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特攻

とっこう

『「特」別「攻」撃』もしくは『「特」殊「攻」撃』の略称。
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概要

もしかして特効


本来は通常の(その戦闘における標準的な)手段以外の攻撃全般を指す言葉であったが、神風特攻隊の影響から戦死を前提とした自爆攻撃という意味で用いられるようになった。

致死率の極めて高い作戦は古今東西で繰り広げられており、あるいは被弾により生還の見込みがなくなった兵士が個人の判断で体当たり攻撃を敢行するといった事例は第二次世界大戦中のアメリカ軍にも見られたが、組織ぐるみで初めから生還を期さない攻撃を展開したのは旧日本軍のみであった。

その問題点は各所で語られ尽くしているため、本稿では航空機による特攻を中心に、同大戦における旧日本軍の狙いと戦術的意義を取り上げてゆく事とする。

戦術としての「特攻」

戦争が長引くにつれ悪化の一途を辿った環境の中、尋常な戦法では連合軍に対抗できないという認識はほとんどの日本兵に共有されるようになっていた。
さりとて白旗を振る」という選択肢はこの軍に無く、残された道は逆転か、玉砕かのいずれかであった。
そのような中で前線で戦う将兵を中心に、文字通り必死の体当たり攻撃の上申が多く大本営などに寄せられるようになる。どうせ死ぬのであれば、敵も道連れにしたいという事である。
また、「甲標的」の搭乗員黒木博司大尉と仁科関夫中尉らが発案した特攻兵器人間魚雷「回天」や、叩き上げの特務士官であった大田正一特務少尉が発案した人間爆弾「桜花」など、現場に近い技術者からも特攻に特化した兵器の売り込みがあり、多くは自らが先陣を切って使用するという熱心な申し出を伴っていた

むしろ「統率の外道と捉えた大西瀧冶郎のように、上層部の方に慎重論が根強く、そうした上申は却下されていた
……が、マリアナ沖海戦での大敗にもはやなりふり構ってられないという積極論がこれを凌駕し、特攻が開められることとなった。

この時点での米軍は「1944年夏までには日本軍は何処においてもアメリカ空軍に太刀打ちできないということが、日本空軍司令官らにも明らかになっていた。彼等の損失は壊滅的であったが、その成し遂げた成果は取るに足らないものであった。」などとほとんど勝利を確信していたが、大尉の関行雄(殉死後中佐に昇格)に率いられた零戦わずか5機が護衛空母1隻撃沈、3隻損傷という戦果を上げるや、評価が一変し、

  • 「日本軍に対する連合軍の海軍作戦の前途に横たわる危機の不吉な前兆を示していた」
  • 「日本航空部隊の実力に対して何の疑問もなかった。オルモック湾での特攻による戦果が日本航空部隊の実力に対する疑問を残らず拭い去った」
  • 「日本軍は自殺機という恐るべき兵器を開発した。日本航空部隊がその消耗に耐えられる限り、アメリカ海軍が日本に近づくにつれて大損害を予期せねばならない」
などと恐れるようになった。
またその後も続く特攻からの甚大な被害を見たフィリピン戦の最高司令官ダグラス・マッカーサー将軍は
  • 「もし奴らが我々の兵員輸送船をこれほど猛烈に攻撃してきたら、我々は引き返すしかないだろう」
とも危惧したが、やがてフィリピン駐留の部隊は航空機が尽きてしまった。逆に言えば、本当に最後の1機・最後の1人になるまで飛び込み続けたわけであり、そうした精神面に対する攻撃(言い換えれば大和魂的なものの誇示)もまた無視できない「副産物」となっていった


硫黄島の戦いでもわずか32機の特攻機が護衛空母1隻を沈め、正規空母1隻を大破するなど大戦果を上げたが、いよいよ連合軍は沖縄に進攻し、沖縄戦が開始された。連合軍は今までの特攻の損害に懲りて万全の特攻対策を講じてきたが、日本軍も全力特攻作戦となる「菊水作戦」を発令し、沖縄の海と空で太平洋戦争での最大の海空戦が繰り広げられた。
連合軍の特攻対策の主なものは従来の充実した対空砲火に更に「空母搭載の艦載戦闘機を増やし迎撃力を強化する」「機動部隊本隊より先行したレーダーピケット艦による特攻機の早期発見で、味方戦闘機隊を余裕をもって有利な高度と位置で特攻機を迎撃させる体制」などであり、直衛機があるとはいえ爆弾を搭載して運動性の低下した特攻機に有利な体制で迎撃できる戦闘機の効果は高く、陸海軍が投入した1800機以上の特攻機の攻撃による命中・至近弾を255機に抑える事に成功している。

日本軍も、アメリカ軍の目となるレーダーピケット艦を攻撃して警戒網を寸断する、特攻機を高空と低空に分ける、多方向からの襲撃などで迎撃機の分散を図ったりするなどの対抗策を講じ、レーダー対策としてもチャフの散布や、レーダーに探知されにくい海面すれすれの超低空飛行などで対抗。さらにレーダーピケット艦として運用されていた駆逐艦そのものを主目標とするようになり、特攻機対レーダーピケットの駆逐艦の激戦が繰り広げられる事となった。
大型艦なら持ちこたえる攻撃でも駆逐艦では一発で致命傷になりかねず、「棺桶」とか「ブリキ缶」などと呼ばれて揶揄された。艦隊司令は「朝方に士気旺盛で出撃した新品の駆逐艦が夕方には艦も乗組員もボロボロになって帰ってくる」と嘆き、駆逐艦の乗組員は「自分たちは標的代わりに沖縄の近海に浮かべられている」「なんで(主力の空母や戦艦もいるのに主力でない)俺達が目標なんだよ」と憤激し、しまいに「Carriers This Way(空母はあっち)」という看板を掲げる艦まで出てくる有様だった。
逆に言えば駆逐艦が被害担当艦になる形で空母などの主力艦に対する損害が減じたわけであるが、その穴埋めに機動部隊を護衛する駆逐艦を割く必要が生じ、そうなると今度は肝心の機動部隊の警護が手薄になるというジレンマを味わう事となった
沈みこそしなかったものの深刻な損傷を被って修理のために長期離脱する艦艇も大量となり、その中には「そのまま沈めてしまうよりはスクラップにして転売した方が多少は元が取れる」と判断されて屑鉄同然で本土に曳航されるものも多かった。
米軍側も撃沈前提で乗員救助用の舟艇や、除籍済みの廃艦を囮として置くなどの消極的な対策を取るようになり、それでも被害が続き必要な数の駆逐艦が確保できないと懸念した第5艦隊司令レイモンド・スプルーアンス提督らは、大西洋から全駆逐艦を沖縄に回して欲しいと要請までしている。

結局、フィリピン戦で650機突入した特攻機は沖縄戦では3倍の1,900機になり、有効率は26.8%から沖縄戦14.7%と10%以上も減ったが、出撃の母数が増加したので、沖縄戦での特攻による連合軍の被害も甚大なものになり、沈没32隻、損傷218隻、アメリカ海軍兵士の死傷は10,000人に上った。損傷艦のなかには死傷者666人を出して沈没寸前まで追い込まれた正規空母バンカーヒルや、日本軍相手に散々無双してきた「エンタープライズ(CV-6)」なども含まれており、多くが終戦まで戦場に戻ることができなかった。
また沖縄戦で大きく減じたとは言え特攻の有効率平均18.6%というのは、大戦末期に日本軍と連合軍の戦力差がついた状況下では高い確率であり、米軍の公式資料では、統計のある1944年10月(フィリピン戦で特攻が開始された時期)から1945年4月(沖縄戦初期)の間に米艦隊の視界内に入った日本軍航空機(従って米艦隊到達前に撃墜された機は含まれない)による通常攻撃の攻撃有効率はわずか2.7%であったが、特攻の攻撃有効率は27.6%となっており差は10倍以上であった。(米軍公式資料 Anti-Suicide Action Summary August 1945参照)

危うし!ピケット艦


特攻の意外な効果として次のようなエピソードもある。
九州各地から沖縄に向けて大量の特攻機が出撃し、米艦隊に襲い掛かって大損害を被っている状況に業を煮やした太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ元帥は、B-29本土空襲をしていた米陸軍航空隊戦略爆撃隊の第21爆撃機集団司令カーチス・ルメイ少将に、B-29を日本本土の大都市無差別爆撃任務から九州の特攻機基地への戦術爆撃任務に回すよう要請した。
東京大空襲の大成功から、日本の大都市への焼夷弾による低空からの無差別爆撃を強化しようとしていた矢先であり、ルメイはニミッツの要請に難色を示したが、陸海軍の連携を重視する米陸軍中央からの指示もあり、渋々ながらB-29による特攻基地への戦術爆撃を開始した。このB-29による九州特攻基地への戦術爆撃任務は1945年4月初めから5月下旬の約1か月半行われ、延べ2,000機のB-29が出撃したが、その間は都市に対する無差別爆撃が休止されており、都市の被害の軽減に寄与しているのである。
なおB-29は元々そのような任務が不得手なことや、日本軍の巧みな偽装や航空機の隠匿もあって、特攻機に大きな損害を与えることはできず、結局爆撃任務は失敗に終わった。

富安俊助中尉機(第六筑波隊)-1


何だかんだで特攻は連合軍に物理的、精神的な大ダメージを与えた。10か月に及ぶ特攻で日本軍は2,550機の特攻機と約4,000人の特攻隊員を失ったが、54隻の連合軍軍艦を沈め、350隻以上に大小の損傷を被らせ、17,000人~33,000人(諸説あり)の連合軍兵士を殺傷した。
こうして見てゆくと(現代の一般的なイメージに反して)戦術的には大成功と言っても過言ではなく、むしろ当時の大多数の日本兵にとっては希望以外の何物でも無いものに映っていた事が理解できるだろう。

だが戦局を挽回するまでには至らず、日本はついにポツダム宣言を受諾した。
結局戦略的には大失敗であった。軍事面からの批判は、その一点に尽きる。

FAQ

  • 特攻で撃沈した護衛空母は脆弱な構造だったのでは?
  • 一般の大型艦への有効打にはならなかったのでは?

確かに護衛空母は戦時設計で「通常の空母よりは」簡素な構造をしていたが、米軍が大戦中に失った護衛空母はたった6隻(太平洋戦域5隻そのうち特攻で「セント・ロー」「オマニー・ベイ」「ビスマルク・シー」3隻)。
サマール島沖海戦では「カリニン・ベイ」が20発以上の戦艦や重巡の巨弾を被弾したが致命的な損傷には至らず(これは薄い装甲であった為に徹甲弾が船体を貫通して外で爆発するだけで船体内部被害が少なかった事も原因)、その後も任務を継続しており、「ホワイト・プレーンズ」は鳥海(重巡洋艦)と撃ち合って、逆に鳥海を大破させるなど非常な難敵で、どれも米軍お得意の「鬼ダメコン」も完備していた。

そもそも特攻が本格化した1944年以降で、日本軍が航空機の通常攻撃で撃沈できた巡洋艦以上の大型艦は軽空母プリンストン」のたった1隻。これも消火活動の失敗などによる誘爆が主因であり、他には脆弱なはずの護衛空母すら撃沈できなかった。
装甲で固められた戦艦装甲空母などには効果が薄かった事も事実であるが、

  1. 被害は水線下ではなく上部構造物のみになりやすく、突入角度も浅くなりがちでバイタルパートを装甲で纏った艦相手では貫通力に劣る。
  2. そのような艦艇に有効な魚雷は最早使用できない(飛行機は潜れない上、魚雷は爆弾より大きく重いので運動性が低下し、辿り着く前に撃墜される)。
  3. 確実にパイロットと機体が失われるので反復攻撃ができない。
と、末期の戦局ではそもそも取れる手段が限られており、それ以前の戦果との単純比較はできない。

  • 駆逐艦「ニューコム」や「ラフェイ」などは特攻機が3~4機が命中しても沈まなかったが?
「アブナ・リード」「ワード」「ロング」「オバーレンダー」「キャラハン」など1機で沈没しているし、「ウィリアム.D.ポーター」のように「命中こそしなかったが(※)」結果的には撃沈したものもある。要するに当たり所が良かっただけと見るのが妥当であろう。
※:至近距離の海中で機体が爆発した結果、その衝撃波で海面から持ち上がる→再び海面に叩きつけられるという打撃により機関室に浸水を生じさせ最終的に転覆させたという。本来上部構造物を破壊しがちな特攻機が水線下に打撃を与えて沈めた例は珍しい。

特攻隊



  • 飛行機ごとぶつかれば機体がクッションのようになって衝撃力を緩和してしまうのでは?
運動エネルギーの「質量に比例し速さの2乗に比例する」という法則からすれば、爆弾単体より、その数倍は質量のある機体も同時にぶつけた方が、単純には運動エネルギーが大きくなる。つまり角度や速度が同じであれば、爆弾単体より爆弾+特攻機の方が運動エネルギーは大きいことになる。
何より、特攻機の中には航空燃料が満載されていたので、命中すると「爆弾とナパーム弾が同時に命中したようなもの」と言われていた。そのため特攻を受けた艦艇の多くが炎上し、大量の水兵が重篤な火傷を負い、運よく生き残ってもダメージの大きさや後遺症から再起不能となるケースが多々あった。
(よって、「片道分だけの燃料を入れて飛ばした」という俗説はほぼ後世の創作と見ていい。入れれば入れるほど被害を拡大できるのだから。)
統計では1機の特攻機が連合軍艦船に命中する度に40名の連合軍将兵が死傷したとのことであり、米戦略爆撃調査団報告書でも「特攻は通常攻撃より効果が大きい、その理由は爆弾の衝撃が飛行機の衝突によって増加され、また航空燃料による爆発で火災が起こる、さらに適切な角度で行えば通常の爆撃より速度が速く、命中率が高くなる」と総括されている。

  • 機体の空気抵抗により、加速度が落ちるため衝撃力が弱まったのでは?
爆弾単体よりは特攻機の機体の空気抵抗によって命中時の速度が落ちるケースがあるというのは事実だが、それは高空から投下した場合の話。
日本軍による研究で、250㎏爆弾を投下した場合、高度2,000mからでは、命中時の時速は1,027km/h、1,000mからでは時速860km/h、500mからでは時速713km/h、特攻機が的確な角度で急降下した場合の命中時の速度が720km/hとなっている。
通常急降下爆撃は700m~400mの高度で投弾されるため、特攻機の機体の速度は急降下爆撃で投下した爆弾単体の速度とほぼ等しい計算となる。この条件下においては貫通力の観点でむしろ水平爆撃に比べ有効と言えた。

そもそも当時の爆弾は基本的に自由落下である。的確な角度で投下しなければ敵艦に掠りもせず、そのような腕を持ったパイロットは既に失われていた。だからマリアナ沖海戦は「マリアナの七面鳥撃ち」になったのである。
一方、最後まで操縦できる特攻機はさまざまな角度や速度で敵艦に命中できた。もちろんそれも理論上の話で、不慣れなパイロットによる不適切な操縦で爆弾単体よりも劣る結果に終わった例は多かったが。

  • 特攻は志願兵によって行われたというが、いくらなんでも多すぎるのでは?
残念ながら現代で言う「パワハラ」や「同調圧力」にあたる事案が多発する、相当グレーゾーンな選考環境にあった事は確かである。
開始と同時に定められた「妻帯者、一人っ子長男などを除いて厳選する」という自主規制も、当初から形骸化していたも同然であった。

だが、それを差し引いても熱烈な志願者は多かった。
士官学校卒の現役士官は「戦争が危急の際は率先して士官学校出の将校が危険な任務に就くべきと叩きこまれており、それが現役士官の取る道と考え、全員が志願した」などと、責任感による志願を行う傾向が強かった。
学徒出陣の予備士官においても、「我々は軍人精神を体得した者とは言えないが、一般人として戦況を痛感し、特攻が最も有効な攻撃法と信じた」というまさに合理主義的な勘定や、「我々の時代は大学に進学するのはエリートであり、いままで世間の人たちから大事にしてもらってきた厚意に報いたい」というある種のノブレス・オブリージュが働いており、必ずしも士気は低くなかった。
中には「特攻隊員に志願しない者は航空機に乗せてもらえず、防空壕掘りや代用燃料の松根油の原料となる松の根っこ掘りに回されるという噂が広がり、自尊心から全員が特攻隊員を志願した」という筑波海軍航空隊の訓練生のような事例もあった。
だからこそ、彼ら自身が「パワハラ」や「同調圧力」の加害者になった例もまた多かった。

そもそも旧日本軍では、白旗を振らない=「生きて虜囚の辱めを受けず」という精神は末端に至るまで広く共有されており、特攻どころか戦局の悪化以前から死亡率は高止まりしていた
そこから特攻に至るまでのハードルは、現代よりずっと低かったであろう事は想像に難くない。
戦国時代の戦闘が現代の常識では理解できないように、彼らもまた現代の感覚を超越した死生観の下に戦っていたというのが現実なのだろう。

  • 軍が広く支給していたというヒロポン実質覚醒剤であるが、それが影響したのでは?
ヒロポンの支給は事実であるが、当時の目的は専ら疲労回復や夜間視力の向上のためであり、しかも後者は医学的には何の根拠も無かったという水準であった。
覚醒剤としての「副作用」が発見されるのは戦後の事であり、それも一般労働者の乱用を受けてである。幸か不幸か薬品の生産力も乏しかった日本では、軍関係者にすら十分な量が行き渡っていなかったとする指摘もあり、薬漬けにして意のままに操るなど到底夢物語であった。
限りあるヒロポンは工場に優先的に振り向けて昼夜を問わずに働かせるという自転車操業じみたサイクルを形成しており、それによって労働者の間で使用が習慣化したという流れのようである。

当時の評価

昭和天皇は、特攻開始直後に戦果を奏上されると「かくまでせねばならぬとは、まことに遺憾である。神風特別攻撃隊はよくやった。隊員諸氏には哀惜の情にたえぬ」と戸惑いも見せていたが、悪化する一方の戦局のなかで、ほぼ唯一戦果を挙げている特攻に期待を寄せるようになり、硫黄島の戦いで特攻が大戦果を上げたと奏上されると、特攻での反復攻撃を命じ、沖縄戦では毎日もたらされる特攻の戦果報告の奏上を心待ちにしていたという。
しかし、それは昭和天皇が軍の最高指揮官たる大元帥としての一面であり、ある日、侍従武官が地図を広げて陛下に戦況を説明していた際に、昭和天皇が特攻隊が突入した地点に深々と最敬礼をしているのを見て、侍従武官は昭和天皇が複雑な心境を耐えている様子を察している。戦後に「特攻作戦といふものは、実に情に於て忍びないものがある、敢て之をせざるを得ざる処に無理があった。」と回想している。
奥日光に疎開していた明仁皇太子(後の125代天皇、現上皇)は、特攻の講義を受けて「それでは人的戦力を消耗するだけでは?」と疑問を呈し、その質問に誰もが返答に窮したという。

8月15日


主な目標であった米軍関係者は、純粋に軍事的観点のみに限れば「冷静で合理的な軍事決定」として肯定的な評価をする傾向にある。
特攻を受けた現場の兵士は兎も角、特に特攻と相対した戦争当時の米軍高官らや、軍事評論家や研究家の間では、有効な戦術であったとの評価が一般的である。あるアメリカの軍事評論家は「日本人には受け入れにくい意見ではあるが」と前置きをしたうえで「もっと早くから特攻を始めるべきであった」と指摘している。
所詮他人事であると言えばそれまでだが、ある意味、合理性を尊ぶアメリカらしい思考ともいえる。

終戦直後に発生した、インドネシアベトナム独立戦争では、工業技術に勝る宗主国の軍隊相手に、文字通り命を武器に刺突爆雷などによる自殺的な攻撃さえも手段として用いたほか、独立を勝ち取るためとはいえ宗主国軍をはるかに上回る人的被害を出している。
また、第二次世界大戦のソ連一国の人的被害が2800万人(!)である。

裏を返せば、どんな非道な戦法であれ勝てば官軍だったのである。

「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つ事が本にて候」-朝倉宗滴

旧日本軍に必要だったのは、武士の精神は武士の精神でも、江戸時代ではなく戦国時代の武士の精神だったのかもしれない。

戦後に日本に進駐した連合軍は特攻について徹底的に調査し

  • 「44ヵ月続いた戦争のわずか10ヵ月の間にアメリカ軍全損傷艦船の48.1% 全沈没艦船の21.3%が特攻機(自殺航空機)による成果であった」
  • 「アメリカが(特攻により)被った実際の被害は深刻であり、極めて憂慮すべき事態となった」
  • 「日本が(特攻で)より大きな打撃力で集中的な攻撃を持続し得たなら、我々の戦略計画を撤回若しくは変更させ得たかもしれない」
  • 日本人によって開発された唯一の、最も効果的な航空兵器は特攻機(自殺航空機)であり、戦争末期数か月に日本全軍航空隊によって、連合軍艦船に対し広範囲に渡って使用された」
  • 十分な訓練も受けていないパイロットが旧式機を操縦しても、集団特攻攻撃が水上艦艇にとって非常に危険であることが沖縄戦で証明された
  • 「この死に物狂いの兵器は、太平洋戦争で最も恐ろしい、最も危険な兵器になろうとしていた。フィリピンから沖縄までの血に染まった10ヶ月のあいだ、それは、我々にとって疫病のようなものだった」
などという報告書を作成している。
また、米軍の高官らも
  • 「神風特別攻撃隊という攻撃兵力はいまや連合軍の侵攻を粉砕し撃退するために、長い間考え抜いた方法を実際に発見したかのように見え始めた」
  • 「沖縄戦は攻撃側にもまことに高価なものであった・・・艦隊における死傷者の大部分は日本機、主として特攻により生じたものである」
(太平洋艦隊司令チェスター・ニミッツ元帥)
  • 「神風特別攻撃隊が沖縄の沖合で、アメリカ艦隊にあたえた恐るべき人命と艦艇の損害について非常に憂慮している。日本本土に向かって進攻することになったならば、さらに大きな打撃をうける事になるであろう」
  • 「沖縄に対する作戦計画を作成していたとき、日本軍の特攻機がこのような大きな脅威になろうとは誰も考えていなかった」
(第5艦隊司令レイモンド・スプルーアンス提督)
  • 切腹の文化があるというものの、誠に効果的なこの様な部隊を編成するために十分な隊員を集め得るとは、我々には信じられなかった」
(第3艦隊司令ウィリアム・ハルゼー提督)
  • 「大部分が特攻機から成る日本軍の攻撃で、アメリカ側は艦船の沈没36隻、破壊368隻、飛行機の喪失800機の損害を出した。これらの数字は、南太平洋艦隊がメルボルンから東京までの間に出したアメリカ側の損害の総計を超えている」
(連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥)
  • 「沖縄戦で艦船90隻が撃沈され、または甚大な損害を受けた。この作戦は、大戦の全期間を通じ、もっとも高価についた海軍作戦となった」
(アメリカの著名な歴史研究家サミュエル・モリソン少将)
などと、個々の思いこそあれその脅威が大きかった事は一様に評している。

特攻に痛撃を被った米軍は、その対策として対空打撃力強化のために艦対空ミサイルの開発を開始、またレーダーピケット艦が多大な損害を被ったので、早期警戒網を艦船ではなく航空機に担わせることにして、強力なレーダーを搭載した早期警戒機が開発された。これらは現代においても米海軍の防空戦術の要となっており、特攻が米海軍の防空戦術の近代化を促したと言っても過言ではないだろう。
また、1999年5月にまとめられたアメリカ空軍の「精密誘導兵器」に関する論文では、特攻機を「現代の対艦ミサイルに匹敵する兵器」と位置付けて、「対艦空中兵器として最大の脅威」「特攻機は比較的少数であったが、連合軍の作戦行動に大きな影響を与えており、実際の兵力以上に敵に多大な影響を及ぼす現代の対艦ミサイルのような存在であった」と結論付けている。

とは言え、その合理的な判断を尊ぶ当時のアメリカ首脳陣が、究極に安全な特攻対策として何を決断したか……
そう、核兵器の投下である。

人類の歴史で唯一変わらなかったもの。


外道には外道を。それが総力戦の末路であった。

その後の「特攻」

イランイラン・イラク戦争において組織的な自爆攻撃を指揮・運用・実行した。当時のイランはイラン革命の混乱からイラクに対し劣勢であり、対抗手段の一つとして自爆攻撃を採用した。

イランの特攻の特徴は、革命に勝利したのが敬虔なイスラム教の信者であるという事を最大限に利用していた点にある。
宗教指導者達は死後の天国行きと祖国の勝利を確約すると、「天国への鍵」と言われる金属製乃至プラスチック製の「」をシンボルとして渡し、バイク自動車、時には徒歩によって実行させた。
主に革命防衛隊の中から志願者を募っていたらしく、構成員の殆どは10代の若者だったという。

これらの自爆歩兵と人海戦術により戦況を一時好転させるが、イラク軍がやがてソ連流の火力による突撃破砕戦術を身につけると効果を失っていった。
しかし、戦術自体はイスラム世界を中心に各地に流出して継承され、それらが現在も各地で発生する自爆テロに繋がってゆくのである。
2001年ニューヨークで起こった9.11旅客機追突や2015年11月13日に起こったパリ同時多発テロの自爆攻撃を「Kamikaze」と呼ぶ報道も多々あった。

ただし、現代の日本政府や自衛隊はもちろん、かつての特攻関係者の多くもそれらを特攻の系譜とは看做しておらず、同一視される事に不快感を覚える傾向がある。
手法に洗脳的要素が多分に含まれる点、被害者も「加害者も」民間人が含まれる事案が多々ある点は特に嫌悪しており、彼らはむしろ本質的に異なるものであると主張している。
これは単なる大和魂ではなく、「正規軍から正規軍に対する攻撃」は戦争の重要な構成要件だからである。厳密には「正規の服装で」という規定も含まれるが、これも旧日本軍は最後まで遵守していた。その限りは自殺攻撃を禁止する戦時国際法は無く、実際特攻自体が原因で裁きを受けた関係者は存在しないのである。
だが、それを目の当たりにした者が抱く恐怖とその行為を理解しがたい心情は、当時、戦争とはいえここまでするのかと特攻隊の攻撃を前にしてアメリカ軍将兵が抱いたであろう諸々の感情に近いと言え、その意味ではそれらの戦術もまた成功しているのかもしれない。


ちなみに現代では技術と資金さえ注ぎ込めば、標的を見つけるや否や本体ごと突っ込んで自爆するドローンなどという兵器も作れてしまう。
これらはそれが本務であるので「特攻」には含まれず、「徘徊型兵器(参考)」と呼ばれる。

評価関連イラスト

桜花


特攻の零
零戦



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