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プロフィール編集

本名河村靜也(かわむら しずや)
生年月日1943年7月16日
出身地大阪府

来歴編集

関西大学商学部(夜間部)在学中、3代目桂米朝落語を聴いたのをきっかけに興味を持ち、当時所属していた卓球部を退部して出来たばかりの落語研究会『落語大学』に入部。落研設立に伴って生み出された亭号「浪漫亭」「千里家」のうち浪漫亭を選び、『浪漫亭ちっく』(ろまんてい-)の高座名でアマチュア落語家として活動を始め、ラジオ番組出演するなど関西では早くも有名になっていった。


1966年紆余曲折を経て3代目桂小文枝(後の5代目桂文枝)に弟子入りし、三番弟子という事から「桂三枝」を拝命する。間もなく兄弟子が2人とも廃業したため、早々に一門の惣領弟子となる。


弟子入り翌年にはMBSラジオの人気番組『MBSヤングタウン』に出演し、その後1969年からはMBSテレビの『ヤングおー!おー!』で一躍ブレイクを果たすと、数多くのテレビ・ラジオ番組に出演し、そのは全国区になった。特に、1971年の番組開始から2022年に「歳をとり、結婚する世代の話がやりづらくなった」として藤井隆に託して降板するまで51年間出演を続けた『新婚さんいらっしゃい』は有名で、2015年7月2日に「同一司会者によるトーク番組の最長放送」としてギネス世界記録に認定され、番組内で使われる「いらっしゃーい」は三枝の看板であった。


本業の落語は、若手時代に演じた古典落語こそ振るわなかったが、創作落語の大家である2代目三遊亭圓丈代表作グリコ少年』に影響を受けて以来創作落語を演じ続けており、後に江戸落語界でも特に芸談に厳しかった7代目立川談志をしてその才能を認めさせた。2020年3月4日、新型コロナウイルス感染症の影響により、なんばグランド花月で300作目の創作落語を無観客収録し、ネット配信した。


2000年代からは落語家としての活動に軸足を移し、2003年からは上方落語協会会長を務め、2006年上方では約60年振りの定席寄席となる『天満天神繁盛亭』敷設にも大いに助力した。2012年、上方落語界の大名跡であると同時に上方桂一門の止め名である文枝の6代目を襲名。ただし、上方落語復興に生涯を捧げた1人である『六代目』こと6代目笑福亭松鶴への敬意から『六代 桂文枝』を名乗って活動中。


余談編集

  • テレビのバラエティ番組ですっかりお馴染みとなった「あっち向いてホイ!」や「さわってさわってナンでしょう(箱の中身はなんだろな)」、「叩いて・かぶって・じゃんけんぽん」は三枝が考案したもの。
  • 実は明石家さんまを今に至るお笑いスターにまで成長させるきっかけを与えた人物でもあり、さんまは文枝襲名披露にて落語家として舞台に上がるなど、非常に深い恩義を感じている。さんま曰く「叱られる時に何故か『いらっしゃーい』のポーズで呼びつけられた」という(文枝はそれは脚色と言いながらもした覚えがあるなど曖昧な形で夢を持たせている)。
  • 生後11ヶ月で父が出征した後に病死したため、父親を全く知らずに育っており、気が付くともう70年の時が過ぎていた。NHKドキュメンタリー番組『ファミリーヒストリー』で、彼の家系から謎だった父親の事が判明していく。実は、父の遺骨は長年所在不明だったのだが、番組の調査で大阪府天王寺区の真田山陸軍墓地の納骨堂に安置されていた事が判明。所在不明だったのは、そこに安置された遺骨が長年調査されていなかった事によるものであった。番組の数年前、安置されていた遺骨群の再調査がされた際にようやく判明したとのこと。そして、後日納骨堂を訪れた文枝は父との70年ぶりの対面を果たし、涙した。
  • 2006年紫綬褒章2015年旭日小綬章を受賞。

関連タグ編集

新婚さんいらっしゃい

三遊亭圓丈 立川談志 明石家さんま 桂三度(前・世界のナベアツ。18番弟子。)

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