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単独機事故としては世界最悪かつテロ等を除いた航空事故としてはワースト2の犠牲者を出した航空事故としても知られる。その数は520名。これは搭乗していた乗員・乗客のほぼ全員に相当する。

犠牲者の数そのものもさることながら、その中に多くの著名人やその関係者が含まれていたことも相まって、今でも単に「123便」もしくは「日航機事故」と言えばこの事故を思い浮かべる人が多いほど人々の記憶に強く刻まれた事故である。

この事故は、2021年現在日本の航空会社が起こした最後の死亡事故である。それ以前は3~5年周期で死亡事故が発生していたが、この事故以降36年間(日本航空36年、全日空50年、近年設立の航空会社はゼロ)死亡事故を起こしていない。(事故後30日以内に死亡した者を死者と認定するためカウントされていないが、1997年に起きた日航機乱高下事故で負傷した客室乗務員が20ヶ月昏睡の後死亡した事例がある。)

概要

1985年8月12日、乗員乗客あわせて524名を乗せた東京国際空港羽田空港)18:00発大阪国際空港伊丹空港)行日本航空123便(B747SR JA8119)は、離陸からおよそ12分後、後部圧力隔壁が破損した衝撃で垂直尾翼を失い、油圧系統をオールロスト。操縦桿を用いた操縦が不可能な状態へ陥った。
この事態にパイロットはスコーク77緊急事態)を宣言し羽田空港へ戻る事を地上管制へ要請。また通信を聴いた米軍横田基地も最優先で123便を受け入れる準備を整えた。

パイロットは左右のエンジン出力を加減するという限られた手法で必死に機体を制御して羽田へ向かおうとしたが、尾翼を失ったことによって安定性が失われ、ダッチロールとフゴイド運動が激しくなりつつあった機体は、異常発生から30分以上迷走を続けた後、群馬県長野県の県境の御巣鷹の尾根にひっくり返るような形で墜落した。墜落時に機体は跡形も無く破壊されたが、機体後部だけは先に脱落して落下したことで衝撃が小さく、火災に巻き込まれることもなかったのでこの部分にいた4名が生存できた。

異常発生から墜落までの機内のやり取りの一部始終コックピットボイスレコーダーが鮮明に記録しており、原則英語でやり取りする航空管制が途中からパイロットの負担軽減を考慮して一部日本語でやり取りされている様子、「パワー上げろ!」「マックスパワー!(エンジン最大出力)」と必死に叫びながら操縦するコックピットクルーのやり取り、墜落直前の断末魔、地面に激突した衝撃音も記録されている。ちなみに当時のコックピットボイスレコーダーは30分ループのエンドレステープを使用していたが、長期運用によってテープが延びており、異常発生から墜落直前までの状況がギリギリ記録されていた。

コックピットクルー

機長:高濱雅己(49歳・運航部門指導教官・海上自衛隊第1期航空学生)
副操縦士:佐々木祐(39歳・機長昇格訓練生)
航空機関士:福田博(46歳・エンジニア部門教官)

通常機長が客室から見て左側の席に座るが、この時は佐々木副操縦士の機長昇格訓練を実施していた為、通常時とは逆に訓練生の佐々木副操縦士が左席に座っていた。一方、高濱機長は客室から見て右側の席に座っていた。

当日の飛行計画

墜落したJA8119は事故発生当日以下のフライトプランをこなす計画だった。

  • 羽田発千歳行き 503便
  • 千歳発羽田行き 504便
  • 羽田発福岡行き 363便
  • 福岡発羽田行き 366便
  • 羽田発伊丹行き 123便
  • (伊丹発羽田行き 130便)

捜索・救助

墜落後、警察や消防などにおいて救助体制が整えられ、第一空挺師団など自衛隊も出動準備を整えたが、日暮れの時間帯であったこと、墜落場所が山岳地帯であったことや当時の機体スペックの限界などが救助隊の行く手を阻み、救助隊第一陣が到着したのは事故発生の翌朝だった。

現場は爆発の衝撃により周囲が焼け焦げ、見る影も無く破壊された機体の残骸、乗客の遺品、墜落の際の激しい衝撃により激しく損傷した乗員・乗客の遺体が散乱しており、想像を絶する凄惨な状態であったとのことである。
当時救助隊として現場入りした者などの証言では「焼け焦げた木の枝かと思ったら人間の腕だった」「地面の土が人の血でぬかるんでいた」「帰ってからしばらく食事が喉を通らなかった。肉の焦げ目を見るだけでも吐き気がした」という。

しかしこの絶望的状況の中で4人の生存者が発見される。全員が女性で、機体後部にいた為に難を逃れた。

生存者発見後、遺体の収容作業が開始されたが、先述の通り墜落の衝撃と火災で犠牲者の遺体は激しく損傷しており、男女の区別もつかないほどに焼け焦げたもの、手足が断裂してバラバラになったもの、遺体に別の遺体がめり込んでしまったものなど筆舌に尽くし難い凄惨たる状況であったという。事実遺体の判別に従事した看護師「今でもデパートにおいてある首のないマネキンを見ることが出来ない」という。
ただし中には損傷の少ない犠牲者の遺体もあり、これらの方々の多くは機体後部にいた乗客だった(後部席の乗客については墜落直後は多数が生存していたという証言もある)。

DNA鑑定が実用段階になく冷房や保存技術も普及仕切っていなかった当時、遺体の身元確認は困難を極め最終的に4ヶ月もの期間を要した。
懸命に機体をコントロールし、最後まで墜落させまいと努力していた機長は、5本の歯が付いた顎の一部だけが本人のものであると確認された。

遺体安置所になった藤岡市市民体育館は強烈な死臭が漂い、後にクリーニングを実施したものの死臭を除去しきれず、体育館は取り壊されて移転したという。

原因

1987年(昭和62年)6月19日、運輸省事故調査委員会により事故調査報告書が公表された。
隔壁の接続部の金属疲労で圧力隔壁が破損し、機体尾部と垂直尾翼が破損(後に跡形も無く吹き飛ばされた事が判明)したものと推定された。
この隔壁の亀裂原因は、1978年にこの機体が起こした「しりもち事故」後の修理に見落としがあったことが原因である。
本来は三列のリベットで止める事になっていたが、謎の加工の影響で、実質上たった一列で止められており結果として強度不足になってしまった。
当時理由を調べようとしたが、企業及び作業員が国外だったため調べられず真相不明のまま迷宮入りしてしまった。後にテレビ局が追悼特番の取材で、当時の技師に質問したが、「仕様です」しか言わず取材として成立しなかった。
ただし、運航乗務員が全員死亡した事情などもあり不明な点もある。

この調査結果を受けて、一度トラブルを起こしたことのある機体の修理箇所への点検作業が改善された。

本事故で亡くなった著名人およびその関係者


坂本九(43歳):座席番号64H(2階席)
国民的な人気歌手であり、マナセプロダクション所属のタレント。大阪府羽曳野市の市議選挙に出馬する友人(過去に坂本のマネージャーを務めていたことがあった)の選挙応援として、8月13日に行われる事務所開きに駆け付ける途中だった。なお、坂本本人は本事故以前から日本航空を信頼しておらず、飛行機での移動にはいつも全日空を使っていた。しかし、当日は全日空便が満席で、飛行機やホテルなどを手配した招待側の側近はチケットを確保できなかったため、仕方なく確保したのがJAL123便のチケットだった。同行していた所属事務所のマネージャー(本事故で共に死去)は当日、羽田空港で全日空便への振り替えを何度も交渉したが、お盆ということもあって叶わなかった。墜落から99時間後の8月16日、身に付けていた笠間稲荷神社のペンダントが決め手となってようやく身元が確認された。

北原遥子(24歳):座席番号29D
女優。元・宝塚歌劇団雪組の娘役。帰省先である横浜の実家から、大阪の友人に会い行く途中。死因は脳挫傷と内臓破裂で、8月17日の午後、両親によって遺体の身元が確認された。比較的前方の座席だったが、墜落時の衝撃で奥に分け入った場所まで投げ出されたため、墜落後の火災に巻き込まれず、遺体は目立った外傷や損傷もない綺麗な状態で発見された。

中埜肇(63歳)
阪神電気鉄道専務取締役鉄道事業本部長兼阪神タイガース球団社長。久万俊二郎(阪神電気鉄道社長兼阪神タイガース球団オーナー)の代理として、東京都内の運輸省本庁舎で開催された日本民営鉄道協会民鉄協)の会議に出席し、大阪へ帰る途中。同行していた阪神電気鉄道常務取締役の男性も共に死亡した。遺体は墜落から4日後の8月16日、歯型と着衣(8月10日の福岡出張時に購入した博多織の青いネクタイと、この年のタイガース球団創立50周年を記念して作られた虎のロゴマーク入りのネクタイピンを付けていた)によって身元が確認された。

浦上郁夫(47歳)
ハウス食品工業代表取締役社長。バーモントカレーの考案者。グリコ・森永事件の終息を父・浦上靖介の墓前に報告するために大阪に向かう途中。

塚原仲晃(51歳)
医学博士・大阪大学基礎工学部教授。1986年から開始予定であった文部省特定研究「脳の可塑性」の責任者として、同研究に関する文部省との打ち合わせを終えて帰る途中。

竹下元章(47歳)
元・広島カープのプロ野球選手(捕手)。事故当時は指月電機製作所の社員。群馬県代表となった東京農大二高野球部在籍の息子を応援するために、阪神甲子園球場へ向かう途中。

緋本こりん(26歳)
当時絶大な人気を誇っていた同人漫画家。8月11日に東京都内で開催されていたコミックマーケット28におけるアニメ雑誌『ファンロード』関連のイベントに参加した帰り。なお、事故当時は同人漫画家という職業の知名度が現在ほど高くなかったため、新聞などによる報道では一般人として扱われ、本名で掲載されている。訃報は『ファンロード 1985年10月号』(1985年10月1日発売)にて公表された。

運命の分かれ道

当初はJAL123便に搭乗する予定だったが、偶然にも直前で回避したため難を逃れた人物もいる。

明石家さんま
当日、東京でテレビ番組『オレたちひょうきん族』の収録があり、終了後はJAL123便で大阪へ戻り、ラジオ番組『MBSヤングタウン』の生放送へ出演する予定だった。しかし、東京での仕事が予定よりも早く終わったため123便のチケットをキャンセルし、一つ前の便での移動に切り替えた。大阪到着後、ラジオで123便が墜落した事を知ったさんまは言葉を失い、番組内容を変更することだけを話した。以後新幹線で行ける場所への移動に新幹線を使うようになったという。
また、この出来事がきっかけでさんまの座右の銘は『きてるだけで儲け』となり、娘のIMARUの名付けの元ともなった。

逸見政孝
夏休み休暇に入り、実家のある大阪へ123便で帰省する予定だったが、「新幹線のほうが安い」という息子の太郎の助言と、妻の晴恵が飛行機が苦手であった事から東海道新幹線へ変更した。

稲川淳二
東京での仕事が終わった後、大阪へ123便で移動するはずだったが、東京での仕事の前から体調がすぐれず、翌日の朝一番の新幹線で大阪入りする事になった。しかし彼の友人であり、スタッフの和田浩太郎は、すぐにも別の用事で大阪に向かうために空港へ行き、たまたま大阪に予定よりも早く着くこの便の席が手に入ってしまい123便に搭乗、事故に遭遇し亡くなった。稲川淳二は後にこの出来事を『生涯忘れられない運命の分かれ道』と語っている。

舛添要一
当日の123便のチケットを所持していたが、最終的に搭乗しなかった。

麻美れい
当日の123便に登場する予定だったが、搭乗前の仕事が早く終わって一便早い飛行機に振り替えた。

笑点メンバー一行(当時)
5代目三遊亭圓楽・6代目三遊亭円楽(当時、楽太郎)・三遊亭小遊三桂歌丸林家木久扇(当時、初代木久蔵)・林家こん平・7代目桂才賀(当時、古今亭朝次)・山田隆夫。8月13日に徳島での仕事を控えており、徳島行の飛行機の予約を取っていた。しかし当初予約しておいた便が悪天候で条件付きの運航となったため、1本後の123便にしようという案が出たものの、こん平が「予約した便で行こう」と提案したために123便への搭乗を回避している。
しかし同行していた広告代理店の社員は先を急いで振り替えてしまい、帰らぬ人となった。
なお事故そのものは徳島へ到着後、宿泊先ヘ移動中に知ることになり全員がショックを受け、特に歌丸師匠に至っては後年「もしあの時に乗ってしまっていたら笑点の歴史はそこで終わっていたか、今とは全然違う番組になっていたかもしれない」と語っている。

ジャニー喜多川少年隊メンバー(錦織一清植草克秀東山紀之)
8月11日に公演が始まった近藤真彦の大阪での舞台の応援のために、123便に搭乗して大阪に行く予定だった。しかし、ジャニー喜多川は公演初日の記者会見に来て欲しいという要請を受けて前倒しで大阪入りし、少年隊メンバーも搭乗をキャンセルして東京に残った。

また、JA8119の事故直前のフライトであるJAL366便には、運輸大臣の山下徳夫阪神タイガースの選手やスタッフが搭乗していた。

阪神タイガースの選手やスタッフは、前日まで行われていた福岡・平和台球場での試合(中日ドラゴンズ戦)から後楽園球場での試合(読売ジャイアンツ戦)に備えて移動していた。東京に着いたタイガースの選手は、自分達に暖かく接していた中埜の搭乗を知り絶句。当時の監督・吉田義男は中埜の生存を信じ、翌日の新聞を取らなかったと言う。しかし、選手は中埜への手向けとして優勝するため奮起。その年、阪神は21年ぶりの優勝と、2リーグ分裂後は球団史上初となる日本一を果たした。優勝のウイニングボールは中埜の霊前に手向けられ、その後遺族に贈られたが、現在は遺族が阪神球団に再び寄贈し、記念館にて展示されている。この事故の影響もあり、当時の阪神の主力選手・真弓明信は飛行機恐怖症になった。また球界では新幹線で移動できる場所への飛行機移動を控え、やむなく飛行機を利用する場合でも原則全日空を使うようになった。

なお、一般客も例外ではない。事故当日、当時羽田空港へ乗り入れる唯一の軌道系交通機関で、遅れることが珍しい東京モノレールに何故か遅延が発生し、123便に乗り遅れて助かった人が居たという。逆にキャンセル待ちが成功して123便に乗り、そのまま事故に遭遇して亡くなった乗客もいる。
また、真偽は不明だがコミックマーケットにおいて同人誌を買いすぎたために123便に乗ることをキャンセルして、鈍行で帰宅することに切り替えて難を逃れた人もいるらしい。

その他

  • 日本航空では羽田-伊丹線の便番号に123122を使用していない。永久欠番としている(全日空も羽田-那覇線の臨時便のみに使用している)。
  • 日本航空では大田区の羽田空港整備地区に事故の遺品を展示した施設「JAL安全啓発センター」を開設している。普段は社員の研修に使用しているが、予約すれば一般人でも見学できる。
  • 日本の航空会社が起こした死亡事故としては最後であるが、日本国内で海外の航空会社が人身事故を何度か起こしている。その中で最大のものは1994年にチャイナエアラインが小牧空港で墜落炎上した事故(中華航空140便墜落事故)で264人が死亡した。また運航中に乗客乗員が死亡した出来事(急病人を除く)としては1999年7月23日の全日空61便ハイジャック事件で機長が刺殺されている(ただし、これは事故ではなく事件である)。なお航空事故死亡者にはカウントされていないが1997年に日本航空706便が乱気流に巻き込まれた事故で、重傷を負った客室乗務員は後に死亡している。
  • 生存した被害者、特に一家全員を失った少女に対する取材は執拗を極め、写真週刊誌も現場写真の撮影を優先するなどマスコミの取材の態度も問題点が多く、世間の非難を浴び写真週刊誌衰退の一因ともなった。
  • 悲惨な事故ではあった一方で、普通であれば即座に墜落してもおかしくなかった(事実としてトルコ航空981便墜落事故においては離陸上昇中に油圧全喪失に陥った結果クルーには成すすべなく墜落している)が、当該機ではトラブル発生から30分以上も飛行していた。このことから、舵面が失われた場合でもエンジンコントロールである程度機体制御が可能であることが、航空業界で認知される事となり、後年発生した事故(後述)においてその教訓が活かされることとなった。また、死亡したパイロットに対しても2年後の1987年に航空業界で最高の栄誉とも言えるポラリス賞が追贈されている。
  • ボーイング747型機の油圧系統はフェイルセーフに基づいて多重化されていたのだが、当時製造されていたクラシックタイプはどういうわけか機体尾部に配管が集中するという設計になっており、この事故で実質的に設計ミスが発覚することとなってしまった(せっかくのフェイルセーフが役に立たなかった)。この点については後年改修が行われた。

陰謀論


・国が重要な事を隠すために自衛隊を使って撃ち落とした

・無人標的機が衝突した

・アメリカが撃ち落とした

・自衛隊が火炎放射器で生存者を焼却し、口封じした

等といった陰謀論が出回っている。

確かにこの事故はわかっていない事が多々あり、いろいろな可能性を考えて議論することは必要である。だがこれらの陰謀論ははっきり言ってこの事故をダシにしていい加減な話や、政治思想を他人に信じ込ませようとする行為である。

実際に軍隊による撃墜事件と判明した大韓航空機撃墜事件もソ連の隠蔽工作が結局短期間で破綻しており、 そもそも1954年に発生した中華人民共和国人民解放軍空軍キャセイパシフィック航空機撃墜事件や1955年のブルガリア国防軍によるエル・アル航空機撃墜事件・1973年に起きたイスラエル空軍リビア航空機撃墜事件、そして1988年のアメリカ海軍ミサイル巡洋艦ヴィンセンスによるイラン航空655便撃墜事件等、軍事組織の攻撃による民間機撃墜事件は何れも早期に発覚しており、さらに1994年のルワンダにおけるハビャリマナとンタリャミラ両大統領暗殺事件や2001年シベリア航空機撃墜事件、そして2014年マレーシア航空撃墜事件等、実行した武装勢力や軍事組織が不明な事件でもミサイルによる撃墜自体は判明している。

日本で同様の事件が起こっても目撃者全員の口を塞ぐなど全く不可能な話であり、ニュースキャスターの辛坊治郎氏がこれらの陰謀論を自らの取材で得られた事実と突き合せて検証した所、そもそも様々な事象が発生した時系列が滅茶苦茶で事実誤認だらけであり、まるで話にならないと自身のラジオ番組で指摘している。
しかしこれらの陰謀論は定期的にリバイバルされており、近年では「元日航の客室乗務員で犠牲者CAと同期だった」「東京大学大学院博士課程修了・博士号収得」と自称する青山秀子氏による陰謀論本が出版されており、航空系が本業でない森永卓郎などの一部評論家による持ち上げ、Amazonレビュー等、これらのトンデモ論を真に受ける人も少なくない。
youtubeでは、デマ系チャンネルの「アシタノワダイ」が漫画にして広めたことがある。

テレビ局の取材に対して「墜落時の対地相対速度はおよそ350ノット/hと考えられ失速による墜落ではなく意図して急降下中であった」と証言する元旅客機機長なる人物がいたが、この人現役時代に最後に乗ったのDC-7 それともYS-11 まさか零戦とか言わねーよな?
というのも、基本的に実用ジェット機は翼面荷重が高くそのため失速速度も高い。そして一般的に、失速状況からの回復手段は急降下による増速である。しかも機体の状況が水平舵の機能も失っているため、乗員はエンジン出力の制御と主翼のフラップでしか行えない。
プロペラ機は推進機がアンダーパワー気味である分、ジェット機より翼面荷重が低く、失速速度が低い。この為、低高度で失速したとしても、失速からの回復は(ジェット機に比べれば)容易である(多くのプロペラ機は、エンジン推力を失っても、滑空により低速で不時着することすら可能である)。特にレシプロエンジンの場合、アンダーパワーではあるがスロットルレスポンスが高いため、機首下げ姿勢を取らずとも回復できる機種もある(零戦のパイロットの一部は、この手法で米軍機にオーバーシュートさせる「木の葉落とし」という技法を使ったと言う)。
しかし、ボーイング747はジェット機としては無理のない設計である分、低高度での失速の回復は非常に難しかった。日航123便に使われた747-SR100などの「クラシック・ジャンボ」は、失速状態からの機首下げによる回復の限界最低高度は6,000フィート(約2,000m)とされている。

また、「地元民の目撃情報や羽田管制成田管制米軍横田基地のレーダー情報から墜落地点が解っていたにも関わらず救出活動が14時間もなされなかったこと」を陰謀論に結びつけることが多々ある。
しかし、位置はわかっていても近づくことができないこんな山岳地帯に入っていける消防車ベース車など当時どころか現在に至るまで国産1車種しか存在していないわけだが、如何に羽田→伊丹間のフライトで燃料は満載ではなかったとしても、ボーイング747が搭載する燃料が燃えていたら、このクラスの消防車で手に負える火災ではない。
では空中からということになるが、山火事などに使われる消防ヘリや飛行艇などでの水散布は、その量が数トンから数十トンになり、面積あたりの投射量も多い。その下に脱出中の生存者がいたらその水で殺してしまう。実際に、2022年4月には、岩手県内に起きた比較的小さな山火事のために700kgの水をヘリで投射したが、それの直撃を受けた消防団員が胸腰椎骨折の重傷を負ってしまっている。
しかも、燃えているのはジェット燃料であるため、ただの水では消火できない(家庭でも天ぷら油火災や石油ストーブ火災の消火に水を使ってはならないのと同じである)。この当時だとアルカリ系強化液消火剤を使うことになるが、これは人体にとって有毒である。一般に無毒とされる、家庭用消火器として普及している粉末式消火剤は、上空からの投射には適していない(火災の熱による上昇気流で拡散されてしまう)し、仮に強引にでも有効な量を投射したとしたら、いくら無毒とは言っても呼吸器系に大量に侵入すればやはり生命の危機に置かれる。

また、「陸自の空挺部隊は夜間降下は可能だと言っていた」と言うが、それは、ヘリが安定してホバリングできる状況でなければならない。下はジェット燃料による大火災が起きていて、その熱による上昇気流によってヘリは安定したホバリングができない。また、固定翼機からのパラシュート降下も、同じ理由で現実的ではない。
それに当然、かなりの輻射熱で高温になっていることも考えられ、そこに生身の人間を降ろすことは特攻と同義である。
炎が消えたように見えても、炭化した森の木々が燻っていることは充分に考えられ、そこへ持ってきて夜間とくれば、安全な場所へ誘導して降下することは極めて非現実的としか言えない。

つまり、夜が明けて墜落現場が目視可能になるまで手のつけようはなかったのである。

そもそも当時一生懸命に救助をしてくれた自衛隊の人達にだってそれぞれ人生がある生身の人間である。上記のような陰謀論で、その人達に人殺しの濡れ衣を着せようとするのは浅ましい行為である

以下、わかる範囲で陰謀論、デマに反論を書き込んでみる。(追記・修正があればよろしくお願いします。)

123便の真実を知ったら政府に殺される。
本、テレビ、ネットなどでこれらの「真実」を知る人はたくさんいる。それだけの人数を暗殺できるのか。そもそもそのような「真実」を暴露している、青山氏をはじめ、ほとんどの人が今もピンピンしている。

自衛隊が火炎放射器で生存者を焼き殺した。
100人以上もの人達を焼き殺そうとしたら山火事になるし、自衛隊の方も無事ではすまない。そんな虐殺の痕跡を完璧に隠蔽するなど物理的に不可能である。そもそも、夜間の山岳地帯にいきなり降下等、特殊部隊でも困難であり、ましてや、火炎放射器を背負って、急な山岳地帯で、生存者を短時間で、焼却など荒唐無稽である。

123便は核兵器を運搬していた。
非核三原則って知っているか?そもそもなぜ旅客機で運ぶのか、どこに積むのか、大体そんなものを積んでいる飛行機が墜落したら辺り一帯放射能で汚染されているはずである。当然、多くの人間が被爆する。

中曽根元総理が「真実を墓場まで持っていく」といっていた。この真実とは123便の墜落のことである。
この発言を中曽根元総理が本当にしたのかは真偽は不明。仮に言っていたとしてもいつ、どこで、どのような状況で発言したのかをしっかり把握するべきである。
ちなみに中曽根康弘氏には日航123便どころではない「墓場まで持っていくべき話」ウンザリするほどある。

米軍横田基地と墜落地点の間にアメリカも知らない自衛隊の秘密施設があるため、米軍の救助を断った。
ここまで行くと陰謀論というよりは都市伝説。その中身もぶっ飛んでいて、中にはUFOとかいうものも。ただ、どうやら在日米軍からの救助の打診があったのは事実らしく、日本側は「誰がそれを受けて、断ったのか不明」らしい。

この陰謀を否定するものは工作員である。
いわゆるレッテル貼りである。正直、このような説に疑問を持つ人がでてくるのはごく自然なことである。メディアやネットの発達・多様化によりデマや風評の拡散が懸念されている今日であるならなおさらである。
このようなレッテル貼りで反論意見を聞き入れようとしないのは問題のある姿勢である。

陰謀論反論サイト
https://togetter.com/li/1146084
http://enokidoblog.net/talk/2018/09/30472
https://ameblo.jp/boumu/entry-12398533398.html

また、中曽根元総理など陰謀に加担したと言われている人たちや、青木透子氏を始めとする陰謀説を唱えた人たちをネットで中傷する人たちがいるが、例えどんな理由があっても誹謗中傷や私的制裁は絶対にしてはいけない。

8月12日に起きたその他の航空機事故・トラブル等


1958年8月12日・全日空下田沖墜落事故


この日の羽田発・小牧空港(名古屋)行きの全日空25便は伊豆下田沖の利島付近の海上に墜落し、乗員乗客計33名全員が亡くなった。
全日空にとって初の航空機墜落・死亡事故となった。

2017年8月12日・全日空37便の気圧トラブル


この日の全日空37便は離陸直後、機内の気圧トラブルが発生した。
8月12日18時発・羽田発伊丹空港行きという点が123便の事故と全く同じだったが、トラブル発生後は千葉県上空経由で羽田空港に緊急着陸し、事なきを得た。(乗客乗員などに怪我人等は無し)


関連タグ

航空事故
メーデー!航空機事故の真実と真相
衝撃の瞬間
テネリフェの悲劇 本事故を上回る583人の犠牲者を出した史上最悪の航空事故。また、こちらの事故機は衝突した双方の機体も本事故と同じボーイング747型機である。
TWA800便墜落事故 事故の悲惨さと陰謀論のはびこり具合で類似している。

関連動画






類似事故(本事故の教訓が生かされた案件)


  • ユナイテッド航空232便不時着事故」この事故では、エンジン爆発により油圧を失った際偶然客室に乗り合わせていた非番の訓練教官が当事故を研究しており、シミュレーター訓練で当機の操縦法を習得していた為、機体を最寄りのスー・ゲートウェイ空港の滑走路まで降ろす事に成功している。(当案件との違いは、垂直尾翼の有無(全壊(操縦不能)か小破(操縦困難))と確認手段の有無(夜(視認不可)か昼間(別油圧装置の異常動作の視認))だけだった)。
(ただし、着陸直前に乱気流により機体が吹き飛ばされ一瞬で横転させられ犠牲者が出てしまった。)


  • また、2003年に発生したDHL貨物便撃墜事件においては地上にいたテロリストの放ったミサイルが左主翼に命中し油圧系統が破壊されたものの上記2件の事故を教訓にして、エンジン推力のみで空港への緊急着陸にオーバーランしながらも成功し乗員3人全員(貨物機なので乗客はなし)が生還している。

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