はじめに
1972年5月13日、大阪府大阪市南区難波新地(当時、現・中央区千日前)の千日デパートにて起こった火災事故。死者118人・負傷者81人の、日本のビル火災では最悪の大惨事となった。
なお、Wikipediaにおいて記事名が「千日デパート火災」とされ、現在はそれが定着してしまっているが、「千日デパート」の「デパート」は自称であり、日本の建物管理に関する法律上は、特定のキーテナントが管理の責任の一端を持つ大規模小売店ではなく、雑居ビルである。
消防博物館で特異火災事例として公開されている火災の資料でも、近代以降の平時の日本における小売店火災で被害が最大のものは、本火災よりもわずかながら死者数の少ない大洋デパート火災とされている。
千日デパートとは
千日デパートは1932年竣工の大阪歌舞伎座であった建物に1958年12月1日に開業。経営者は千土地興行株式会社(1963年に日本ドリーム観光株式会社に改称)。地下1階から地上5階を商業施設、6階を千日劇場と食堂、7階を大食堂、屋上を遊戯施設としていた。「まいにちせんにち、千日デパート」のCMソングで知られ、1960年からは屋上に観覧車があり、大阪の名物だった。営業時間は10時から22時までだった。ビル正面には"丸印にS"(Sen-nichiから)のマークが掲げられていた。
火災概要
1972年5月の火災発生当時、地下1階にお化け屋敷と喫茶店を合わせた店舗「サタン」(子会社の千土地観光株式会社が経営)、1階、2階が専門店街で日本ドリーム観光直営の「千日デパート」、3階、4階がニチイ(後にマイカルを経て現在はイオンへ吸収合併)千日前店、5階に均一ストア、6階にゲームセンター(千日劇場跡)、7階にキャバレー「プレイタウン」(千土地観光株式会社が経営)が入居していた。6階の劇場跡部分はボウリング場に改装中、3階ニチイの洋品売り場も改装工事中だった。
5月13日22時に下の階の店が閉店。7階のキャバレー「プレイタウン」のみが営業していた。当時は週休2日が定着しておらず(ただしいわゆる「半ドン」で土曜の午後を余暇とする習慣があった)、1週間最後の出勤日、土曜日という事もあり、「プレイタウン」は多くの客でにぎわっていた。「プレイタウン」では、バンドマンの演奏や歌を聴きながら飲酒とホステスからの接待を受ける形式だった。ホステスには子持ちの母親が多く、奇しくも翌14日は5月の第二日曜日で母の日だった。
22時27分頃、3階から出火。電気工事の現場監督が火災報知器のボタンを押し、1階の保安室に「火事や」と3回怒鳴った。22時34分に保安係長が係員2名を3階に向かわせ、6分後に保安室から119番通報した。しかし保安室から7階「プレイタウン」への連絡も、「プレイタウン」から保安室への連絡もなかった。3階では電気工事の関係者が初期消火を試みるも失敗。火は化学繊維でできた服に燃え移り、瞬く間に燃え広がる「フラッシュオーバー」が発生、防火シャッターが解放されたままのエスカレーターの開口部から2階及び4階に延焼した。有毒ガスが排気ダクト、エレベーターシャフト、らせん階段通して上の階に充満した。下の階が出火した直後、従業員がエレベーターからの白い煙を見て故障と思い点検作業に取り掛かったが、煙が黒く変わったことで火災に気づき、客やホステスに避難を促すと、店内にいた181人がパニックに陥った。このエレベーターは1階から7階の「プレイタウン」専用の直通エレベーターで、ホールの出入口を除くシャフト内に開口部がないはずだが、2・3階部分に手抜き工事による隙間があり、火災階からの入った煙が煙突効果で、エレベーターシャフトを通して「プレイタウン」内に流れ込む一因となった。
出火原因は電気工事関係者のたばこの不始末と思われる。3階の南東角から出火したという。7階では181人がエレベーターホールに向かうものの煙が充満。7階「プレイタウン」に通じる階段は、エレベーター横のA階段(特異火災事例の図面参照)、クロークの奥に特別避難用のB階段、エレベーターホールから離れた更衣室横のE階段、ステージ裏手にらせん状のF階段の4つがあった。しかし3階シャッターが解放されたほとんどの階段から煙が入っているため、避難階段としては使えなかった。非常口のA階段には無銭飲食を防ぐために鍵が掛かっており、「プレイタウン」の支配人はクロークからその鍵を取ろうとしたが、大量の煙に阻まれた。3階の扉が閉まっており、唯一避難できたB階段から脱出したのは2人だけだった。エレベーターによる煙突効果により「プレイタウン」にも煙が充満した。さらには停電したために逃げ道がなくなり、使用方法を誤りやむなく救助袋にしがみついて下に降りようとするも転落、あるいは窓ガラスを割り15m下の地上に飛び降りた者がいた。落下による24人のうち22人が全身挫傷もしくは頭がい骨陥没などで死亡。7階では折り重なるように96人が一酸化炭素中毒で倒れ窒息死した。計118人の死者を出した。母の日の前日に起こった惨劇となった。
千日デパートは大阪歌舞伎座を改装した古い建物で、1950年施行の建築基準法に適合しておらず、防火シャッターが自動で作動するものでもなく、スプリンクラーもなかった。
千日デパート関係者2名(管理部次長・管理部管理課長)、「プレイタウン」を経営した千土地観光関係者2名(代表取締役・「プレイタウン」支配人)が業務上過失致死傷で起訴された。うち千日デパート管理部次長は第一審係属中に死去、残り3人は第一審(大阪地裁昭和59年5月16日判決)で無罪となるも、控訴審(大阪高裁昭和62年9月28日判決)では有罪判決が下り、上告審においても結論は変わらず(最高裁平成2年11月29日決定)千日デパート管理部管理課長に禁錮2年6月・執行猶予3年、千土地観光の2被告には禁錮1年6月・執行猶予2年の有罪判決が確定した。
この火災と翌年に熊本市で発生した大洋デパート火災を機に、建築基準法と消防法が大幅に改正された。
千日デパートは1983年に解体され、その後、跡地にプランタンなんばが建設された。カテプリなんばを経て現在はビックカメラが入居するエスカールなんばとなっている。
2015年7月9日放送のフジテレビ「奇跡体験アンビリバボー」にてこの様子の再現ドラマ、生存者のインタビューが放送された。