概要
大阪府大阪市中央区・浪速区周辺の繁華街「ミナミ」の一部である。なんばグランド花月周辺の難波千日前とは厳密には住所で区別されるが、体感的には一体的である。
道頓堀の南東、近鉄大阪難波駅周辺に位置し、上に高速道路・地下に近鉄難波線の通る「千日前通」を挟んで北側が千日前1丁目、南が千日前2丁目で、更にその南側に難波千日前がある。
かねてから演芸場などが多く、かつては映画館も多かった。現在では都心映画館の衰退とシネコン化により「TOHOシネマズなんば別館」を除いて映画館は消滅しているが、周辺は現在でも娯楽街として知られる。
名前の由来
本説としては、西隣の難波にある法善寺と竹林寺(現在は天王寺区に移転)で千日念仏が唱えられていたことから、両寺(特に法善寺)が千日寺と呼ばれ、その門前であることに由来する。
別説にはかつて同地にあった墓地内にあった寺「六坊」こと千日山安養寺の前だから、というのもあるようだ。
千日念仏の由来について、江戸時代初期に発生した「大坂夏の陣」の死者を弔うためだった、とも言われている。
歴史
江戸期
前述の通り、名前があらわれるのは「大坂夏の陣」以降であると見られる。法善寺がこの地に移ってきたのも1637年前後とされている。
この後市内の墓地の整理により、この地に「千日墓地」と呼ばれる墓地と、刑場・焼き場が敷設された。江戸時代、長きに渡って同地は墓地であり刑場であった。一方で付近の寺などを中心に祭事があり、更に18世紀頃には付近の施設の移転により見世物小屋や茶屋が作られるなど、暗いイメージ一辺倒の場所でもなかったようである。
明治期
さて、時代は下り明治時代、阿倍野界隈からの繁華街の広がりにより同地も再開発がされることになったが、何しろ刑場と墓地のあった場所で縁起が悪く誰も買わない。そこで、「灰処理代」として十坪辺り5円(当時の価格で、である)をつけて買わせるなど、悪戦苦闘しながらの開発となった。
日本初の純民間資本として阪堺鉄道(現在の南海電気鉄道)が難波駅を開業させるとこの地も大いに賑わいを見せるようになり、遊郭などが立ち並ぶ色街としても盛況を見せるようになった。
しかし、明治も終わりごろの1912年、同地周辺にあった遊郭に近くの銭湯の火花が燃え移り、これが周囲一帯を延々と焼き尽くす「ミナミの大火」が発生。焼野原も同然の惨事となってしまった。
大正期
この危機に、当時の南海鉄道(阪堺鉄道から改組)の社長らは手をこまねいているばかりではなかった。「千日土地建物(千土地)」という会社を設立、当時の大阪興行界の実力者山川吉太郎に声をかけ、復興の中心地として一大レジャー施設を建設させた。これが「大阪楽天地」である。
時は大正、ハイカラ・モダンなものを求める客のニーズにあった楽天地は一大ムーブメントとなり、ミナミ復興に大きな役割を果たした。更にこれが呼び声となって付近には演芸場や映画館が立ち並ぶようになり、道頓堀と肩を並べる一大歓楽街として成長したのだ。
昭和期
しかし、昭和期には楽天地も陰りを見せ、山川が興行失敗から撤退の意思を見せると、「千土地」は松竹に買収され、楽天地は取り潰し。跡地には「大阪歌舞伎座」が作られ、楽天地に代わって賑わいの新たなスポットとなる。当時大人気であった歌舞伎役者「初代中村鴈治郎」人気にあやかって新たな施設なども生まれた。
太平洋戦争後付近は再び焼け野原となるが、戦後復興に合わせて三度再建が進んだ。生き残った「大阪歌舞伎座」だったが、こちらは近隣の難波御堂筋に「新歌舞伎座」を作ったことで廃座となる。しかし建物は流用され、そのまま「千日デパート」と呼ばれる複合ビルとなった(いわゆる複合商業施設であり、百貨店ではない)。
ところが、この千日デパートは建物自体が戦前からの古いものを流用していた上にビルの管理体制が複雑かつ非常口の利用に問題があった。そして1972年、タバコの不始末が原因と考えられる千日デパート火災が発生、死者118名を出す大惨事となり、同地は三度火災に見舞われることとなる。
ビルの総合管理者は「千土地」あらため「日本ドリーム観光」のものであったが、その管理体制のなんやかやは後年まで死傷者の賠償問題を引きずることとなる。それが原因となり、火災の跡地は10年近く何も再開発がされないまま放置されてしまうなど、ミナミの発展そのものにまで影響を残すことになってしまった。
昭和末期~平成期
その後ようやく、同地をダイエーが主体となり再開発することが決定。1981年、ダイエーがフランスの百貨店オ・プランタンと手を組んで作った「プランタンなんば」となる。今度は本物の百貨店であった。
しかし、千日デパートの影響を引きずったのか、このプランタンなんばは今一売上が上がらず、不振にあえいだ。原因としては、南海難波駅前直結の大型百貨店「髙島屋大阪本店」がミナミのイニシアチブを取り、他にも心斎橋の「大丸」「そごう」などがある中で同店が今一つ主流になれなかったことが一つ。
また、バブルを経て長い平成不況に突入する中で、百貨店という形態そのものが衰退傾向となったのがもう一つである。結果として、2000年にプランタンとのブランド契約終了に伴い「カテプリなんば」と名を変えるが、負債がかさみ同年末に閉鎖してしまった。
その後建物施設は居抜きで「ビックカメラ」が入店。現在はビックカメラとして営業が続いている。現在閉館などの話はなく、目まぐるしく変わってきたこの施設も、ようやく落ち着いたのかもしれない。
現在
付近と比べどうにも垢抜けないイメージがあるのは事実である。しかしながら、そうした様態がむしろ支持を受け、サブカルチャー発展の地として密かに注目を集めるなど、21世紀の千日前はまた別の進化の方向に進んでいる。その拠点の一つ、味園ビルのテナント料が安くなり、若いオーナーが同ビル内に店舗を持てるようになったのも大きいであろう。
サウナ・カプセルホテル「アムザ1000」のある場所としてもそこそこ有名。ちなみに向かいが「ビックカメラ」、元の千日デパート跡地である。
千日前を舞台とした怪談話がいくつか存在するが、概ね千日デパート火災やそれ以前に刑場・墓地があったことを由来としたものが多い。