義烈空挺隊
ぎれつくうていたい
義烈空挺隊が結成されたのは昭和19年11月のことである。
当時サイパン島がアメリカ軍の手に落ち、B-29爆撃機による首都圏への直接爆撃が可能になってしまった。
そこで空挺隊を乗せた航空機で同島の飛行場へ強行着陸し、敵軍用機への破壊工作を行うという奇襲作戦が計画された。
空挺隊の隊長には挺進第1連隊から奥山道郎大尉が選ばれ、空挺隊員126名の他、中野学校出身の諜報員10名の計136名から編成され、「神兵皇隊(すめらたい)」と名付けられた。
諜報員は強行着陸後、残置諜報員としてサイパンへ潜入する極秘任務を与えられていた。
他の隊員たちも破壊工作の後は潜伏してゲリラ戦を行うこととされていたが、敵地のど真ん中へ降りるため最終的に生還が期待できないのは明らかで、奥山大尉もその覚悟だったという。
装備は帯状爆薬や破甲爆雷などが用いられたが、巨大なB-29に生身で爆薬を仕掛けるにはコツが必要で、隊員たちは原寸大の模型を使って訓練を繰り返した。
確実に爆破するため自爆を提案する隊員もいたが、奥山大尉は可能な限り長く生き延びて戦い続け、敵により多くの損害を与えるべきだとして却下した。
空挺隊を運ぶのは第6独立飛行隊で、この部隊はマリアナのB-29基地攻撃のため編成された3つの独立飛行隊の1つだった。
この作戦に当たって装備機体を百式司偵から九七式重爆撃機二型に変更し、人員も大幅に入れ替えられ、浜松教導飛行師団から選出された者が中心となった。
隊長には鉾田教導飛行師団から諏訪部忠一大尉が選ばれ、計32名の飛行兵が参加することになった。
強行着陸後は彼らも奥山隊と共に生身で突撃するものとされたが、後に「飛行兵はB-29を乗っ取りサイパンを離陸、帰還せよ」という鹵獲作戦に変更された。
これは撃墜したB-29の機内から操縦マニュアルを回収できたためで、飛行兵たちにはこのマニュアルを使い操縦教育が行われた。
当初独立飛行隊の飛行兵は帰還の望み無く、敵艦などの大型目標に体当たりできるわけでもなく士気が上がらなかったが、鹵獲作戦に変更されたことで士気が大いに上がったという。
もしこの作戦が成功し、1機でも奪取して戻れていたら、実に痛快にして大いに一同の武名を挙げたばかりか、日米双方で何度も映画化されただろうと思われる。
こうして総勢168名となった神兵皇隊は、昭和20年に出撃基地となる浜松飛行場へ移動し、「義烈空挺隊」に改称された。
しかし長距離の洋上飛行は熟練パイロットでも困難であると判断され、なかなか出撃の命令は出ず、さらに中継基地となるはずだった硫黄島が連日の爆撃を受け、サイパン攻撃は事実上不可能になってしまった。
後に硫黄島の戦いが始まると、攻撃目標がサイパンから硫黄島の千島飛行場に変更された。
しかし戦況の悪化からこれも中止となり、結局義烈空挺隊の投入は沖縄戦まで待つこととなる。
昭和20年5月20日、米軍に占領された沖縄の読谷飛行場へ義烈空挺隊を突入させることが決まった。
これが義号作戦である。
大本営としては鍛え抜かれた特殊部隊を、効果があるか怪しい作戦で消費することに反対だった。また部隊内でも沖縄の現状を考慮すれば、生還の見込みのない突入作戦をするくらいなら爆撃すればよい事と否定的な意見も出ていた。
しかし身を捨てる覚悟を決めたにもかかわらず再三に渡り作戦を延期された奥山大尉らの訴えもあり、作戦実行が決定されたという。
攻撃は5月24日で、それを援護するため陸海軍双方の爆撃隊が読谷飛行場に夜間爆撃を行った。
義烈空挺隊は熊本の健軍飛行場から出撃したが、4機がエンジントラブルなどで引き返すこととなった。
同日22時11分、諏訪部機より「オクオクオク ツイタツイタツイタ」という突入を知らせる電文が入り、偵察の重爆は「着陸成功を示す赤灯が北飛行場(読谷)に4個、中飛行場(嘉手納)に2個点灯した」と報告している。
一方米軍の記録では読谷飛行場へ着陸して戦闘員を降ろしたのは1機のみで、残りは対空砲火で撃墜されたとなっている。
米軍は義烈空挺隊による損害を以下のように記録している。
全損:9機
損傷:29機
人員
戦死:10名(内8名は対空砲火を受けた機体の特攻によるもの)
負傷:18名
ガソリン70,000ガロン焼失
強行着陸に成功したのは1機だけだったにせよ、夜間に奇襲を受けた米軍は大混乱に陥り、従軍記者から「地獄のよう」と評されるほどだった。
上記の損害も義烈空挺隊によるものだけでなく、パニックを起こしたアメリカ兵が無闇に撃ちまくったことによる被害もかなり含まれている模様。
米軍パイロットの中にはこの襲撃で片足を失うなど重傷を負った者もおり、また空挺隊員の遺体からはパイロットたちの宿泊するテントまでが記された詳細な地図が見つかり、驚いた米軍はスパイ狩りや占領下の住民の管理にいっそう神経を使う羽目になった。
生き残った隊員は揚陸物資への破壊工作とその後のゲリラ戦を行うため海岸へ移動したとされるが、海兵隊の増援が到着し翌日には掃討された。
米軍からは成功したコマンド攻撃として扱われているが、犠牲に見合う戦果とは言い難い。また沖縄の第32軍司令部はその攻撃に感謝する者は多かったが、沖縄で徹頭徹尾防禦に徹した戦法を主張してアメリカ軍を苦しめた参謀の八原博通大佐は、感謝しつつもアメリカ軍占領下にある北・飛行場を攻撃するよりは小禄飛行場に援軍として来て欲しかったとも述べている。
なお、奥山大尉には出撃前に少佐昇進の内示が出ていたが、彼が少佐の階級章を付けて戦う機会は無かった。戦死後さらに二階級特進し、大佐となっている。
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