曖昧さ回避
- 初代:昭和中期〜後期に掛けて活躍。のちの2代目春風亭梅香。
- 2代目:昭和中期〜平成中期に掛けて活躍。のちの5代目柳亭痴楽。初代の弟弟子。
- 3代目:当代。2代目の実子。
pixivでは初代小痴楽あるいは3代目小痴楽を描いたイラストが存在する。
初代小痴楽(2代目春風亭梅橋)
(画像上段左)
本名:三村 良弘
生没:1934年(昭和9年)10月1日~1984年(昭和59年)1月25日。
1954年に4代目柳亭痴楽に入門し、師匠の旧名柳亭痴太郎を名乗る。
1957年に二つ目に昇進し、小痴楽に改名。
1965年にテレビ番組「金曜夜席」にレギュラー出演し、翌年後継番組の「笑点」にも引き続き出演。
しかし1969年に司会の7代目立川談志との路線対立により、5代目三遊亭圓楽・桂歌丸・4代目三遊亭小圓遊・林家こん平とともに降板。この頃、真打昇進に伴い2代目春風亭梅橋に改名。
梅橋以外の他メンバーは談志降板後に復帰するが、彼は笑点降板後に東京12チャンネル(テレビ東京の前身)の演芸番組にレギュラー加入したため、笑点に復帰するきっかけを失い二度と復帰することがなかった。ちなみに春風亭梅橋として笑点に登場したことはない。
酒好きが災いし、テレビ東京の番組の生出演で大失態を犯してからはテレビから干され所属プロダクションも解雇され仕事も激減してしまう。その後は糖尿病などを患い闘病生活を送ったが1984年、食道静脈瘤破裂により亡くなった。享年50歳(満49才)。
酒については談志ばかりか師匠の痴楽が何を言っても聞かないような状態だったとされ、談志は梅橋について自身の著書で「メチャクチャなヤツ」と評している。また黒柳徹子は梅橋の奇行やイタズラぶりについてもエッセイやトークで取り上げたこともある。
なお梅橋の名は2代目死後、空き名跡となっている。
2代目小痴楽(5代目柳亭痴楽)
本名:澤邊 幸三
生没:1951年(昭和26年)11月30日~2009年(平成21年)9月7日。
1968年に4代目柳亭痴楽に入門。師匠と初代小痴楽の旧名柳亭痴太郎を名乗る。
1972年に二つ目に昇進し、2代目小痴楽となる。
1983年、真打昇進。
張本勲そっくりの風貌で、稼ぎは落語家仲間への奢りに注ぎ込むなど豪放磊落であった。また30代で糖尿病や睡眠障害を患っており、高座に上がっていない時にはしばしば居眠りをしてしまうところがあったという。
1996年に5代目痴楽を襲名するも、2005年に脳幹出血で倒れ、闘病の末2009年没。享年59歳(満57歳)。
3代目小痴楽
(画像右)
プロフィール
2005年、2代目桂平治に入門し、桂ち太郎を名乗る(上述の通り2005年は実父5代目痴楽が倒れた年であり、初代、2代目ともに若くして病魔に臥した事から平治は「疒(やまいだれ)の付いた『痴太郎』では縁起が悪い」との判断から平仮名混じりの「ち太郎」の名を与えたという)。
2008年に寝坊による遅刻癖から平治に破門され、その際に桂歌丸や三遊亭小遊三から勧誘されるも、師匠に見捨てられたショックから廃業を検討する。しかし平治や小遊三から「親父さんの元でやり直しなさい」と説得され、実父5代目痴楽門下に移籍、柳亭ち太郎に改名。
5代目痴楽没後の2009年に父や初代小痴楽(2代目梅橋)の弟弟子に当たる柳亭楽輔門下に移籍、同時に二つ目に昇進し3代目小痴楽を襲名する。
2019年9月下席より真打に昇進。
2013年9月から2019年9月まで存在していた芸術協会の若手ユニット『成金』のリーダーを務め、父親譲りの気風の良さと後輩への面倒見の良さで内外から人気がある反面、寝坊や遅刻の常習犯であるらしく、実父である5代目痴楽の親友であった桂米助は自身のYouTubeチャンネル内で『落語界一の問題児』と紹介している。