大韓航空機撃墜事件
だいかんこうくうきげきついじけん
該当機はアメリカのニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港を出発し、アンカレッジのテッド・スティーブンス・アンカレッジ国際空港を経由し、韓国のソウルに存在する金浦国際空港に向かう便だった。事故機には “I LOVE NEW YORK” というステッカーが貼られていた。
しかし経由地を離陸後、何故か経路を大きくそれ、カムチャツカ半島北東のソビエト連邦上空に入り込んでしまい、ソ連軍の警告射撃にも気づく事なくソ連軍の軍用機Su-15TMが発したミサイルを尾翼に受け、海上に墜落。
日本の自衛隊の無線傍受などの観測により007便が消息を絶った事やミサイル発射の指令が出ていた事は判明しており、日本の漁船が爆発音や燃料の臭いを確認していたことから撃墜されたのではという推測が早くから出ていた。
当初ソ連側はシラを切りつづけ日本海方面へ飛び去ったと嘘をついていたが、日本やアメリカの調査で既に撃墜されていたことは明白な状態であり、9月1日時点でアメリカは「当該機は撃墜された」と発表し無線の傍受テープの一部を公開。
さらに北海道近辺の日本の領海内でも破損した部品や遺体の一部が見つかりだし、ソ連ももはや言い逃れが出来なくなり、事件から5日後の9月6日にようやく撃墜した事実は認めたものの、007便がスパイ機であったかのような主張をし、謝罪等はなかった。
乗客は韓国人だけでなくアメリカ人や日本人、アジアの国々の人などの外国人も多く含まれており、3歳の子供も犠牲になっている。
水上や回収可能な水中にあった遺体や遺品もほとんどソ連側に回収され、証拠隠滅のため秘密裏に焼却されて闇に葬ったとされ、遺体や所持品の一部が日本の領海内に漂着し発見されただけであった。
漂着した遺体はいずれも原型を留めない程損傷が激しい一部分だけであり、その状況により乗員乗客269名は全員死亡したものと思われる。
当時大韓民国は(朝鮮民主主義人民共和国と分裂していた影響から)国連に加盟しておらず、またソビエト連邦との国交もなかった(北朝鮮と国交を結んでいた)ため国の重大事件を専らアメリカと日本にゆだねる羽目になっている。
韓国国内では当然激しい反ソ連デモが行われ、その怒りはソ連人狩りにも繋がった。アメリカもソ連のアエロフロートのアメリカ国内への乗れ入れが禁止され、近づいた場合は容赦なく撃墜すると表明した。日本もアエロフロート機の乗り入れ禁止は行われなかったものの、利用するなと圧力が掛かり、また韓国同様にソ連人狩りが行われた地域もあった。
また大韓航空は「1978年4月20日、ボーイング707がソ連領コラ半島上空を侵犯し、戦闘機によりミサイルを発射され、ソ連領内に不時着させられ、その結果2名が死亡、13名が負傷するという事件(大韓航空機銃撃事件)」を起こしており(この事件の発生原因は乗員の怠慢によるミスと言われている)、行方不明機に搭乗した被害者に対して損害賠償に応じない姿勢を見せたことから大韓航空も韓国国内で激しい非難を浴びたが、結局遺族は殆ど和解を飲まざるを得ない状態にされている。
また国連でもソ連に対するアメリカ側からの激しい非難が行われた。
その後、1984年にシカゴ条約(国際民間航空条約、民間航空機を対象とした航空機の法的地位および運行を円滑にするための法律)の改正が行われ、これにより「領空を侵犯した民間航空機を撃墜すること」は明確に禁止されることになった。
当時のソ連は今のロシアより遥かに情報封鎖の厳しい国なうえに、上記のように非協力的な姿勢をとり、重要な証拠となるブラックボックスを回収しながらそのことを秘密にしてきたため、様々な陰謀論が取りざたされた。
ソ連の崩壊により、回収されていたブラックボックスはICAO(国際民間航空機関)に提出され、分析が行われたが、機体が存在しないこと、関係者の証言が取れていないことにより完全な究明には至らなかったが、おそらくは慣性航法装置などの故障やパイロットの操作ミスであろうと推察されている。
またソ連の隠して来た様々な情報もその後明らかになっている。
撃墜にあたったソ連軍のパイロットはソ連崩壊後西側諸国メディアのインタビューに応じており、
「命令を受けた時点では『民間機を装ったスパイ機』と思い込んで撃墜したが、その後民間機であることに気づいた」
と語っている。