谷村新司(1948年12月11日~2023年10月8日)
概要
日本のシンガーソングライター。
1970年代後半から80年代前半にかけて人気を博した日本のフォーク・グループ「アリス」のリーダー。
ソロでのヒット曲としては「昴」、「群青」、「三都物語」、「22歳」、提供曲としては「いい日旅立ち」(山口百恵)、「花梨」(柏原芳恵)、「砂の十字架」(やしきたかじん)などがある。
ニックネームはチンペイ。
来歴
1948年12月11日、両親が戦時中に疎開した河内長野市の長野温泉で誕生。
1964年、大阪府立大和川高等学校に進学。
1965年、フォーク・グループ「ロック・キャンディーズ」を結成。
1968年、「ロック・キャンディーズ」は東芝レコードよりシングル「どこかに幸せが」でデビュー。
1970年、細川健(後にアリスの所属する音楽事務所を設立)の主導で「ザ・フォーク・クルセダーズ」などと合同の北米横断コンサートツアーが行われ、「ブラウン・ライス」の矢沢透と意気投合しバンド結成を約束する。
1971年、「フーリッシュ・ブラザーズ・フット」の堀内孝雄と「アリス」を結成。翌年、矢沢も合流。下積みが長かったが、1970年代後半にはビッグ・ネームとなる。
1972年、「セイ!ヤング」(文化放送)で1978年までDJを務める。ゲストで出演していたばんばひろふみが途中からレギュラーになりボケ役を務めた。「天才・秀才・バカ」のコーナーは大人気で、「青春大通り」(1978~1980年)、「青春キャンパス」(1980~1987年)でも谷村・ばんばのコンビで継続した。
1979年、「陽はまた昇る」でソロ・デビュー。
1980年、ソロ・シングル「昴 -すばる-」がヒット。
1981年、「アリス」が活動停止。工人体育館(北京)で日中共同コンサート「ハンド・イン・ハンド北京」を開催。
1984年、小川知子とのデュエット・シングル「忘れていいの-愛の幕切れ-」がヒット。
1987年、「アリス」を復活させ翌年まで活動。
1992年、加山雄三との共同制作で24時間テレビのテーマ曲「サライ」が誕生。
1997年、ボキャブラ天国のMCとなる(ヒロミと合同で翌年9月まで続けた)。
2000年、「アリス」を復活させ翌年まで活動。
2015年、紫綬褒章を受章。
2023年3月、急性腸炎のため入院と療養に専念する事を発表したが、10月8日に死去。10月15日、近親者のみで葬儀が行われた。10月16日、公式サイトにて『平素よりご厚情をいただき心より感謝申し上げます。今年の3月に腸炎での手術を行い療養を続けておりました谷村新司ですが、10月8日に息を引き取り 永眠いたしました。』と発表された。
余談
- アリス全盛期の頃から生え際の後退が進み、キャップを愛用していた。同様に頭髪が危ういさだまさし、松山千春と共にネタにされがちだった。
- 「いい日旅立ち」「昴」「サライ」等のバラードや穏和な顔立ちと口調で紳士的なイメージがあるが、本人曰く若い頃は売られた喧嘩は全部買ったとの事(「ムハハnoたかじん」2009年1月30日放送)。
- 「セイ!ヤング」などでのDJトークは、下ネタや宇宙の話など幅広かった。
- ビニ本のコレクター、研究家として知られ、仲良くなったショップの店長から仕入れの相談をされたり、店番を任される程だった。(この事から現在でも「谷村新司=スケベ」のイメージが強い)
- ショップからただでビニ本を譲渡される事も多く、一時は5000冊近くになり、ビニ本専用倉庫を所有していた。
- 不要なビニ本をJAC(ジャパン・アクション・クラブ)の寮に差し入れ、非常に喜ばれた。
- 好みのビニ本モデルのファンクラブを作っていたが、のぞき部屋「ファイブドアーズ」で行われた個室撮影会に行ったところ、スキンヘッドの怪しげな受付がおり、その人物が後のデーモン閣下であった。
- 新型コロナウイルス感染症の流行によるステイホーム期間中、アニメにはまったことを告白していた。お気に入りの作品は『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』、『夏目友人帳』、『ふらいんぐうぃっち』、『宝石商リチャード氏の謎鑑定』だったという。
- 独特の髪型、口髭(80年代に生やしてからトレードマークになった)にハットといった個性的な出で立ちや唄い方から清水アキラ、ダンシング谷村、谷村仁司(じんじ)といったものまねタレントのネタにされている。中でもダンシング谷村は谷村を誇張したインパクト強烈なモノマネをした事でオファーが殺到し、谷村を自らの命の恩人と語っている。