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日本航空123便墜落事故

にほんこうくうひゃくにじゅうさんびんついらくじこ

1985年8月12日に発生した航空事故
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単独機事故としては世界最悪の犠牲者を出した航空事故としても知られる。その数は520名。これは搭乗していた乗客、クルーのほぼ全員に相当する。今でも123便、日航機事故と言えばこの事故を思い浮かべる人が多いほど人々の記憶に強く刻まれた事故である。
人気歌手の坂本九、当時絶大な人気を誇った同人作家緋本こりん、阪神タイガース球団社長中埜肇、元広島カープ捕手の竹下元章など多くの著名人やその関係者もこの事故で亡くなっている。

この事故は、2016年現在日本の航空会社が起こした最後の死亡事故である。それ以前は3~5年周期で墜落事故が発生していたが、この事故を教訓に31年間(日本航空31年、全日空45年、近年設立の航空会社はゼロ)死亡事故を起こしていない。

概要

1985年8月12日、乗員乗客あわせて524名を乗せた羽田空港18:00発伊丹空港日本航空123便(B747SR JA8119)は、離陸からおよそ12分後、後部圧力隔壁が破損した衝撃で垂直尾翼を失い、油圧系が破損。操縦桿を用いた操縦が不可能な状態へ陥った。
この事態にパイロットはスコーク77緊急事態)を宣言。同時に羽田空港へ戻る事を地上管制へ要請。また通信を聴いた米軍横田基地も最優先で123便を受け入れる準備を整えた。

パイロットは左右のエンジン出力を加減するという限られた手法で必死に機体を制御して羽田へ向かおうとしたが、尾翼を失ったことによって安定性が失われ、ダッチロールとフゴイド運動が激しくなりつつあった機体は、異常発生から30分以上迷走を続けた後、群馬県長野県の県境の御巣鷹の尾根にひっくり返るような形で墜落した。墜落時に機体は跡形も無く破壊されたが、機体後部だけは先に脱落して落下したことで衝撃が小さく、火災に巻き込まれることもなかったのでこの部分にいた4名が生存できた。

異常発生から墜落までの機内のやり取りの一部始終コクピットボイスレコーダーが鮮明に記録しており、「パワー上げろ!」「マックパワー!」と必死に叫びながら操縦するコクピットクルーのやり取り、墜落直前の断末魔、地面に衝突した衝撃音も記録されている。ちなみに当時のコクピットボイスレコーダーは30分ループのエンドレステープを使用していたが、長期運用によってテープが延びており異常発生から墜落直前までの状況がギリギリ記録されていた。

コクピットクルー

機長:高濱雅己(49歳・運航部門指導教官・海上自衛隊第1期航空学生)
副操縦士:佐々木祐39歳・機長昇格訓練生)
航空機関士:福田博(46歳・エンジニア部門教官)

通常機長が客室から見て左側の席に座るが、この時は佐々木副操縦士が機長昇格訓練実施の為、通常とは逆に訓練生の佐々木副操縦士が左席に座っていた。一方高濱機長は客室から見て右側の席に座っていた。

当日の飛行計画

墜落したJA8119は事故発生当日以下のフライトプランをこなす計画だった。

  • 羽田発千歳空港行き 503便
  • 千歳発羽田行き 504便
  • 羽田発福岡空港行き 363便
  • 福岡発羽田行き 366便
  • 羽田発伊丹空港行き 123便
  • 伊丹発羽田行き 130便

捜索・救助

墜落後、警察や消防などにおいて救助体制が整えられ、第一空挺師団など自衛隊も出動準備を整えたが、日暮れの時間帯であったこと、墜落場所が山岳地帯であったことや当時の機体スペックの限界などが救助隊の行く手を阻み、救助隊第一陣が到着したのは事故発生の翌朝だった。

現場は爆発の衝撃により周囲が焼け焦げ、見る影も無く破壊された機体の残骸、乗客の遺品、墜落の際の激しい衝撃により激しく損傷した乗客の遺体が散乱しており、想像を絶する凄惨な状態であったとのことである。
当時救助隊として現場入りした者などの証言では「焼け焦げた木の枝かと思ったら人間の腕だった」「地面の土が人の血でぬかるんでいた」「帰ってからしばらく食事が喉を通らなかった。肉の焦げ目を見るだけでも吐き気がした」という。

しかしこの絶望的状況の中で4人の生存者が発見される。全員が女性で、機体後部にいた為に難を逃れた。

生存者発見後、遺体の収容作業が開始されたが先述の通り墜落の衝撃と火災で犠牲者の遺体は激しく損傷しており、男女の区別もつかないほどに焼け焦げたもの、手足が断裂してバラバラになったもの、遺体に別の遺体がめり込んでしまったものなど筆舌に尽くし難い凄惨たる状況であったという。事実遺体の判別に従事した看護師「今でもデパートにおいてある首のないマネキンを見ることが出来ない」という。
ただし中には損傷の少ない犠牲者の遺体もあり、これらの方々の多くは機体後部にいた乗客だった。

DNA鑑定が実用段階になく冷房や保存技術も普及仕切っていなかった当時、遺体の身元確認は困難を極め最終的に4ヶ月もの期間を要した。犠牲者の一人である坂本九の遺体も激しく損傷しており、愛用のペンダントが体内にめりこんでいた事から特定できた。懸命に機体をコントロールし、最後まで墜落させまいと努力していた機長は下顎の骨の一部だけが本人のものであると確認されたという。

遺体安置所になった藤岡市市民体育館は強烈な死臭が漂い、後にクリーニングを実施したものの死臭を除去しきれず、体育館は取り壊されて移転したという。

原因

1987年(昭和62年)6月19日、運輸省事故調査委員会により事故調査報告書が公表された。
隔壁の接続部の金属疲労で圧力隔壁が破損し、機体尾部と垂直尾翼が破損したものと推定された。
この隔壁の亀裂原因は、1978年にこの機体が起こした「しりもち事故」後の修理に見落としがあったことが原因である。
ただし、乗員が全員死亡したりした事情などもあり不明な点もある。

この調査結果を受けて、一度トラブルを起こしたことのある機体の修理箇所への点検作業が改善された。

運命の分かれ道

明石家さんま逸見政孝稲川淳二も当初は123便に搭乗する予定だったが、偶然にも直前で回避している。
さんまは当日、東京でテレビ番組の収録の仕事があり、終了後は123便で大阪へ戻り、ラジオ番組の生放送へ出演する予定だった。しかし東京での仕事が早く終わった事で123便のチケットをキャンセルし、一つ前の便での移動に切り替えたことで難を逃れた。大阪到着後、ラジオで123便が墜落した事を知ったさんまは言葉を失い、番組内容を変更することだけを話した。以後新幹線で行ける場所への移動に新幹線を使うようになったという。

逸見政孝は夏休み休暇に入り、実家のある大阪へ123便で帰省する予定だったが、「新幹線のほうが安い」という息子の太郎の助言と妻の晴恵が飛行機が苦手であった事から東海道新幹線へ変更し難を逃れた。

稲川淳二は東京での仕事が終わった後、大阪へ123便で移動するはずだったが、東京での仕事の前から体調がすぐれず、翌日の朝一番の新幹線で大阪入りする事になり搭乗を回避した。しかし彼の友人であり、スタッフの和田浩太郎さんは、すぐにも別の用事で大阪に向かうために空港へ行き、たまたま大阪に予定よりも早く着くこの便の席が手に入ってしまい123便に搭乗、事故に遭遇し亡くなられた。

なお一般客も例外ではない。事故当日、当時羽田空港へ乗り入れる唯一の軌道系交通機関で、遅れることが珍しい東京モノレールに何故か遅延が発生し、123便に乗り遅れて助かった人が居たという。逆にキャンセル待ちが成功して123便に乗り、そのまま事故に遭遇して亡くなった乗客もいる。

一方事故前から日本航空を信頼しておらず、飛行機移動にいつも全日空を使っていた坂本九は、知人の選挙応援のためにこの日も全日空便で大阪へ行く予定だったが、運悪く123便のチケットしか確保できず、マネージャーと共に帰らぬ人となった。

その他

  • 阪神タイガース球団社長中埜肇がこの事故で亡くなり、亡き社長へ優勝を手向けようと関係者が奮起したことが、1985年の阪神タイガース優勝を招いたともいわれている。
  • 日本航空では便番号に123122を使用していない。永久欠番としている(全日空も羽田-那覇の臨時便のみに使用している)。
  • 日本航空では大田区の羽田空港整備地区に事故の遺品を展示した施設「JAL安全啓発センター」を開設している。普段は社員の研修に使用しているが、予約すれば一般人でも見学できる。
  • 日本の航空会社が起こした死亡事故としては最後であるが、日本国内で海外の航空会社が人身事故を何度か起こしている。その中で最大のものは1994年にチャイナエアラインが小牧空港で墜落炎上した事故(中華航空140便墜落事故)で264人が死亡した。また運航中に乗客乗員が死亡した出来事(急病人を除く)としては1999年7月23日の全日空61便ハイジャック事件で機長が刺殺されている(ただし、これは事故ではなく事件である)。なお航空事故死亡者にはカウントされていないが1997年に日本航空706便が乱気流に巻き込まれた事故で、重傷を負った客室乗務員は後に死亡している。
  • 生存した被害者、特に一家全員を失った少女に対する取材は執拗を極め、写真週刊誌も現場写真の撮影を優先するなどマスコミの取材の態度も問題点が多く、世間の非難を浴び写真週刊誌衰退の一因ともなった。



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