当時の地形変化の過程で、土砂などの堆積により上町台地周辺に平地が形「成」された(平地が「成った」。)この事実により、「成った土地」の西側を西成、東側を東成と呼ぶようになったという。
なお、現在の東成区は西成区より北東側、天王寺区を挟んで更に斜め北上した場所に存在している。
概ね、現在の西成区が地名としての「西成」と重なると言ってよい。地名の由来がかようなものであるが、大阪市周辺は江戸期より埋立などが行われ、もはや地形が原型を留めていない以上、曖昧な地名とも言え、現代においては西成区=西成、といっても過言ではないといえる。
しかしながら、後述する問題により、人によって「西成」とはもっと狭義的で、かつ限られた地区を指す言葉として(無意識的・漠然に)用いられることがある。
西成区ではイメージ改善の過程において、一部の地域のみが西成全体のイメージとして使われることを不快に思う人も多いので、注意を要する。
もっとも、西成全般の問題として、住宅地としての魅力に今一つ欠け(交通利便が住宅街が奥まるほど低くなることも理由の一つか)、阪堺線沿いの聖天坂・天神ノ森地区を除けば概してイメージが良かったり高級感のあるような地区に恵まれていないことも、後述地域をもって西成を語られてしまうこと根本的原因なのかもしれない。
ここより、西成区内に存在するいくつかの著名な地区と、そこに纏わる問題を列挙する。
あいりん地区(釜ヶ崎)
西成について殆ど知識の無い場合において、まず「西成」と聞いて想像されるであろう地域であり、西成のイメージを気にする人にとってはもっともイコールで結びついてもらっては困るといえる地区である。
区の萩ノ茶屋および太子周辺に存在する日雇い労働者の街、いわゆる「ドヤ街」と呼ばれる地域で、中でも「日本最大級のドヤ街」と称される。「ドヤ」とは、日雇い労働者が寝泊りする簡易宿泊所のことで、「宿」と呼ぶにはあんまりな環境であることから逆さまにして呼んだ、というのが由来とされる。
また、日雇い労働者が集まる場所ということで「寄せ場」という通称も使用される。
「釜ヶ崎」は古い地域名で、地名としては現存しない。そのため1960年代より「愛燐(あいりん)地区」と呼ばれ、転じて愛燐がひらがな表記されるようになった。
「あいりん労働公共職業安定所」というハローワークの職業紹介所があるが、正社員や契約社員、パートなど長期雇用を中心とする他の街の職安とは異なり、主に日雇いの仕事の紹介を行っている。
1970年10月1日に竣工した「あいりん総合センター」の3階にあったが、2019年3月11日に南海電鉄の高架下にある公益財団法人西成労働福祉センターの仮事務所に仮移転した。「あいりん総合センター」は耐震性に難があり、労働施設が同年3月31日をもって閉鎖、2021年に解体、現在の場所に新しい施設を建設し、2025年に完成予定。
一般に日本でも有数の治安の悪い地域と言われており、現に日本国内では唯一平成時代になっても暴動が発生するなどしている(最後に発生したのは2008年で、16年ぶりのことであった)。また、暴力団事務所や政治的勢力と関係を持つ団体が点在し、日本の各地から仕事を求めて日雇い労働者が集まるにあたり暴力団が斡旋することもしばしばであった。
地区の住民は過半が中年以上の男性で締められ、また雰囲気からも全般的に「ガラが悪い」というイメージであることも拍車がかかっている。
浮浪者(ホームレス)も多いとされる。処方箋の薬品の転売や海賊版の商品などを違法に販売する露天商や、中には覚醒剤の販売を行うものまでいたとされるが、流石に近年の治安改善の様々な働きの中で撲滅されている。
高度経済成長の時期やバブル経済の時期は人の流入も多く、ある意味では大阪における一大経済圏と化していたが、20世紀末にもなると不景気や工場の海外移転などから日雇い派遣の労働需要が減少し、良い意味でも悪い意味でもかつてほどの活気は失われたとされる。
街の清掃・整備も進んでいる他、「ドヤ」もその中で生き残りを図るため、かつての劣悪な宿泊環境を大きく変えるべく様々な取組を行い、宿泊施設のリニューアルなどを行う業者も増えた。
その結果、「大阪都心にあり交通至便ながら極めて安い宿泊施設」として主に海外のバックパッカーなどから人気を集めるようになり、国内からの倹約派の旅行客が利用するようになった。
このため、現在では「格安ホテル街」として、新今宮駅前など交通利便が特によく大きな通り・駅に近い場所は新しい繁栄を迎えている。
また、日雇い労働者は何も全員がヤクザのように凶暴な人間というわけではなく、大多数が他の住民と変わらず穏やかに生活している。あいりん地区の犯罪発生率は西成区内でも飛びぬけて多いわけではないのも事実である。
とは言え、日雇い労働者や浮浪者がそうした境遇に身を置くことには様々な理由があり、中には人と関わるのを極端に避けたがる、経歴にキズ(=逮捕歴など)を持つ人も一定数いるため、些細なことがトラブルの原因となることはある。
加えると、興味本位で飛び込んだ外の人間がむやみやたらに住民関わってトラブルを起こす場合も多い。さらに、トラブルを体験した人間が「あそこは治安が悪かった」と一方的に断ずる、面白おかしく西成区全体を「怖い街」と取り上げるようなことも、イメージ固着の原因とも言える。
基本的に、安宿への宿泊を除けば、積極的に関わる必要性が無い、といえる場所なのである。
ドヤのイメージ
前述したように、ドヤの中には施設のリニューアル・リノベーションを行い、ビジネスホテルやビジネス旅館と遜色ない施設を持つものも増えてきた。
相場ではおおよそ2000円も出せばまともな施設に泊まれるといえ、宿代を倹約したい人にとっては大きなアドバンテージとなっている。
気を付けねばならないのは、値段が高めのドヤでも設備の一部は共有となっていることが多いことである。寝床が共有(カプセルホテル様態)な施設は限られるが、トイレや浴室(大浴場)は共有なことも多い。また、元は労働者の長期滞在を目的としているため、ガスコンロ、給湯器といった調理設備やコインランドリーなどがついていることもある。
「なんだ、2000円くらいなら他所の地区でもあるだろ。1000円くらいで泊まりたい」と欲張って更に値を下げると、その分リスクは高まる。1500円程度なら特に問題は無いとされているが、中には1000円を切るようなドヤもある。
そのような格安宿の場合、布団は使い古し、部屋は三畳未満、鍵が欲しい場合別途有料、トイレも和式は当たり前、という風に部屋のランクや広さはどんどん悪くなっていく。
最安値は500円~600円ともされるが、ここまでの安宿の場合「短期宿泊者お断り」とされることも多く、宿の受付の愛想も良くなかったりするようだ。
近年では同じく区内に多い文化住宅と並んで、(元)日雇い労働者向けの長期入居を前提としたアパート、マンションとして改装されているドヤも増えている。ドヤを改装した施設は特に「福祉」と称した生活保護受給者を対象とした保証人・敷金礼金不要のアパートが多い。大半は施設の管理状況など普通の共同住宅と変わりないものの、中には受給者から金を巻き上げる「貧困ビジネス」に使われている悪質な施設もあると見られている。
飛田新地
山王3丁目周辺のエリア。あいりん地区(釜ヶ崎)とは阪堺線を挟んで逆側にある(正確には「現役」なのは更に阪神高速松原線で囲まれた辺り)。
いわゆるかつての遊郭である。明治末期に発生した「ミナミの大火」によって難波新地と呼ばれた元の遊郭地域が炎上してしまったため、店が同地に移ったのが始まり。
このうち甲部(この甲部は現在の祇園甲部にも通じる)と呼ばれた、芸妓を抱える高級な店は難波に残り、乙部と呼ばれた売春宿が中心となって移動したとされる。
かつては飛田遊郭大門を始め4つの門でのみ区切られ、遊郭自体は門に連なる壁で周りをぐるりと囲まれていた。あたかもベルリンの壁のようであるが、この壁は地元ではエルサレム神殿の外壁からとって「嘆きの壁」と呼ばれる。これは、娼婦が逃げられないように壁で囲った跡とされており、こうした歴史から「嘆き~」の名が使われたと推察できる。
壁は一部が現存しており、遺構のように街の中に残存している。特に大きく残っているのは、阿倍野区との境界。ここは上町台地に沿って阿倍野区側の土地が大きく隆起しており、飛田側はあたかも堀の下のようなイメージである。
阿倍野区側は再開発もあって住宅地として大きく繁栄しているが、まるで異なる世界観を隔てるかのように、「壁」と土地の高低差が町の境界を表している。
現在でも、飛田では「現役」のそうした店が軒を連ねる、いわゆる風俗街である。ただし、飛田の各店はあくまで料亭の体をとり、配膳など店員として働く女の子と客が「自由恋愛」の末…という体裁を取ることで売春防止法の規制を逃れている(大阪府内には九条駅近くや和泉市信太地区が、大阪と隣接する兵庫県は尼崎市の神田南通りにも同様の営業形態のお店が存在する)。
なお、域内に残る大正時代の遊郭の建物が居酒屋「鯛よし百番」の建物として流用されている。誤解されているが、ここは本物の料亭・料理屋であり、そういう行為をする店ではない。
釜ヶ崎も写真撮影はトラブルのもとになりやすいが、ここ飛田はことさらで、特に店舗を撮影することに対して非常に厳しく、原則として店舗内部の撮影は禁止されている。
釜ヶ崎と共にある意味西成の象徴と結び付けられるが、釜ヶ崎と異なるのは決して「安い街」ではないということ。現在でも遊郭当時の風格をある程度保ち、現代風に合わせてはあるものの、ドヤと違って「相場」は全国的に見ても高いとされる。
以上、「西成」の著名な地区を記したが、何度も言うように釜ヶ崎・飛田が「西成の一部」であっても、西成=釜ヶ崎や飛田、ではないことに注意したい。またそれぞれの街自体にもそれぞれのプライドや考えがあるわけで、地区さえ正しく把握していれば安易に馬鹿にしていいという話でもない。