鈴々舎馬風
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れいれいしゃばふう
鈴々舎馬風は、落語家である。ここでは5代目について述べる。
本名:寺田 輝雄
1956年、17歳の誕生日に5代目柳家小さんに入門し、柳家小光を名乗る。
1960年、二つ目に昇進し、柳家かゑるに改名。
1969年、4月から11月までの間、兄弟子の7代目立川談志に誘われて笑点のレギュラーを務める。(この時のレギュラーメンバーは、三升家勝二(8代目三升家小勝)、柳家さん吉、三遊亭好生(春風亭一柳)、春風亭栄橋。)
1973年、真打昇進。
1976年、5代目鈴々舎馬風襲名。豪快な性格で新作落語を得意としていた4代目になぞられての襲名となった。
2001年、3代目古今亭志ん朝死去に伴い、落語協会副会長就任。
2006年、3代目三遊亭圓歌の後任で落語協会会長就任。
2010年、落語協会会長を弟弟子(ただし同年齢)の10代目柳家小三治に譲り、顧問に退く。
2014年、弟弟子の4代目柳亭市馬の落語協会会長就任による役員改選により最高顧問を務める。
代表的な作品は「会長への道」。これは師匠小さんの後任の落語協会会長を巡り、圓歌、談志、5代目三遊亭圓楽、志ん朝といった先輩たちが次々といなくなり、自分に会長の座が回ってくるというもの。実際1978年に圓楽が脱退、1983年に談志が脱退、2001年に志ん朝が亡くなって、2006年にとうとう会長就任を実現させた。
柳家かゑる時代には、キックボクシングのリングアナウンサー、歌手の公演の司会業もしていた。
馬風襲名後は1980年代にテレビ東京の『生放送!お笑い名人会』(のち『爆笑!おもしろ寄席』)の企画「ハリセン大喜利」で、ハリセン大魔王として悪い答えを出す大喜利メンバーを(時には司会者のみのもんたがとちるとみのにも容赦無く)叩きまくった。これが関東より関西で大受けし、大阪に行くと大人気だったという。
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